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清代初期のモンゴルにおける男丁隠匿とそれに対する清朝の刑罰

ドキュメント内 清代初期のモンゴル法とその適用 (ページ 70-89)

1節 先行研究と問題の存在

17 世紀にモンゴルの支配者として登場した清朝は,早くとも崇徳元年(1636)に支配下 のモンゴルに対してソムの編成を行い,すべての男丁(er-e)を比丁冊といった名簿に記入 し,その原本を中央政府に保管した。これは清朝のモンゴルに対する人口統計のはじまり であり,すぐに制度化され,基準を満たす男丁は比丁冊に登録されていった。この男丁と は一般的に平民および奴隷(boγol)をさす。通常,清代の男丁の登録をマンジュ語で haha celembi,中国語で「比丁」というが,モンゴル語ではer-e tögelekü,er-e kemjikü, er-e toγačaqu のようにさまざまな表現がある。男丁の名前や所属が記入された檔冊のことをマンジュ語

でhaha i dangse,モンゴル語でer-e-yin dangsa,中国語で「比丁冊」あるいは「丁冊」とい

う。本章では,岡(1998)にならい「比丁冊」という表現を利用する。男丁登録の過程に は,中央政府は関与がせず,在地モンゴル貴族だけがこの任務を担った。崇徳年代から清 朝はモンゴル貴族に対して所属の男丁を正確に登録するように求めたが,それは順調に行 われず,所属の男丁の存在を隠匿し,比丁冊に記入しないモンゴルの貴族が度々中央政府 に発覚されていた。そのゆえ,男丁隠匿を防止するため,清朝は明文化した法規を定め,

違反者を処罰することを決定した。

男丁隠匿については,清朝の男丁隠匿に関する「蒙古例」1を紹介・分析した島田(1982:

203-235)の研究を除いては,そのほかの詳細な研究が見当たらない。異なる法典に所在す

る法規や異なる時期に制定された法規の関係まで検討を加えた島田の研究は高く評価され る。しかし,史料不足などにより男丁隠匿に関する規定の制定された正確な時期や成立の 経緯,さらにいえば,男丁隠匿事件がいかに発覚され,いかに処理されていたかがという 問題は,また充分に解明されておらず,大きなテーマとして残されている。そのため,本 章においては,まず,清代初期に制定された男丁隠匿に関する「蒙古例」を説明し,次に,

近年出版された Daiycing gürün-ü ekin-ü üy-e-yin Гadaγadu mongγol-un törö-yin ǰasaqu yabudal-un yamun-u manju mongγol ayiladqal-un debter-üd(『清朝前期理藩院满蒙文题本』, 以降「理藩院題本」とする)という史料集から順治年代や康煕年代に発生したいくつかの 男丁隠匿告発事件に関する史料文書を取り上げ,男丁隠匿事件の発覚から処理までの実態 および男丁隠匿に関する「蒙古例」の成立過程を吟味したい。

2節 清代初期における男丁隠匿禁令

現在までの男丁隠匿に関する知識は,主に清朝の制定したいわゆる「蒙古例」に由来す る。この「蒙古例」については,島田(1982)による詳細な研究がある。同氏(1982:203-235)

1 島田(1982 : 1),萩原(2006 : 37)によれば,「蒙古例」とは清朝政府によって制定されたモンゴル人専

用の法律のことである。しかし,最近では清朝政府の制定した規定とは,まったく異なるモンゴル従来の 定めが清代初期のモンゴル社会に機能していた例が確認されている(王:2016)。従って,「蒙古例」は清 代モンゴルにおける法規すべてを指すものではない。

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の研究でも明らかであるように順治年代までモンゴルの男丁隠匿に関する規定は 3 条しか ない。それを以下に紹介する。

A 「国初定」外藩壮丁三年一次編審,有隠丁者,所隠之丁入官2。隠丁至十戸者,管旗王,

貝勒等按罰一戸。出首人,令赴願往旗分。

B 「順治四年題准」編丁時数目開載不全,及後其主雖自声明遺漏,亦以隠丁治罪。

C 「順治十二年題准」外藩蒙古首告隠丁者,准在編審之年首告,二三年以後首告者不准。

3

Aを和訳すれば以下の通りである。

「外藩モンゴルの男丁を 3年に 1 度登録する。隠匿した男丁がいれば,それを政府に収 容する。隠匿した男丁が十戸に至ったら,10 戸毎に,管轄する王,ベイレたちから罰とし て1戸を徴収する。告発者を希望の旗にいかせる。」

この規定は次の 4 つの内容からなる。まず,男丁を隠匿した者に対して,登録しなか った男丁の身柄を隠匿者から取り上げる。次に,隠匿された男丁については,これを政府 に納めた。第 3 に,該当のザサグに対して,隠した戸数に応じて処罰した。すなわち戸数 10戸ごとに一戸を没収した。第4に,告発者に対して,現所属先から離れて別のところへ と行くことを許した。

一方この規定において,不明な点もいくつか存在する。まず,「隠丁者」なる者の生体で ある。文脈から見れば,それは必ずしも「管旗王,貝勒等」とは限らない。それ以外の人 物も含まれる。島田(1982 : 206-208)がこの点についてどのように考えているのかは明確 ではない。次に,ザサグに対する処罰である。それは,男丁隠匿罪として課されたものな のか,あるいは管理責任を負わせたものなのかが,なお不明である。この点に関しては,

島田(1982:222)が男丁隠匿罪に対する処罰として考えた。第3に,隠匿された男丁の人 数が10に至らない場合において,ザサグを処罰するかどうかは不明である。この点につい ても島田は明言しなかった。

Bを和訳すれば以下の通りである。

「男丁を登録して比丁冊に記入するさいに,人数の記入が不完全だった場合,たとえ後 で当該の責任者(=其主)がもうしたてをしても,男丁隠匿とみなして処罰する」

基準を満たす男丁を比丁冊に記入せず,後に男丁隠匿者が自ら自分の過ちを報告しても,

2 漢語の「入官」はマンジュ語でfafun de gaimbi,モンゴル語でǰasaγ-tur abquという。罰として徴したもの 清朝政府におさめるという意味をあらわす。しかし,崇徳8年のモンゴル法典を修正・改定して編纂した 康煕6年の『蒙古律書』および康煕30年代に編纂された『理藩院律書』では,罪のある貴族に対して「入 官」のかたちで徴収したものを清朝政府ではなく,当該貴族のザサグおよび合同裁判をおこなう別の旗の ザサグに分配すると定めた。『理藩院律書』中の「入官」についてはHeushert1998: 147-157)に詳しい。

3 A, B, Cのいずれも『大清会典』(康煕朝)「丁冊」から引用した。

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それを認めず,男丁隠匿罪に処するというのはこの規定Bの趣旨である。島田(1982:218) もこの規定を紹介したが,規定中の「其主」というのは一体誰に当たるのかについては明 言しなかった。文脈から「其主」とは,登録しなかった男丁の主=其主であるに違いない。

清代モンゴルの旗は,ザサグの下にいくつかのソムが置かれ,ザサグが管旗章京,梅倫章 京,佐領を通じて,ソムを管理するという構造であるとすれば,この「主」というのはザ サグほかに考えられない。

Cを和訳すれば以下の通りである。

外藩モンゴルの男丁隠匿を告発したいなら,比丁した年に告発せよ。1年,2年後の告発 は認められない。

島田(1982 : 731)も紹介したようにこのCは,男丁隠匿罪の告発に関する規定であり,

比丁をした同年のみの告発が許された規定である。ではなぜ,比丁した年以後の告発は認 められないのか,その理由について島田は考慮に入れなかった。無論この規定からその理 由を知ることができない。このように,現状では,基本的な史料として知られている「蒙古例」

の意味さえ充分に解明されていないままである。

3節 清代モンゴルにおける男丁隠匿に関する裁判事例

3.1. 事例1―アバガ旗に発生した男丁隠匿事件

これは,日付が順治11年7月20日(1654.8.31)となっている理藩院の題本4に記された 男丁隠匿事件である。題本中には,訴訟の行われた年月日は書かれていない。外藩モンゴ ルにおいて順治9年,順治12年,順治15年,順治17年に会盟が実施され,比丁が行われ た。題本が上奏された順治11年に比丁が行われたかどうかは不明であるものの,順治9年に 発生した事件ではないかと考えられる。

本件において,ジョリグト郡王(勇気のある郡王)セルゼンが管轄するアバガ旗のボデ ィジャブというタイジ(Budasihib taiji)身分の者が所属の男丁を隠匿したとして訴えられた。

訴訟の開始について以下のように記されている。

マンジュ語テキスト

Abaga i jorigtu jiyun wang ni Budisihib taiji i Jaisang nirui Sanjin, Jamsu nirui Tulu, Sanjin nirui Sereng, Erincin, Jamsu, ere sunja niyalma Budisihib taiji be orin juwe haha be gidafi, morin, ihan, honin i adun de sula yabubumbi….seme jurgan de habšanjihabi.

和訳

アバガのジョリグト郡王のボディジャブ・タイジのザイサンのソムのサンジン,ジャム ソのソムのトロ,サンジンのソムのセレン,エリンツェン,ジャムソ,この 5 人が,ボデ ィジャブ・タイジは22名の男丁を隠匿し,馬,牛,羊の世話をさせていると理藩院に訴え

4 「理藩院題本」第1巻,pp. 81-85

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これは告発によって発覚した事件であり,告発者 5 人の身分はいずれも箭丁だった。し かもボディジャブ・タイジが管轄するソムの箭丁身分の者だった。告発を受理した理藩院 は,役人 1 名を派遣し,ボディジャブ・タイジ,告発者,証人をジョリグト郡王の所に集 めて,対質尋問を行うことに決定した。その結果,告発者 1 名の供述が男丁隠匿事件と関 わったが,そのほかの人の供述は,箭丁に家畜の世話をさせたこと,箭丁の家畜を強引に 徴収したことなどの貢租・賦役に関する内容で,男丁隠匿事件とまったく無関係の内容だっ た。これら箭丁は,ボディジャブ・タイジの家畜の世話をする賦役がなくなるように,男丁 隠匿を明るみにだすことは,彼らの本当の目的ではなかったように考えられる。審理の結 果,ボディジャブ・タイジは男丁20名を隠匿したことを認め,さらに箭丁に家畜の世話をさ せていたことをも認めた。事実関係を確かめた理藩院は以下の判決案を順治帝に上奏した。

マンジュ語テキスト

haha gidaha be yargiyan. Budisihib taiji, jalan i janggin Jamsu, nirui janggin Jaisang, Jamsu, Buiburi, Sanjin esede weile bihe. Še de gidabuha be dahame weile akū obufi, gidaha orin haha i dangse de nonggime arame, indahūn aniya encu gurun ci ukame jihe Dari be uyuci aniya otolo jurgan de alanjihakū. Dele wesimbuhekū gidaha turgun de toktobuha fafun i bithei songkoi sunja booi jušen be gaifi, jorikto jiyūn wang de bume... 中略... gerci i hoki be ini gūsai dolo cikangga bade unggime beidehebi.

和訳

男丁を隠匿したのは事実であるため,ボディジャブ・タイジ,扎蘭章京ザムソ,佐領ザ イサン,ザムソ,ボイボリ,サンジンらに罪を言い渡すべきだが,恩赦の公布5により,免 罪となる。隠匿された男丁の20人の名前を比丁冊に追記するほか,戌の年(1646)に国外 から逃げてきたダリ6を9年間理藩院および皇帝に報告せずにいたので,定められた律書に 従って,罰 5 戸にし,ジョリグト親王に引き渡す。ダリを政府に納め,男丁が不足してい る旗に与える。告発者らの者を管轄旗内の望む先に所属させる。

この判決案の内容をⅠに紹介した「蒙古例」と比較して見よう。まず,男丁隠匿罪が言 い渡されたのは,ボディジャブ・タイジおよび男丁登録を担った扎蘭章京 1名,佐領 4 名 の 5 人である。彼らが犯したのは男丁隠匿罪だった。しかし,この罪が時の恩赦により免 罪されたため,処罰すべき具体的な内容は記されなかった。次に,未登録の男丁に関して,

その名前を原比丁冊に追記ように決定した。隠匿されていた男丁をボディジャブ・タイジ から奪って清朝政府に納めようとしなかった点は,「蒙古例」の規定と異なる。第3に,告 発者に対し,旗内における転籍,すなわちボディジャブ・タイジの所属から他の王公タイ

5 皇帝の誕生日や特別な日などに皇帝が全国向けに恩赦を公布する。順治11年の621日(1654.8.3)は 皇太后が尊称を授けられたため,恩赦だされた(『清内秘书院蒙古文档案汇编』第4 : 125-152)。従っ て,事例1はこれ以降の訴訟と考えられる。

6 この事例のなかに,ダリはハルハからボディジャブ・タイジの所に逃げてきた逃亡者であると記されて いる。

ドキュメント内 清代初期のモンゴル法とその適用 (ページ 70-89)