第三章 生成する出来事としての音楽 ――愛着の経験からみる主体、対象、行為――
3. 音楽への愛着はどのように生成するか
3.1. 時間性の問題
ここからは、音楽への愛着の経験が生み出される条件をあらためて問う。エニョンらの 議論によりながら、音楽への愛着が、音楽と接する愛好家の具体的な実践のなかで生み出 される予測できない効果であることを確認した。また、そのような効果がもたらされる条 件には、対象の働きとともに愛好家の意識的な努力(およびさまざまな媒体の働き)が必 要とされること、それらの条件が上手く整えられたときにのみ、ある「出来事」として、
音楽への愛着は生み出されることがわかった。ゴマーとエニョンはこうした対象への愛着 が生み出される出来事を論じるために上述した5つの「経路」を示し、さらに「受動と能 動とのあいだ」という言葉によって、その特異な性格をあらわそうとした。
このようなエニョンらの議論は、従来の議論に認められる二元論的図式を退けるために は有効であるが、対象への愛着が生み出される出来事を動的なプロセスとして把握するに
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はやや舌足らずである。エニョンらは、愛好家らが音楽(とドラッグ)に奪い去られる出 来事がもたらされる瞬間について、「引き起こされる」または「到来する」という言い方を 好む。その限りでは、愛着の経験は、主体の予測を越えて、突如としてもたらされると考 えることができる。しかし、他方でエニョンらは、愛着の経験が、関連するさまざまな媒 体とともに行われる、主体による綿密な準備作業や環境セッティングと切り離せないこと を論じている。ここには二つの時間性(対象に奪い去られる瞬間と、それまでの準備や環 境セッティングに関わる時間)が含意されているといえる。エニョンらの議論では、これ ら二つの時間性が、対象への愛着が生み出される過程において、不可分のものとして考え られていることがわかる。しかし、そのような過程のなかで、それぞれがいったいどのよ うに関わり合っているのかについて、エニョンらは踏み込んだ説明をしていない。
こうした点について私は、その中から音楽への愛着が生成してくる出来事を、いくつか の契機からなる、運動性を伴う時間的プロセスとして提示することである程度明確にでき ると考える。それぞれの契機は、ゴマーとエニョンが退けた二元論的思考に逆戻りしてし まうことを避けながら慎重に分節される必要があるが、ここでは以下に示す3つの契機を 取り出して論じていく。こうした作業をつうじて、エニョンらが「受動と能動とのあいだ」
として指し示す特異な出来事がどのように生み出されるのかを、人々の実践に即して、よ り具体的に描き出すことができるだろう。また、それはエニョンが示そうとした「予測不 可能な出来事」としての音楽の働きを明らかにするためにも必要な作業であると考える。
第一の契機は「出会い」である。これはおおむね対象との最初の接触の機会を意味して いる。また、その強度には差があるとはいえ、それは何らかのショックを伴いつつ主体に よって経験される。それゆえ、この対象との出会いは、多くの場合主体にとって不意にも たらされる。第二の契機は「探求」である。「出会い」の経験は「あの体験は何だったのか」
という自らの内に起こった事態の由来をめぐる「探求」への動機づけとなる。この「探求」
の契機において主体は、対象との「出会い」を意識的に受け止めつつ、利用可能な手段を 用いて対象に対して積極的に働きかける。第三の契機は「理解」である。ある程度まで探 求が進むと、対象の質的な差異が見出されるようになる。音楽の場合、それぞれの演奏者 による癖や演奏表現の特徴を聞き分けることができるようになり、自らの好みも明瞭にな ってくる。そうしてそれまでより自由に、より自発的に対象からその効果を引きだすこと が可能となる。
もっとも、これら3つの契機は、それを経験する当人にとって必ずしも明瞭に区別され るものではない。それぞれの契機は、愛着の経験が生み出される出来事のなかで、相互に 浸透し合いつつ展開すると考えることができる。このことを念頭に置いたうえで、ここで 分節した3つの契機を先の青山の事例に照らして考えてみたい。
3.2. 音楽への愛着の生成
まず、青山のケースでは、対象との「出会い」が重要であったと考えられる。青山自身
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が「鮮烈な原体験」と呼ぶ「ウルトラセブン」に用いられたシューマンの音楽との衝撃的 な出会いは、青山がその後音楽への愛着を深めてゆくもっとも重要なきっかけとなったと 考えられるからである。このような出会いが可能となるためには、さまざまな外的な要因 について述べるよりも、まずは「音楽そのもの」の働きを考えてみる必要がある。
「ウルトラセブン」の背景音楽は、シューマンの楽曲のようなクラシックの名曲をとこ ろどころに用いているものの、それ以外の部分については作曲家の冬木透が全編にわたっ てオリジナルの音楽を作曲している。冬木の音楽はそれ自体管弦楽を用いたクラシック音 楽の技法で作られたものであったが、そうしたなかにあって最終話に用いられたシューマ ンの楽曲は青山の耳に強い印象を残した。この点について青山は次のように述べている。
本編中に用いられている冬木氏の音楽は、基本的に室内楽もしくは小編成のオーケ ストラくらいの規模によるもので、しかも短いものが多い。いっぽう最終回のあの音 楽は、それよりはるかに編成が大きく、時間も長く使われていた。あまりに劇的でリ リカルで、もちろん「ウルトラセブン」全編の最大のクライマックスに流れていたこ とも相乗効果となって、こころの深いところを揺さぶったのだろう。(青山 2013: 44-5)
楽器編成の大きさ、ある程度の持続時間、「劇的でリリカル」に響く音楽のテクスチャー、
こうした特質をもつ音楽からの働きかけがなければ、青山と対象との「出会い」もありえ なかったといえる。一方、上記引用からもうかがえるように、そこでの「音楽」は「ウル トラセブン」の最終話のクライマックスと一体となって経験されている。青山の音楽との
「出会い」は、何より「ウルトラセブン」の物語とともにもたらされた。こうした事実は、
音楽への愛着が、「音楽そのもの」の働きを無視してはならないとはいえ、音楽以外のさま ざまな事物や活動との結びつきのなかでもたらされるということをあらためて確認させて くれる。青山の場合はとりわけ「ウルトラセブン」の視聴と結びついていたのである。
いずれにしても、この「出会い」の契機は、そこで用いられた音楽に対する青山の反省 的認知を引き起こすためには十分な衝撃力をもっていた。こうして、「あの音楽」が何だっ たのかを確かめようとする「探求」の契機が導かれる。そこには録音したテープを繰り返 し聴いたり、音源を探し求めてレコードを買い漁ったりという、青山自身による意識的か つ積極的な働きを認めることができる。一方、青山のこうした「探求」が可能になるため には、レコード、テープレコーダーといった技術的手段、親や友人、知人のネットワーク といった仲間集団(ゴマーとエニョンの表現だと「社会的・技術的セッティング」)が不可 欠でもあった。したがって、青山の場合、ここでの「出会い」の契機が「探求」へと結び つくためには、このような技術的手段や仲間集団との別の意味での「出会い」(そして「探 求」)の契機を必要としていたということができる。
このような「出会い」と「探求」の契機に導かれるなかで、上述もしたように、青山は 音楽を聴く楽しみ方を自然と身に着けてゆく。すなわち、シューマンの協奏曲のいくつも
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の演奏ヴァージョンに接したことにより、結果として青山は「クラシック音楽は、同じ曲 でも演奏によってまったく違った表情になる」ということを感覚で「理解」するようにな る(青山 2013: 74)。ここにいたってはじめて、青山の音楽への愛着はようやく明瞭な輪 郭をもって現れてきた。しかし、ここで「理解」と呼ぶ契機は、完成され、定式化された 主体の能力や資質のようなものとして考えられるべきではない。青山自身が述べるように、
音楽を聴く楽しみは、それぞれの音楽の表情の違いや演奏家の癖を聞き分けてゆくことに ある。そこには、たとえば、演奏ごとの細やかな表情の違いを思い描くことのできる「語 彙の発展」が関わっている3。青山はこれを「相対軸」をもつこととして表現している(青 山 2013: 84)。テンポが「速い/遅い」、表現が「男性的/女性的」等の比較のための基準 をもつことで、それぞれの音楽についての自分なりの好みを把握するための枠組みを得る のである。
「理解」という契機をこのように考えるなら、それ自体が「探求」の契機と分かちがた く結びついていることがわかる。なぜなら、演奏ごとの違いを言葉にするという青山自身 の「能力」は、テープの録音を繰り返し聴いたり、さまざまなレコードを聴き比べたりす るなかではじめて可能になると考えられるからである。また、そのようにさまざまな音楽、
あるいは演奏に接するなかで青山は、最初の出会いにおいて衝撃を受けた「ウルトラセブ ン」の音楽(カラヤン/リパッティの演奏するシューマンの協奏曲)にますます愛着を深 めていく4。そうすると、音楽への愛着は、ここでの青山の場合においては、「出会い」「探 求」「理解」というそれぞれの契機が、独特の円環構造を成しつつ、徐々に深められていく 過程として描くことができよう。
青山の語りにもとづきながら、音楽への愛着が生成する時間的なプロセスを描き出すこ とを試みた。ここから明らかになるのは、音楽への愛着が、さまざまな人、モノ、メディ ア等との複雑な結びつきを示しつつ、いくつもの曲折を経ながら展開される動的なプロセ スのなかで生み出されるということである。また、音楽への愛着の経験とは、そのような 動的プロセスに人々自身が加わり、その行動や認識のあり方を変化させいく過程であると 考えられる。こうしたことから、そのなかから音楽への愛着が生み出される出来事とは、
音楽そのものが私たちにとって意味のある具体的な内容を伴って現れてくる過程であると ともに、それらを経験する私たち自身が、そのあり方を変化させていく過程でもあると理 解することができる。
このように、動的プロセスにおいて愛着の経験を把握することで、エニョンらが「受動 と能動とのあいだ」という言葉で指し示す場所を、過去と現在が交差する複層的な地平と して描くことができる。冒頭で述べたように、音楽は今ここの現在において演じられるパ フォーマンスをつうじて、はじめて私たちにとって実際に聞かれうる対象となる。しかし、
そのような現在の瞬間は、それ自体として、そこにいたるまでの過去のさまざまな出来事 を含み込んだものでもある。そうした出来事のなかには、これまでに見聞きした別の作品、
別の演奏のような音楽的な体験が含まれるかもしれず、青山の場合のように、映像作品の