江戸時代の日本は、貿易面ではどの程度の鎖国であったのか。鎖国日本(長崎出島の市場)
をオランダ東インド会社の世界市場の中で位置付けてみることが重要である(山脇 1980)。
長崎という地名は、細長い海に突き出した岬のような丘「長い岬」が語源という説もある。
このような地形は、軍事港湾施設として有用であり、長崎は日本イエズス会の軍事拠点でも あった。
教会関係者の安全を保障する堅固な場所=避難所について、キリスト教徒領主と考えられ たが、実際、有事の際には宣教師を保護・救済するどころか、逆に教会からの保護・救済を 受けなければならなかったため、保護者として地位も極めて不安定な在地の個別領主権力の 避難所とするのではなく、日本のキリスト教最大の力として位置づけられていた長崎を避難 所とするにいたった。長崎は自然の生んだ堅固な土地であり、火急の際には人々が頼みの綱 とするには実に都合のよい安全な地であったからである。その後、日本イエズス会の軍事的 拠点としての機能も付与される(高橋 2006)。
7-1.長崎口とは
長崎口は出島におけるオランダとの交易の印象が強いが、主力は対中国貿易である。年間 平均70隻前後の中国船が来航していた。幕府は1689年長崎に「唐人屋敷」を創り中国人 を収容した。屋敷の総坪数は約1万坪、二階建て家屋が20棟、市店107であった。毎年 百隻前後の中国商船が渡来し、人口5万人の長崎の町に4〜5千人の唐人(中国人が主体 であるが東南アジアの人々も含む)が滞在して、長崎は日本の中の国際都市となった。江戸 時代中期以降の知識人たちは、長崎に来て異国の風俗に触れることを念願した。
唐人風説書は、唐人(満州族主導の清の民でないという意思で漢民族)経由の情報は、唐 船の船頭から通詞が中国事情、その他の国の動向などを聴取して長崎奉行に提出し、江戸表 に報告した。
西暦 唐船数 オランダ商館船数 備考(出来事)
1641 年 0 9 オランダ商館出島へ
1648 年 20 6 1644 明滅亡
1650〜59 年 計 472(年平均 47) 計 72(年平均7) 1651-54 英蘭戦争 1660〜69 年 計 380(年平均 38) 計 79(年平均 8)
1670 年〜79 年 計 300(年平均 30) 計 50(年平均 5)
1680 年〜89 年 計 712(年平均 71) 計 38(年平均 4)
1690 年〜99 年 計 797(年平均 80) 計 44(年平均 4)
1700 年〜09 年 計 751(年平均 75) 計 41(年平均 4)
1710 年〜19 年 計 498(年平均 50) 計 27(年平均 3) 1716-45 享保の改革 1720 年〜29 年 計 320(年平均 32) 計 19(年平均 2)
1730 年〜39 年 計 247(年平均 25) 計 18(年平均 2)
1740 年〜49 年 計 154(年平均 15) 計 23(年平均 2)
1750 年〜59 年 計 150(年平均 15) 計 22(年平均 2)
1760 年〜69 年 計 124(年平均 12) 計 17(年平均 2) 1767-86 田沼時代 1770 年〜79 年 計 130(年平均 13) 計 17(年平均 2) 1776 アメリカ独立宣言 1780 年〜89 年 計 129(年平均 13) 計 14(年平均 1) 1787-93 寛政の改革 1790 年〜99 年 計 90(年平均 9) 計 8(年平均 1)
1800 年〜09 年 計 107(年平均 10) 計 11(年平均 1)
1810 年〜19 年 計 103(年平均 10) 計 9(年平均 1)
1820 年〜29 年 計 81(年平均 8) 計 19(年平均 2)
1830 年〜39 年 計 71(年平均 7) 計 12(年平均 1)
1840 年〜49 年 計 60(年平均 6) 計 10(年平均 1) 1844 オランダ国王開国勧告 計1641-1857
年(216 年間)
計 5785 隻
(年平均 27 隻)
計606 隻
(年平均 3 隻)
1861-65 アメリカ南北戦争
表6. 長崎渡来の唐船・オランダ商館船数一覧14 (船数:隻)
「御老中でも手が出せないは大奥・長崎・金銀座」といわれたほど、幕府は貿易・通 訳・物資調達・船修理など交流技術を長崎に独占させたといわれる。こうして、幕府は長崎 の人々が持っていた外国人と付き合い方を緩衝材として利用し、オランダ人と接したので
14出所:金井俊之編『長崎年表』をもとに越田辰宏編集
ある。幕府と長崎は相互依存の関係にあった。
その一方で、「長崎は日本の病の一ツのうちにて御座候」(長崎は日本の病の一つ)の言 葉は、田沼意次政権失墜後の1786年末から1787年初め頃、松平定信が、将軍家斉に上申 した手紙の一節である。当時日本社会が抱える問題の一つに、長崎の統治体制(貿易政策、
長崎に関係する諸藩・町人との関係、滞在する外国人の怨嗟など)を指摘している(辻 1980)。
長崎奉行としては、異国人に対する警戒の主対象がキリスト教布教から密貿易へ切り替 わ ったのが、17世紀後半から18世紀初頭であった(木村 2016)。
18 世紀初頭の長崎の人口が推定 5 万人前後で、日本各地から商人や遊学者が多数いた。
19世紀になると3万人を切る人口へと推移する。貿易額の減少は長崎の衰退に直結する。戦 国時代末期の長崎の町は、大村藩によってイエズス会に寄進されていた時期があったことか ら、江戸時代もキリシタンであった人が多かった。長崎奉行は、長崎の町人は誰もが隠れキ リシタンなので、万が一、南蛮船が町の近くまで入港すると、転んでいた者たちの精神バラ ンスが崩れて、キリシタンに立ち戻ってしまい、第二の島原の乱が長崎で発生することを危 惧していた。
長崎奉行の職務は、町人と異国人と幕府との間のバランス感覚が求められていた。都市 長崎の市井の人々の暮らし、異国との貿易であるべき姿との間に苦慮し、ともすれば幕府 内で浮上する長崎支配強硬論にも対応している。なかなかコントロールの効かない長崎の 都市異国人たちに苦悩をしたり、或は、現実性に欠ける正論を伝えてくる幕府の中枢があっ た。長崎奉行は、上からも下からも困難を押し付けられていた。長崎の都市を支配するこ とによって、褒めたたえられることもあれば、怨嗟の対象になることもある。利害関係が 複雑に存在する長崎においては、一方的な称賛や非難とは限らない(木村 2016)。
長崎の町人に支持される長崎奉行とは、先例に任せて、貿易に対する監査なども表向きは 行ったことにしている奉行であった。
長崎を構成する様々な人々にとって、都合のよい人物はともすれば搦め捕られて失脚す る。かといって幕府の政策を原則論で強硬に推し進めれば、そこには怨嗟の声が満ちてくる。
幕府からの指示と、実務を担う町人たちの間に挟まって苦悩する奉行の姿がここにある。
それでは、長崎で評判が良く、長崎奉行以降も出世して生き残ることができた長崎奉行には どのような人物がいたのか。一例として、久世広民がいる。久世は1775年から1784年ま での8.5年(平均的任期 4 年)長崎奉行を務めた。幕府の政策実行と、長崎の人々の成り 立ちを考えた都市政策の両方でバランスがとれない限りは、このような長期間奉行を全うす ることは難しい。久世は、佐賀藩と長崎町人とのもめ事を、公の裁判になる前に、表沙汰に
しないで穏便に対応するなど、其々の立場を尊重した。また飢饉時に幕府の米を貸付け、町 人を救うなど評判が良かった。さらには、オランダ商館長とも関係が良好であった。商館長 上陸時の身体検査免除については、経済的な問題(宝石などを洋服の中に隠して密輸)があ ったが、商館長の身体的な尊厳を優先させた(木村 2016)。
18 世紀の段階で、長崎貿易の継続が国家的損失になり得るという捉え方は、新井白石によ り認識され、改善が試みられていた。18 世紀後半になると、財政的認識のあり方はより深化 し、長崎と国家利害とが対立し得ると考えられるようになっていく。
1790 年の貿易半減令は、名目としては維持しながら、実際にはその数字にこだわらないと いった実態があった。こうした二重基準を用いながら貿易を実施する背景には、19 世紀の長 崎奉行は 18 世紀と異なり、国際情勢の変動に気を配りながら長崎の都市支配を吸薦める必要 があり、最前線に立つ長崎奉行の姿があった(木村 2016)。
7-2.港湾都市としての長崎
本項では、如何にして長崎県が「港湾都市」となり得たのか、そして長崎県の経済につい ての歴史的な背景と現在、そして未来への考察等を見ていきたい。長崎県の経済は、造 船業を始めとした製造業やハウステンボスを中心とした観光業が一般的に想定されるイメー ジであり、また港湾都市というイメージはあるものの、それが長崎県の経済においてどれほ どの存在感を持っているかということはあまり明確ではない。
そこで、港湾都市としての長崎県について考察するが、。その際に最も重要なことは、
長崎県の地形である。長崎県は、東に佐賀県と隣接するほかは、その周囲を海に囲まれてい る。また、アジア・ダイナミズム班において過去にフィールドワークで訪れたこともある対 馬等、島嶼が971もあり、その数は日本一である。そして特筆すべきはその海岸線の長さで ある。長崎県の海岸線の長さは 4,137km であり、その長さは北海道に次いで国内二位の 規模である。面積が北海道の 20 分の1ほどの長崎県の海岸線がこれほど長大なのは、島 嶼は非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいることに起因する。
この地形的特徴により、長崎県全域には総勢 83 箇所もの港湾が点在しており、その数は 日本国内全体の7.4%にも及ぶ。
この点から分かる通り、長崎県はその地形的特徴からして港湾都市としては絶好の地形を 有しており、また朝鮮半島や中国とも非常に近いことから(対馬に至っては朝鮮半島との距 離が約 50km ほど)、日本やアジア、そしてヨーロッパとの歴史において、地政学的観点か らも重要な都市であった。
長崎県には出島のオランダ商館や唐人屋敷等、外国との関わりが深い地域である。今とな