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世界史における宗教改革とは、キリスト教の分裂である。ローマ教皇を中心としたカト リック(旧教)に対して、ルターやカルヴァンのプロテスタント(新教)が現れ、欧州各 地に広まり、近代国家のイデオロギーの基礎になった歴史的出来事である。プロテスタント とは、神聖ローマ帝国に抗議する人を淵源としている。

ローマカトリック教会は、新たに分裂したプロテスタントの勢力が強まることを恐れ、プ ロテスタント教会の宗教改革に対するカトリック教による対抗宗教改革の産物として、結成 されたのがイエズス会であった。イエズス会は、ポルトガルの国家権力、教団内外の経済力、

布教国の文化研究を布教戦略とした。

ヨーロッパ中世に起源を持つ主要修道会(フランシスコ会、アウグスティノ会など)より も若くて新しい修道会であった。イエズス会の勢力拡大の場は、宗教改革運動によって失っ たカトリック勢力圏を奪回し、新たな布教地である海外の開拓と獲得を意図していた。イエ ズス会は、新教プロテスタントの波が世界に届くよりも先に、旧教カトリックの波を世界 隅々まで届かせようとした。

古川(1997)によると、1538 年ポルトガル王ジョアン三世が、宣教師の東インド派遣をイ エズス会に求めた理由は、ポルトガルが獲得した植民地を神の支配に移したいと考えたため と述べている。神の支配とは、現地人の信仰する異教を改宗させて、植民地支配の拡大と安 定を図ることであった。こうした中で、松岡(2015)も、カトリックのもつ世界普遍主義(ユ ニバーサリズム)というものは、世界に遍く宗教を広めたいという意思(カトリック=宗教

=世界=普遍)によるものであったと説明している。こうして、インドのゴア、マレーシア のマラッカなどを中心とする東洋植民地支配を深化させる手段として、キリスト教の伝道が 利用された。

1540 年、イエズス会(スペイン語で「イエスの軍隊」の意)は、ローマ教皇パウルス三世 によって修道会として承認される。翌年、スペイン人のフランシスコ・ザビエルは、アジア での布教を目指して出発し、1549 年鹿児島に上陸した。日本へのキリスト教伝来としての歴 史を刻んだ。

ザビエルが旺盛な行動力によって集めた情報について、古川(1997)は、ポルトガルの布教 戦略や植民地政策に大いに資することとなったと述べている。布教事業と植民地市場の維持 拡大というポルトガル政府の打算は一体不離の関係にあった。ザビエルの布教活動がポルト ガル国王の庇護によって可能だったというように、宣教師たちは、ポルトガル艦隊に同乗し ての渡航であり、現地での旅費・生活費すべてがポルトガル政府から支出されたといわれる。

他方、キリスト教プロテスタントは、宗教改革の波に乗り、巨大なプロテスタンティズム という多くの教派をつくる。ルター派(ルーテル教会)、改革派(カルヴァン派)、長老派、

バプテスト派、クェーカー派、YMCA、エホバの証人、モルモン教、メソジスト運動の流れか ら分かれた救世軍などがあげられる。

プロテスタンティズムは、近代社会や近代思想、社会改革運動に深く根付いた。また、勤 労、労働、生産という「資本主義」と結びついている。マックスウエーバーの『プロテスタ ンティズムの倫理と資本主義の発達』はこの点に注目している(松岡 2015)。

17 世紀オランダを黄金時代と呼ぶならば、それをもたらした精神的エネルギーの淵源は、

宗教改革を通じたプロテスタンティズムに遡ることができる。

ジャン・カルヴァン(1509〜64)は、「自己の職業を神より与えられた天職として禁欲的 に勤労すべき」という教義を唱え、当時の欧州の新しい産業社会構造の中で台頭しつつあっ た事業者や技術職人、商人に強く訴えるものがあり、禁欲・勤勉に神が定めた職業生活に生 きることの正当性を染み込ませた。またそれを通じて得た経済的利益を肯定し、勤労に基づ く営利と蓄財を正しく営為としたこの教義は初期資本主義の精神的支えとなった。

カトリック(旧教) プロテスタント(新教) 英国教会

宗派 カトリック ルター派 カルヴァン派

イギリス国教会

(イタリア) (ドイツ) イス・フラン ス)

(イギリス)

教義 ○聖書と伝承重視 〇聖書主義と信 〇聖書主義と予 〇英国国王を頂点

〇教皇至上主義 仰義認説 定説 とする国家教会主

〇教皇無謬説(誤り 〇主張は内面的 〇禁欲と勤勉の 義

なし) 範囲に限定 結果として蓄財 〇教義はプロテス

〇善行による救済。 〇秩序の破壊を を肯定 タント的だが、儀

否定 式はカトリック的

範囲 〇スペイン・ポルト 〇北ドイツ、北欧 〇新興市民層の 〇貴族・富裕層が ガル、フランス、神 に伝播 支持 支持

聖ローマ帝国(中欧・ 〇全西欧に伝播。 〇国王の離婚問題 南欧付近) 資本主義社会へ に端を発した政治

の基盤 宗教改革

経過 1521 ローマ教皇レ 1517 ルター『95 1536 カルヴァン 1521 ヘンリ8世、

オ10世、ルター破 か条の論題』発表 『キリスト教綱 ルター批判

1534 イグナティウ 1555 アウグスブ 要』 1527ヘンリ8 世、

ス=ロヨラ、イエズ ルクの宗教和議 1541カルヴァン 王妃との離婚問題 ス会創設(パリ) (諸侯・都市に信 の改革(ジュネ から教皇と対立

仰選択の自由、ル ブ) 1534 国王至上法発 ター派のみ承認) 布、イギリス国教

1618 三十年戦争 会成立

(-48) 1555 メアリ 1 世、

カトリック復活 1559 エリザベス 1 世、統一法制定、国 教会確立

教派 フランシスコ会、ア ルーテル教会 ウグスティノ会、イ

エズス会

表7. キリスト教の宗教改革と対抗宗教改革

出典:『詳説世界史図録』(山川出版社)をもとに編集

9-1.キリスト教と日本との相性

日本におけるキリスト教伝来について考察すると、日本に初めにキリスト教が伝播した のは、8 世紀(736 年)に景教 15(キリスト教の中国名)という名前で、ネストリウス派キリ スト教が日本に伝わったが、やがて消滅した。しかし、その800年後の16世紀にザビエ ルの布教では短期間で九州・関西地方中心に広く浸透していった。

16 世紀後半の日本でのキリスト教信者は30〜40万人(一説には 50万人)で当時の少 なくとも人口の 3%以上といわれる。1800 年頃のロンドンの人口が 85 万人、パリが 55 万人という中で、1700年頃の江戸は100万都市という世界一の巨大都市であったといわれる。

155世紀コンスタンチノープル(現イスタンブール)司教ネストリウスによって唱えられたキ リスト教一派。431年エフェソス公会議でイエスの人性を主張したため異端とされた。7世紀 中国・唐に伝えられたが、唐末期に弾圧により消滅。

しかし、その後、徹底した幕府によるキリシタン弾圧により、天草・島原の乱(1637〜38 年)

では2.7万人が殺戮された。それ以外に江戸時代を通じて処刑されたキリシタンは約5〜6千 人と推計される。この大量殺戮と集団的狂気を日本人としてどう受け止めるか同じ時期の西 洋社会でも、異教徒への弾圧は常識であった。ドイツの宗教戦争を終わらせたウエストファ リア条約で決められたことは、領主は旧教、新教どちらの宗派を信じてもよいが、領民はそ の君主の信仰を信じなければならないということであった。領内では一つの宗派しか許され なかった。日本との比較においては、日本では神道と仏教の共存は数百年の伝統があり、

仏教内の宗派では、特殊な日蓮宗の不受不施派が弾圧された程度で、多数の宗派の共存が常 識であった。フランスではルイ14世(在位1643-1715)が、アンリ4世(在位 1589-1610)

が王令を発した、新教徒に個人の信仰の自由を認める「ナントの勅令」(1958)を廃止 (1685)して、新教徒の迫害を行った。欧州においても国家が国教を定めて、これに従わない者 を迫害することは18世紀初めまでは普通のことであった。

寺島(2013c)は、概して、一神教は異教徒に対して不寛容であり、八百万の神を奉じ る日本人は寛容という議論があることを前提の上で、お上(権力)の権威づけと民衆の無知 が一体となって異端者の排除に向かうと異様な集団的狂気が爆発する傾向を日本の歴史は 何回か繰り返している。教義には滞りなく対応する融通無碍だが、時代の空気にはわけもな く賛成する付和雷同するという意味で日本は恐ろしい国であるとも述べている。

また、現在の日本におけるキリスト教信者は 113万人(人口比 1%未満)という統計が ある。この浸透度合いを示す数字の意味をどのように捉えることができるのか。

欧米の教会(総本山)に依存する教義と活動の枠組みから変容しきれないことと関係があ るのではないかという説がある。しかしながら、他方で韓国のキリスト教徒が 1000 万人(人 口 5100 万人、2015 年統計)を超すことの対照において、時代間の日本精神史の土壌変 化、近世にさしかかった日本の社会構造変化などが推察することができる。それと同時に、

世界のあらゆる国・地域でも伝来と普及・浸透の過程で独自の変容と発展を分析することの 必要性を感じる。

9-2.中国・朝鮮とキリスト教の相性

中国は、1530 年代にポルトガル人に対して中国南部のマカオに根拠地を築くことを容認し た。しかし、その後もポルトガル人又は西洋人が中国本土に立ち入ることは拒み続けてきた。

この閉鎖的な態度は 1600 年にイエズス会の宣教師マッテオ・リッチが北京に行き、万暦帝に 謁見するまで続いた。

明の朝廷や高位の官僚がキリスト教に入信をしたり、宗教としてのキリスト教に興味を持