本章では、当時重要な役割を果たしていたオランダ東インド会社を中心に、16-17 世紀のヨ ーロッパの情勢の中のオランダのポジションや、ヨーロッパ諸国の パワーバランス、当時同 じアジア市場で貿易を行っていたイギリス東インド会社、アジアで経済圏を確立し競い合っ ていた日本を取り巻くアジア諸国との 関係を比較しながら長崎出島のポジションを見直し、
長崎口における出島の薩摩藩、そして徳川幕府の 貿易技術、またオランダがどのように当時 のアジアを利用し、支配していたのかをそれらの 関係性から考察する。
8-1.16-17 世紀のプロテスタント国オランダと進出するオランダ東インド会社
大航海時代におけるポルトガル・スペインのアジア進出はヨーロッパに大きな影響を与 えた。1517年マルティン・ルターの宗教革命を始めとし、1588 年にはスペイン無敵艦隊 がイギリスに撃退された。そして、17 世紀初頭、東インドでポルトガル人の権威を脅かす 競争者「オランダ」が現れたのである。
1517 年マルティン・ルターによる「九十五ヵ条の提題」の贖宥状(免罪符)批判から始 まった宗教改革はカトリック国であるスペイン、ポルトガルの 2 強国が力を弱くしてい ったことに、影響しているのかもしれない(寺島 2012c)。ルターの教説はドイツの民衆 の間までひろまっていた。それは当時進歩しつつあった活版印刷などのメディアによるプロ テスタント思想の普及に深く関係している。スペイン占領時代のオランダは、プロテスタン トの立場を強く持ち、カトリック勢力であるスペインと対立し、1568 年にはスペイン・ハプ スブルク領からの独立を果たした。カトリック勢力であるポルトガル・スペインはアジア諸 国に警戒されるようにもなり、時代とともに衰弱していった。カトリックと言えば、1549 年 フランシスコ・ザビエルの日本来航もそうである、イエズス会の創設メンバーの一人であっ た彼はカトリック系であり、日本に訪れ宣教活動が一度 は繁栄されるが17世紀には弾圧され、
カトリック勢力は下降していく一方であった。「1520 年代にドイツからルター派が、次い で1540 年代にフランスからカルヴァン派が流れ込んだ。されに再洗礼派や様々なプロテス タントが亡命、流入し、欧州のプロテスタントの吹き溜まり、よく言えば集束地となった。
(寺島 2012c: 20)」オランダは、はっきりと新教プロテスタントであることを主張し、ポルト ガル・スペインに対立的な意識を持ちアジア進出し、オランダ東インド会社と共に海洋国家 として仲介貿易により、アジアの海に影響を与えるなど、17 世紀初頭にオランダは頭角を現 したのであった。
オランダは、小国ゆえに陸軍よりも海軍が力を持っていること、貴族が少なかったため市
民の力、商人階級が大きく、海洋国家としての特徴があった。毛織物の生産やヨーロッパに おける貿易の中継国という特徴があり、アジア進出後の東インドで、オランダの仲介貿易の 動きは著しくに発揮された。1568年にスペイン・ハプスブルク領からの独立を宣言したオラ ンダ(スペイン領北部ネーデ ルランド)はその後軌道に乗り、17 世紀の初めには、世界で最 初の株式会社、オランダ東インド会社設立を達するという海洋国家として動きは止まらなか った。オランダ東インド会社はバタヴィアに拠点を持ちそのあと日中間の橋渡しとなる台湾 と航路を進めて拠点を持った。全盛期では長崎、東南アジア、インド、などと 50 か所以上に 要塞や商館を展開しており、オランダ東インド会社の中継貿易という特徴をもってアジアの 海に広い貿易の力はすさまじいものであった。このオランダ東インド会社の貿易は当時の オランダを象徴する強みであった。ヨーロッパ諸国はアジアを蛮族、利用されるべきとい う前提で考えられていたことも興味深い。
8-2.日本の貿易体制、中国冊封制度を拒絶
長崎・出島におけるオランダとの交易は趣深い。当時徳川幕府の力はより日本全国支配さ れていたというよりも、全国各藩の諸侯の力に頼ることもあった。前史のなごりで藩ごとの 大名の力は大きいもので、4 つの口を任されていた諸侯は特に力を持っていることが期待され た。当時の日本の貿易体制からオランダを受け入れるに至った利益、また出島がどのように 作用したかを論じる。オランダのアジア進出の時代において、鎖国のイメージが強い日本で あるが、その直前の時代背景には日本の大航海時代ともよく呼ばれる日本の貿易展開があっ た。実際にはアジア諸国(ベトナム、フィリピン、タイ)に 7 万人ほどの日本人が送られて いた。
朱印船貿易では、実際に 1603 年から鎖国が完成されるまでの約 30 年間、朱印状を渡 された南洋渡航船は 356 隻が日本から海外渡航をしていた。この日本船の建造技術が高か ったことは、三浦按針の背景にもしばしば見える。交易を求めて日本に来航したリーフデ号 に乗っていた三浦按針ははじめ家康に西洋船建築を手伝う様に指示されたのである、もちろ ん建築士でもなんでもない三浦按針は困惑したがその指示に従った。
倭寇という存在も当時の日本を象徴する一つであった。明の海禁政策により、倭寇の密貿 易は16 世紀には盛んであり、彼らの密貿易や海賊行為は当時のアジアの海では常識であり、
日本人の利益を求めて出た国外での行動はとてもアグレッシブであった。
1640 年貿易再会のために来航したマカオの使節団の処刑、1642 年アントニオルビノ神 父一行密入国事件、遠藤周作(1966)の小説「沈黙」のモデルとなった 1643 年の梶目大島事 件などがあるように、鎖国制度において幕府は神経をとがらせており、幕府は国を選んで
交易をしていた。
1647 年ポルトガル使節が長崎に来航した際、彼らが途上でバタビアに立ち寄り補給を受け たことが分かり、今後そのようなオランダが使節を援助することが分かれば、幕府はオラン ダ人との貿易を禁止し厳罰に処すとまで至った。
漢民族の明から満州民族の清(1636-1912)に王朝が変わるという大きな歴史の変化があっ た。この政権交代は日本にとって中国の冊封体制からの独立のきっかけになった。オランダ はこの両国の関係を保つ、重要な役割をしていたのではないだろうか。
8-3.オランダ支配下の台湾
1624 年に台湾南部を占領し、オランダ東インド会社の拠点を築いたオランダであったが、
17 世紀オランダからの視界では「17 世紀前半の時点において明朝政府にとって台湾は
「域外」であり、中国の権益とは認識していなかったということだ(寺島 2012b: 17)」と注目 されている。後にこの台湾という島は日中間貿易における重要な役割を果たすことになり、
しかもその支配権はオランダが持っていたのだ。
オランダの台湾支配は日中間貿易の架け橋となり、オランダが意図したものではなかった。
極東におけるポルトガルの日本、中国との独占貿易を打ち破り、海賊行為が目立つオランダ であった。しかし 1622 年ポルトガル領マカオの駆逐の失敗から敗北の連続であった。次にス ペインが掌握していた華南―マニラ間の交易の中心港、漳州に交易を計るも失敗し、そして 中国沿岸の離島澎湖諸島に拠点を置こうとも明朝政府に敗れた。最後に台湾南部占領を計り 拠点を築き、城を作った、それがゼーランジャ城である。1650 年には本島側におよそ 3000人駐屯できるプロビデンジャ城(現在の赤カン楼)も築き台湾全土を支配した。
台湾支配の波に乗ったオランダは日中間貿易に 10%の関税をかけ、日本からの不満が大き くなっていった。そこで起こった事件が 1628 年「オランダヌイツ人質事件」である。これは オランダの悪態に痺れを切らせた船頭浜田弥兵衛が台湾長官ヌイツの息子とオランダ人 5 人を長崎に攫った事件である。この事件はオランダ側に不都合であり、台湾統治も日本との 交易も重要視しており、ヌイツ長官は日本に引き渡され、長崎に 5 年間幽閉された。その 後交易関係は回復し、1639 年に鎖国令発布、1641 年出島にオランダ商館を移転しその後 20年間関係は続いたのであった。
海賊行為やオランダ長官ヌイツ事件などの悪行が目立つオランダであったが、台湾拠点 という地理的優位は、四つの口に匹敵したのではないかと推測する。また、オランダの 仲介貿易の力も台湾を通して発揮されていたに違いない。
このようにヨーロッパにおけるオランダと日本の政策から見るオランダとの関係、さらに