田中(2012)は、江戸時代は鎖国イメージとは反対に、本格的なアジアとの外交が始まった 時代であったと述べている。徳川家は、各藩に対して参勤交代制度を義務づけて、江戸城下 に諸大名が集まるシステムを作った背景には、各藩が政治的・文化的・経済的に独立状態で あったことから、国内戦争を回避するための日本版冊封システムを実施する必要があった。
このシステムによって、膨大な資金が街街道と江戸に落ちることとなり、商業が活性化し た。全国の道路網は整備され、人々の旅を促し、飛脚制度や為替制度が確立した。また、船 による運搬も活発になり、物資と情報の流通は格段の発達を遂げた。
朝鮮通信使、琉球使節、アイヌ民族の江戸参府、オランダ商館長の江戸参府という外交的 な挨拶制度をつくることで、幕府は江戸城を中心とした中国の擬似冊封システムを作り上げ た。
通信使の来日は、中国の冊封システムを真似たものである。日本の真の首都は京都であり、
皇帝に該当する人は天皇であるが、国際関係における日本の代表は京都の天皇でなく、江 戸の徳川将軍であることを印象づけ、権威づける狙いがあったといわれている。この擬似 冊封システムは、文明国としての統一体を作り上げるためにも必要であったのである。
松平定信が非開国主義で消極主義であったのに対し、田沼意次は開国思想を持ち、財政経 済に積極主義を採って大に経営に努めた。封建制度に付物の因襲主義は、この時代に破られ たものが少なくない。これは格式を重んじる幕府の制度から見れば、旧例を破った田沼の見 識は、幕府に一種の損害を与えたかもしれないが、全体の時代にとって、新しい気運を起こ したということは事実である。
田沼時代は、一面において混沌濁乱の時代であるが、他の一面では新気運が勃興した時代 であり、幕末開国の糸口はこの時代に開かれた。「白河のきよきに魚も棲みかねて元のに ごりの田沼恋しき」。国民から恋しがられた田沼の濁りの中には、国民の住みよいところ があった。
辻(1980)によると、田沼が開国思想を抱いていたことは、当時日本に来ていたチチングの 著作で確認できると述べている。それによると、幕府は外国人を自由に国内に入れても、国 に損害がないことを知っていただけでなく、それによって優秀な科学・芸術を学ぶ機会を得 ることを知って国内を外国人に開放しようとした。
1769 年、老中の摂津守忠恒が提議をしたが、間のなく亡くなったことにより、立ち消えに なったといわれる。田沼が工藤平助の建議を採用して、北海道に人を派遣して、ロシアとの 密貿易を調査し、場合によっては、蝦夷貿易、蝦夷開発を計画したが、田沼の没落とともに
廃止となった。
5-1.四つの交流と交易窓口
江戸時代の「経済」という言葉は、利潤追求と競争の経済のことを指すのではない。
「経済とは、国土を経営し、物産を開発し、部内(領地内)を富豊にし、万民を済救するの 謂なり」と佐藤信淵が『経済要略』(1822 年)でいうように、人を救うことの知識と技術な のである。
田中(2009)によると、経済の目的は本来、「万民を済救」することそのものであった。
現代人が学ぶべきものは、この経済・経営・開発・豊かさという言葉が指し示す意味である と述べている。
江戸時代の日本は、海外交流と海外交易のために、四つの口を開けていた。対馬の宗氏を 経由する李氏朝鮮との「対馬口」、薩摩に託して琉球国との交易を可能にする「薩摩口」、
天 領の長崎会所を経由するオランダ人や唐人との「長崎口」、松前藩を経由してアイヌと の北 方交易を可能にする「松前口」と繋がっていた。実は、鎖国といいながら、四つの口は、
対外交流の窓口であった。
四つの口のうち長崎を除く三つの口は、大名家(藩)によって運営させていたのに対し、
長崎口は、将軍直轄であった。キリシタン禁制によるヨーロッパ人の入国管理、唐船貿易 との関係が深い九州諸藩との管理運営などがあり、各藩に任せるわけにはいかなかった。ま た、他の三つの口は家康時代に整えられていたが、長崎口については、二代将軍秀忠から 三代将軍家光の時代に整備された。
江戸期の海外との交易接点は、日本が国交をもたない中国へ間接的に繋がるための対中国 貿易の経路であった。中国(明、清)で生産される生糸などの商品、漢籍・絵画などへの欲 求は日本国内で非常に高かった。
江戸時代を通じて、経済的にも文化的にも日本にとって重要な外国が中国であった。その ために、「国交なき交易関係」が両国間で実態として存在した。
日中貿易での輸入品は、生糸(白糸は京都西陣の織物を支え、輸入商として越後屋(今日 の三井の原点が力を蓄えていた)、絹、綿布、薬剤、砂糖、鉱物、書籍などがあげられる。
輸出品は、銀(1763 年まで)、原銅、俵物といわれた干鮑、フカヒレ、いりこなどの干海 産 物が 17 世紀末から輸出品として重視された。中国料理の食材として中国料理を変えたと いう説もある。
また、養蚕業は国内経済の重要な位置を占めていたが、戦国時代末期ごろから需要超過と なり、輸入への依存を増していた。国産の生糸よりも白糸といわれる中国産の高品質のもの
に人気があった。
ロナルド・トビ(2008)によると、1717 年の段階で、西陣織で知られる京都西陣で利用され
る生糸の 57%が外国産であった。元禄から享保期の京都は日本最大の産業都市であり、中で
も西陣の織物産業は最大の雇用を生み出す一大産業であった。1720 年頃から1846 年頃の 日本の人口は、2500 万人から 2700 万人であったと言われている中で、1700 年の京都人 口31.8万人のうち、その6.8万人(21%)が西陣織物産業の関係者であったとの推計が ある。
鎖国のイメージの中では、「四つの口」と呼ばれた窓口は、鎖国の例外とされてきた。
実際は、鎖国が方針で、「四つの口」が例外であったのではなく、「四つの口」こそが、幕 府の方針であった(トビ 2008)。
長崎口 対馬口 薩摩口 松前口
管轄 幕府直轄(天領) 対馬藩 薩摩藩 松前藩 完成時期 三代 家光 家康 家康 家康 使節国(擬 オ ラ ン タ ゙ 通詞 ( 通 朝鮮通信使 琉球国の朝貢 アイヌ使節 似朝貢シス 訳)約 50 名、唐通 使節
テム) 詞 800 名以上
大使館 出島 倭館(釜山)朝鮮 那覇/福州
(出入口) 対馬の貿易管理と 儀礼接待のため設 置。約500名の日 本 人が常駐。
その他 オランダ風説書 朝鮮通信使 琉球国の朝貢 赤蝦夷風説考
唐人風説書 使節
表4. 江戸時代「四つの口」の特徴
出所:越田辰宏作成
5-2.四つの情報収集ルートとインテリジェンス
トビ(2008)によると、幕府は外国情報を収集するための「四つの情報収集ルート」があ ったという。
第1のルートは、長崎到着の中国人商人→唐通詞→長崎奉行→江戸(老中、林家)。中国 船長などに直接聴取して得た情報をまとめた報告書(風説書)を、長崎奉行を介して江戸に
送っていた。この情報は外国政府や地方政府などの利害関係者の介入を受ける危険が無く 一般的には最も正確だったとされるが、情報の多くは港での伝聞やうわさ話のレベルとい う見方もできる。
第 2 のルートは、北京→福州→琉球→薩摩→江戸。朝貢使は定期的に北京に派遣され、福 州には琉球館もあった。また琉球から中国へ渡る留学生もいたため、比較的正確な情報を安 定的に得ることができた。
第 3 のルートは、オランダ商館長→長崎オランダ通詞→長崎奉行→江戸。オランダ人が直 接かかわる事例は正確な情報が多かったが、通詞の語学力が十分でなかったため、情報の利 用価値が損なわれていた。またオランダ商館長は彼らの政治目的のために報告を歪めること があったため、必ずしも信頼できるとは限らなかった。
第 4 のルートは、北京→漢城→釜山→対馬→江戸。幕府は朝鮮との関係を利用して大陸の 事情について情報を収集していた。朝鮮は冊封体制による使節派遣を毎年北京に送っていた ため、中国の最新情報を入手して釜山の倭館、対馬へと伝えられた。
また、田中(2009)によると、通信使の来日は、日本を中国に見立てた朝貢システムの模倣 であったと述べている。1633 年松前藩を通して、アイヌ民族に、ウイマム(あいさつ儀礼)
を強要した。1633 年オランダ商館長に江戸参府を義務づける。1634年〜1850年まで18回 薩摩を通じて琉球国使節が来日した。
対馬藩や琉球国の人々は、日本本土では決してありえない朝鮮や中国への渡航を日常茶飯 事に行っていた。江戸幕府はこの二つの地域が果たしていた中継者的な役割を承認し利用し て東アジア世界との接点としていた。さらに蝦夷地においても中国の北方から山丹(沿海 州)、樺太、松前と繋がる交易線が存在していた。