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鉄鋼販売のための社員育成 1.ベトナム鉄鋼業の現状

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鉄鋼産業の発展は、その国の経済発展に従って、段階的に発展していくのが理想であり そこには順序がある。

ベトナムが、世界の注目を集めるようになり主に東南アジア諸国から産業投資が爆発的 に増大したのは 1995年ごろだった。これは異常ともいえるほどの加熱状態だったが、1997 年7月のタイを起源に発生した通貨危機の余波が、インドネシア、韓国へと飛火し、その 結果、東南アジア全域をその経済不況のどん底に落とし込んだことで一応収束した。

  この第一次ベトナム投資ブームが、世界でも最貧国の一つに数えられていたベトナム経 済の底上げに大いに貢献した。しかし、このアジア全域に吹き荒れた経済不況の嵐のため、

この国に対する新規の投資は 2001年12月の「米越二国間通商協定」が発効し、また、時 を同じくして東南アジア経済が、ようやく立ち直りを見せる頃までは、この国の経済状況 は火が消えたような状態であった。

  ここで、そのベトナム経済の黎明期のおける鉄鋼業界を取り巻く経済環境について、ま ず振り返ってみたい。

  当時のベトナムの経済界は、資金調達に大変苦労をしていた。そのため、インフラ整備 や機材・資材の製作に必要な鋼材の入手が容易ではなかった。

すなわち、当時のベトナムでは、長らくつづいた戦争とその後 18 年間におよぶ厳しい 経済制裁のため、国土の復興にどうしても欠かすことのできない鉄鋼とセメントの生産が 増えつづけていく需要にどうしても追いつくことができなかった。鉄鋼に関して言えば、

必要なのは量であり高度な品質のものではない。

そこで、親しくしていたベトナム鉄鋼総公社の副総裁や業界関係者に提案したのは、日 本の鉄鋼の格落ち品や二級品、あるいは鉄のスクラップの調達を進めることだった。この 事業を、ベトナム事務所の柱の 1つに育てようと考えたのである。

鉄鋼公社で、実務の実権を握っているこの副総裁は、全面的に私の提案を受け入れてく れたお陰もあり、この取引は大々的に発展していき、毎月、二・三隻の本船をチャーター してそのような鉄をベトナムに売り込むことができた。

二級品の鉄鋼やスクラップ等の取引に関しての具体的な話だが、日本の一流メーカーの 二級品の場合は、メーカーの検査証明書が付いていないだけのものであり、その品質は一 級品とほとんど変わらない場合が多い。それは、発展途上国の鋼材の一級品と比べても決 して劣らず、まだ充分に使えるものである。このような品物は、日本では非常に安く入手 できるのだが、ベトナムでは重宝されて高値で取引されている。

2 .従業員の新規採用とその育成 

  弊社は東京に本社をもつ、大手鉄鋼専門の商社である。ベトナム事務所は,アメリカを中 心とする西側諸国による厳しい経済制裁が解除された、1993年にホーチミン市とハノイの 両市で開設された。私が現地の総支配人として赴任したのは、その2年後の 1995 年だっ た。

  ところが、現地のホーチミン事務所に入ってすぐにわかったことは、事務所の空気がよ どんでおり、緊張感がないことだった。社員と話してみても、覇気がないし、まともに英 語で意思の疎通ができない。バイヤーに出向いて商談するにも、しっかりと通訳ができな いし、仕事に使える人材がいないのである。

私は、それまでマレーシアやシンガポールで、8 年近く駐在経験があるし、アメリカに は 5 年間、広いアメリカ大陸を走り回って鉄を売っていた。通訳など必要がないのだが、

ベトナムは違う。

ベトナムの地場の大手企業の責任者で、しっかりとした英語が話すことができる人はい ないといってよい。また、ベトナム語は世界でも最も難しい言語であるため、こちらとし てもちょっと勉強したくらいではものにならない。どうしても優秀な中間管理職と通訳が 必要だ。私は大いに焦った。

  ハノイにも出張して、社員と話をしたところ、こちらは比較的しっかりしており、まず 心配はなさそうだ。しかし、具体的な仕事はなく、みんな時間を持て余しているようだっ た。前任者は何をしていたのだろうか、と恨めしく思ったが、彼はすでに定年退職してお り、会社とは関係がない。

  ホーチミン事務所では、あらゆる手段を頼って優秀な人材を探すことをはじめたのだが、

そのような動きに対して、危機感を持った社員は次つぎと辞めていった。そのため、最後 には事務所として借りていた庭付きの一軒家の庭師と女中、三人の警備員、それに運転手 だけになってしまった。

幸か不幸か、事務所の活動はほとんどなく停止状態だったため、仕掛りの取引は、不合 理で小さなクレームが一件あるだけで、他には何もなかった。具体的な商社としての活動 は、当時は困難だったこともあったのか、ほとんどしていなかったと言ってもよい。

ホーチミン事務所は、社員探しからの出直しだ。情報社会で噂社会のベトナムのこと、

日系企業が人材募集をしていると聞きつけた人たちが、履歴書を携えてたくさん集まって きてくれた。幸いにして、その中から外国語大学や貿易大学、経済大学卒で英語ができて 素直そうな若者を若干名採用することができた。

彼らの中で、一人だけ貿易実務がほぼ完璧に理解している若い女性がいた。彼女を中心 にして、海外取引の基本や、危険性、代金回収の問題点などを、徹底的に教育していった。

その当時のベトナムにおける最大の問題点は、社会主義体質から抜け出していないこと と、外国人との付き合い方がわからない人が多かったことだ。それは、わが社の社員だけ ではなく、相手にする国営の大会社の社長たちでも同じだった。長い戦争で徹底的に痛め つけられ、その後につづく厳しい経済制裁のため鎖国状態に置かれていた。長い間、外国 人との付き合いは公安の監視の目が光っていたため、自由にできなかったからである。

具体的な例を挙げれば、1995年当時でも、私たち外国人がベトナム人の家庭の夕食会に

の家には事後、公安が事情聴取に訪れるのが普通だった。それだけではなく、ベトナム人 が外国人と数人で、ホテルの部屋のドアーを締め切って話すことも疑惑の対象となってい た。

社会主義というのは、中央政府による集中管理の下、すべての行動は上からの指示によ るものであり、個人が自由に判断して実行すること自体制限されていたため、どうしても 指示待ちの受動的行動となる。一流大学を出た若い世代でも、未だにその傾向は残ってい る。国立大学での教育が、マルクス・レーニン主義から抜け出ていないためである。

ところで、会社は営利団体であり学校ではない。いくら私が着任したばかりの総支配人 といえども、本社側は売り上げと利益の追求を容赦なく要求してくるし、日本の本社や関 係先のお客さんが連日出張してくる。それだけではなく、具体的な商談が休みなく入って くる。事務所は南北に二ヵ所だ。それに対応する日本人は、私一人である。日々の取引や 来客をこなしながらの、OJTによる社員教育がはじまった。

社員教育の基本は、海外取引の危険性で、次いで鉄鋼を中心とした建設資材に関する教 育だが、選び抜いた優秀なベトナムの若者のこと、その知識吸収力はすばらしい。彼らの 知識欲とその謙虚な姿勢は、他の国では見られないことで、一度教えたことは、驚くほど 理解し記憶してくれた。

3 .取引き現場の実態

  新規に採用した社員に対する、鉄鋼の二級品とスクラップ商品についての育成だが、そ れは、現場に連れて行って品物を見せることである。彼らには、鉄に関する知識は皆無と 言っていいほどなかった。

取引される鉄板のスクラップなどは、日本では大小のサイズを取り混ぜて鉄くずの山と して販売されているのだが、ベトナムでは、このような鉄板一枚ずつを人手をかけて選別 している。それも、厚み別、大きさ別に作業員が手作業で、それぞれの小さな山を作って 仕分けている。大きな鉄板は、数人で担いで指定の場所に運んでいく。人件費の安いベト ナムだからこそ、できる作業である。

丸棒の場合も同様で、品種、長さや径ごとに、あるいは成分規格ごとに選別して保管す る。そして、最後に地面に散らばった鉄の破片は、箒で集めて袋に詰めて本当のスクラッ プとして販売されるのである。

  何故、これほど鉄のスクラップが大切に取り扱われるか、と言えば、それは人件費にあ る。

例えば、スクラップ1トンの値段 3 万円とすれば、大体 10 トン分が日本人の現場作業 員一人当たりの月収に相当する。ところが、ベトナムではこのような作業員の月収は、30

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