1.1 所属している企業の紹介及びベトナムの業界全体の実情
私の所属する会社は、ニャットアイン・トレーディング・プライベート・エンタープラ イズと言い、菓子製造販売業を生業とするベトナム会社法によって1996年9月に設立さ れたローカル企業で、今年創業 11 年目を迎えた。表向き会社の代表者はベトナム人の妻 であるが、実質の経営は日本人である私が行っている。
一般的に外国人がベトナムで法人を設立する場合、1)現地駐在事務所2)合弁企業3)
100%外資企業 この 3 つが主たる方法として知られているが、私のケースは、この何れ にも当てはまらないことになる。元々、日系企業の駐在員としてベトナムを訪れた私だっ たが、ベトナム人配偶者を将来の伴侶としてめとり、かつ、勤務先の撤退が決まると私に 残された選択肢は、“起業”することだった。
もっとも起業すると言っても、潤沢な資金があるわけでもなく、結果的に妻を名義人と して立ててローカル企業として弊社は立ち上がった。
冒頭でも書いたように、弊社は菓子製造販売業を行っている。菓子と言っても、ビスケ ットやチョコレートなどの西洋菓子の部類ではなく、ベトナムに古くからあり、当地で栽 培されたカシューナッツ・ピーナッツ、それに胡麻などをふんだんに使い水飴で固め煮詰 めた岩おこしに似たものを扱っている。なぜならば、前職を辞した後、新たな商売を自ら 立ち上げるために、妻と二人で商売のネタを探して回った期間が3ヵ月ほどあって、これ を見つけたのである。当時、ベトナムは第一次投資楽園ブームと呼ばれており、毎日多く の日本からの視察団がこの国を訪れていたのだが、よくよく観察していると日本人がお土 産に好むような温泉饅頭的な商材がこの国にないことであった。
そこで、妻とホーチミン市内の市場をしらみつぶしに巡り、当地の菓子類を探って見た ところ、現在、弊社が扱うお菓子の原型を見つけたのである。早速、口にしてみたところ 少し甘さが強いものの、日本人にとって懐かしい歯触りと風味が口いっぱいに広がった。
しかし、衛生観念の劣ったそれには砂や髪の毛などの日本では到底考えられない異物混 入がごく当たり前に見られたばかりか、包装もビニール袋に入れたものを輪ゴムで巻いて 簡単に止めた程度でしかなく、そのままでは絶対に商品になりえない代物であった。それ でも、メーカーを突き止めて、業務提携をしたのである。形はこうだ。我々の要求する甘 みを付け、商品をバルクで卸して貰う。それを弊社で検品し、自社で作ったオリジナルボ ックスに詰め込み、市中の外国人が立ち寄る土産物店に商品として置かせてもらい販売す るといった具合である。
メーカーと提携し半年は順調に売上を伸ばしていった。メーカーも売上が伸びてゆくほ どに、弊社の高い要求を呑み、協力を惜しまなくなってきた。そんなある日、妻から商品 つまりお菓子を自ら製造するようにしたらどうかと提案を受けたのである。当初、私はこ の案に反対で彼女に耳を貸さなかった。今提携しているメーカーに対し、道義的に日本人 としてそれは許されるものではなかったからに他ならない。しかし、妻はここは日本では ないという。いずれメーカーは我々の販路を断ち切るために商品供給を止めるだろうと言 って聞かない。妥協案として、取り敢えずノウハウは学ぶことに決め、メーカーが反旗を
翻すまでは封印するというものだった。
ところが、妻の話がそれから半年後に現実のものとなって我々を襲ったのである。これ までの商品の供給先であったメーカーは自社販売に踏み切り、商品の供給が絶たれたので ある。既にノウハウを準備していた我々は、直ぐさま会社近くに120平米余りの民家を借 り、そこを急場しのぎであるが工場に改造し、一週間後にはそれまでのただの卸売業者か らメーカーとして歩き出した次第である。以上が、弊社の黎明期の出来事なのだ。
さて、弊社は日本人の私が運営しているので、事実上“日系企業”と呼ぶことが許され るかも知れないが、企業そのものは完全なローカル企業であること、そこには外資を呼び 込むためのいわばよそ行きの顔はなく、あくまでもベトナム人企業家と目線と同一線上に あることを念頭に読者の方々に読み進めて頂くことにより興味を深めて頂けると思う。
この国の業界全体の実情は、菓子そのものに関して言えば、有望市場であることは言を 待たない。人口の半数が30歳未満を占め、2025年までにはベトナム総人口が一億人を超 すと言われており、菓子に対する需要は今後右肩上がりに上昇してゆくことだろう。
しかしながら、これは西洋菓子を扱うメーカーに限定され、弊社が扱う伝統的なベトナ ム菓子の需要は今後、西洋菓子に押され衰退の一途を辿ることになるだろう。故に、弊社 は生き残りをかけ、日本の和菓子業界で広く行われている手法、いわゆる、高級贈答菓子 路線への将来的な転換の他、ベトナム菓子の総合メーカーを目指し、他社との商品差別化 を進めてゆく方向で現在着々と動いている。ベトナムは大きく分けて、南部・中部・北部 の3つの地域があるが、それぞれ昔ながらに伝わる銘菓を持っている。それらを弊社でま とめ、総合的に生産し世界への供給地とするのが現在の目標である。
ただ、ベトナムの菓子生産における問題点を指摘しておきたい。それは原料の追跡可能 性(トレーサビリティ)が、ほとんど不可能という点である。例えば、弊社の場合 原料 を農産品であるカシューナッツ・ピーナッツ・ゴマなどを使用するのだが、ベトナムの流 通慣習として、原料は仲買人という人々が農家からそれぞれ買い集め、それらのサイズを 分けた後に、メーカーへ供給するため、原料の出所が特定出来なくなってしまうのである。
よほど大規模な原料需要があれば、農家と作付け契約を交わし、細かい取り決めなども 可能になると考えられるが、通常、我々のようなベトナムの菓子メーカーが必要とするボ リュウムは年間せいぜい100トン未満で、有り物を“分けて”貰うことしか他に術がない のだ。年々日本を含む世界の先進国の追跡可能性は厳しさを増す中において、ベトナム政 府を巻き込んだ法整備による流通システムの再構築が求められている。
1.2 担当業務から見たベトナムの紹介
ベトナムのローカル企業である弊社は、経営面については全面的に私が監督しているわ
らしただけで、対ローカル企業に対する扱いはほとんど変わりないと言える。
メーカーになって、一年目のエピソードなのだが、ある日の午後、突然 10 数人もの税 務職員が弊社に上がりこんできて、強制捜査を行った。間の悪いことに、丁度、その時当 時のチーフ経理が不適切な帳簿をつけている現場で、資料が机一杯に広げられていた。全 ての書類・帳簿類が押収された。摘発を受けた後に、私と妻が会社に戻るとチーフ経理は 呆然自失となっており、盛んに困惑していた。
日頃 妻の陰に隠れて表に出ないようにしていた私だったが、この時ばかりは会社の存 続が掛かっている。摘発した税務署は区の管轄であり、ホーチミン市税務署ではないこと を確認すると、妻と二人でウィスキーを買って、所轄の税務署長の自宅へ乗り込んで行っ たのだった。まず、税務署長へ自己紹介をした私は、今回の件につき謝罪した。相手は、
30,000米ドルの追徴課税を要求してきた。もちろん、細かい計算をして出してきた数字で はなく“言い値”だ。夕方6時から深夜0時まで税務署長のところで粘り、交渉を続けた。
署長も疲れたのか、結局、300 米ドルで手を打って了承して貰うことでこの場を納めた のだ。何と言い値の100分の1、しかし、これは端的にベトナムビジネスが人治国家に影 響される一方、妥協点を見いだす上でオールウェイズネゴシャブルが有効であることを示 していると言えよう。もっとも当時私自身なけなしの資金を集めて作った会社であり、そ う簡単に潰されて堪るか!という勢いも加勢して、たまたま運良く進んだだけなのかも知 れない。
2.業務を進める為の人作りの留意点
人間関係、指導面で特に注意すべき点(成功例、失敗例及び改善方法)
これもやはり、メーカーになって一年が経った頃の出来事になるが、それまで私は全て スタッフとワーカーを日本的発想で“同じ釜の飯を食う”仲間と見なし、気持ちよく彼ら に働いて貰うために何が必要かを絶えず考え、そして実践してきた。当時、工場では私も 時間があれば、率先垂範すべく自ら工場でワーカーと働き、荷物を運んだり一緒に汗をか いたりもしていた。それに半年に一度は、貸切バスを仕立て日帰りで近くの観光地へ連れ て行ったりして、ワーカーから受けの良い社長と思われ、私自身もそう思われることに満 足していたのである。その一方で、メーカー1年目では、仕事量もまだまだ不安定であり、
シーズンオフになれば、ワーカーの仕事にも事欠く日があった。
仕事が無いのはワーカーの責任では無いし、だからといってワーカーの首を切ったり自 宅待機にさせるような人間は経営者として失格だと信じていた私は、兎に角仕事が繋がる よう精力的に営業を行った。それが功を奏し、輸出の仕事を得ることが出来た。ただ、納 期までは時間がない。そこで、ワーカーに対し、出荷が完了するまでの間、日曜出勤を要 請した。もちろん、休日出勤は会社の内部規定で、150%増しの賃金を支払うことになっ ているので、ワーカーに異論は無かろうと思っていたが意に反し、当時 30 名ほどいたワ ーカーの内 20 名までが、日曜出勤拒否をしたのであった。この時、私はハンマーで頭を 思いっきり殴られたように彼等から裏切られたような思いに陥った。しかも、その 20 名 の中の数人が日曜出勤中止を求め他を煽動し、要求が通るまで出社拒否をする始末で、そ の場で職場放棄が始まったのだ。
私自身も、当時は若かった。出社拒否を敢行したワーカー全員に対し、その場で解雇を