6. 郷土史家からみた勝川の歴史資源に対する意識
6.3 郷土史家から見た勝川
居住している地域資源の何に価値を住民が見いだしているかを見る方法としては,
アンケートやインタビューの他,地域住民が編集・発行した,地域に関する印刷物を 参考にすることも有効であろう。印刷物として書籍化するのは,インターネットに上 げるのに比べて時間的,経済的負担が大きいがゆえに,伝える努力に対するモチベー ションは高く,内容は本当に伝えたいことに厳選されると推測できるからである。調 査としては,春日井市図書館のデータベースで,キーワード「勝川」を手がかりに,
もっぱら勝川について取り扱われている図書を検索して読解し,そこでの記述を通じ て,まちの歴史に対する思いを読み取っていくこととした。データベース上では,該 当する印刷物は 24点所蔵されており5)(別表参照),それは大きく①「史蹟や地域の 歴史・地理に関わるもの」8点,②「商店街及び勝川駅前再開発に関わるもの」8点6),
③「勝川廃寺(後述)及び関連発掘調査に関わるものの発掘調査にかかわるもの」8 点に分けられる。このほか,『春日井市史』地区誌編第3巻に勝川地区が掲載されて いる。①に分類される図書のうち,2点は個別の施設あるいは催物についてなので,
それ以外のものを主に資料として用いることとする。
別表にあるように,勝川の歴史や文化などについて,住民がまとめた図書の嚆矢は 1976年の『勝川風土記』のようである7)。ここで記述されている内容の一部は後述の
『勝川への想い』にも転載されている。著者の大脇二三氏は,地元では郷土史家として 知られた人物のようで,大脇(1975,p44)の略歴によると 1911(明治44)年生まれ,
1930年に東春日井群勝川第一尋常小学校勤務以来,名古屋市,春日井市,尾張旭市の 小中学校に勤務し,1969年より東海工業高校に勤務とある。また,其の一「勝川の地 名の由来について」項に,「かちがわ」の地名の由来をさぐるにあたっていつも思いお こすのは子どもの頃に親から聞かされたあの長久手の役のくだりの一節です。」(p. 1,
ルビは省略した)とあることから,幼少時より当地に住み,氏の親もおそらくはある 程度長い期間当地に住んでいた人物だと推定できる。
該書は手書き原稿をそのまま B 4用紙に印刷し,袋とじにしてステープラー止めし たものである。原版と思われる原稿が本に挟まっていたが,これがボールペン書きで あったことから,印刷はいわゆる鉄筆にガリ版ではなく,昭和50年代に学校でよくみ られた謄写FAXを用いたのではないかと推測している。
該書は細かく分冊されている。構成は以下の通り。( )内の年日は奥付などに記載 されている通りである。
①勝川の地名の由来について(奥付なし)p.1-12 /②[其二]惣中の譜(昭和51年5 月)p.13-17 /③[続編]天人社,p.18-25 /④地蔵寺(昭和51年5月)p.26-34〈注:
③・④は合冊〉/⑤[第二輯]大清寺(昭和51年6月)p.35-46 /⑥[勝川風土記シリーズ]
勝川古墳群(昭和51年10月)p.47-56 /⑦[勝川風土記シリーズ]年中行事(昭和51年 10月)p.57-62 /⑧[勝川風土記シリーズ]勝川に最初に住みついた人々1(昭和51年 11月)/⑨[勝川風土記シリーズ]勝川に最初に住みついた人々 其の2(昭和51年11 月)p.71-78 /⑩[勝川風土記(宗教)](ページ表記なし)人物点描(昭和53年4月)p.79
-88〈表紙なし〉/⑪勝川とその周辺の橋について(昭和53年5月)p.89-104〈表紙・
書名なし〉/このほか,「十二篇」「大東亜戦争戦没者墓碑銘」上巻と称して戦没者の詳 細を記しているものがある8)。
序によると,当時(奥付はないが,おそらく 1976年)より 15年ほど前,すなわち 60 年代初頭に勝川の歴史について執筆した原稿の一部があったらしい。その目的につい て「世の人人に一つのきっかけを作り出すたたき台踏み台にしてもらって更に新しい 勝川の歴史の一ページが書き加えられることを念願としたものである。」と説明され
ている。(大脇,1976.まえがきにかえて)9)ところがほとんど原稿が散逸してしまっ たので,あらためて作成したとも述べられている(同前)。⑥以降は「勝川風土記シ リーズ」(下線筆者)とあること,「勝川の歴史を」とあることなどから,最初の原稿で 書かれていた項目は①のみか,①~④,あるいは①~⑤までかと思われるが,もとよ り推測の域を出ない。
ただ,いずれにせよ,勝川の歴史で重要なのは,地名の由来,惣中の歴史,場所では 地蔵寺,天神社,大清寺が重要と大脇氏は考えていたということになろうか。
さて,勝川の歴史を考えるきっかけとなり,さらに歴史をつないでいってほしいと いう大脇氏の願いは,『「勝川への想い」』(2013)に引き継がれる。該書は,勝川資料 館運営委員会の編,編集後記には,発刊の動機としておよそ次のようなことが述べら れている。
勝川には郷土史を研究しているよき先輩がおり,成果も発表されているが,一般の 目に触れることが少ないことが遺憾で広くその成果を知らせたいと思った。また,毎 年発行されている勝川区報の記事も,勝川を知る上で参考になる。本書を通じて郷土 愛が育まれて伝承されることを望む(pp.200-201)。該書は,先述「勝川風土記」の ほか,勝川区報に掲載されている記事が集められており,地元で大切にしたいことに ついて,住民は何と考えているかを知るてがかりとなる。
該書の中でも,やはり地蔵寺,天神社,大清寺のことは紙幅を割いて紹介している。
以下,この3箇所につき,どのように記述されているか見てみる。
大清寺は,現在の山号は龍源山だが,開山当初は醍醐山大清寺といった。大清寺は,
勝川の地名と徳川家康にまつわる次のエピソードがよく知られている。徳川と豊臣が 小牧長久手の戦いで衝突したときに,家康軍が大清寺で小休止をしていた。家康が地 名を訊ねたところ,「勝川」とは縁起がよいと言い,地名を答えた長谷川勘助なる人物 に褒美をとらせた。勝川と家康とを結ぶエピソードは,住民にとって,まちの魅力を 感じるものなのであろう。
地蔵寺(春日井市大和通1-7-3)は,現在は天神社(春日井市勝川町1-3)か ら約1.7km離れた所にあるが,春日井市史によると,地蔵寺はもともと天神社北側に
写真 1.大清寺 写真 2.地蔵寺
あった(春日井市史編纂委員会p.281)11)。開基は土豪,山 田左衛門允明長,開山はその子の道証で,1264(文永元)
年に創建された(重松1980)。道証は,鎌倉時代の著名な 仏教説話集である『沙石集』の作者無住の弟子で,同書の 成立に関わっている。そし同書巻2(四)「薬師観音利益 事」の章に,山田左衛門允明長が「右馬允明長」という名で 登場する。明長は,の承久の乱(1221年)で京都側に付き,
戦いで深手を負った敵方に捕まったりして何度も命を落と しかけたが,そのたびごとに助けられた,という内容であ る。明長はその後地元勝川に帰って地蔵寺を建立し,子の 無尽道証に開かせたという12)。大脇氏は,『沙石集』のこ の箇所を「勝川の明烏」と題して現代語で紹介している(勝 川資料館運営委員会編,2013,pp.36-45)。
天神社は,春日井市史では,「無尽禅師が正和二(1313)年に創建したという(春日 井市史編纂委員会,p.281)。」という伝承を掲載している。つまり,地蔵寺の開山道証 が天神社も創建したという縁起が残っているわけである。これについて大脇氏はお よそ次のように説明している。地蔵寺境内の一隅に「バショウ様」と呼ばれる地祇を 祭っていた。これにはかつて山田明長が身を隠していた高山(勝川の北約2km にあ る春日井の地名)からの遺物も移され,地蔵寺住職が管理してきたものと思われる(大 脇,1992)。さらに大脇氏は,天神社が先述の惣の中心的な役割を果たしていたので はないか,と考えている(勝川資料館運営委員会編,2013,p.31)。つまり勝川地区の 住民団結の象徴として天神社をとらえているということである。
住民による歴史記録としてもう一つ取り上げたいのが,長谷川良市氏の『勝川ものが たり』(2003)である。大脇氏の著作も,在野の郷土史家としての立ち位置と,往事を 後世に伝承する語り部の立ち位置を兼ねているが,該書は,より個人の歴史に沿ったも のとなっている。それは「私の郷土も,十九号線バイパスや区画整理で全く昔の面影が 一変してしまうため,何か黙っておられないような淋しさと感慨無量の気持ちも手伝っ て,(郷土の歴史を-注釈筆者)まとめてみることにしました(p.12)。」「我が家系は一貫 して百姓を貫いた家系であり,土や石まで先祖の汗と血が染みついているといっても過 言ではありません。この土地が区画整理やバイパス工事で姿を変えてしまうことに感 慨無量のものがあるのは,私一人だけではないと思います(p.25)。」13)などのことばか らもうかがえる。
しかし,それだけに,幼少時の体験や古老からの伝聞なども豊富に記載されていて 貴重である。略歴によると,著者の長谷川良市氏は 1928年勝川生まれ,尾張時計(現 尾張精機)の取締役,顧問を務める傍ら,句作活動も精力的に行ったようである。
本文の記述から,先祖代々勝川に住み,氏は分家して惣中に居を構えたようである。
写真 3.勝川天神社