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遺    物

ドキュメント内 I 平城宮の調査 (ページ 35-39)

◎謬

4  遺    物

(1)瓦

蛹 類

出土 した瓦 の数量 は表

2の

とお りで あ る。 出土 点 数 の多 い軒 丸 瓦6133 D a、 軒 平 瓦6704AはSB16000周 辺 に集 中 して分布 し、 層 位 の上 か ら もそ の所 用 瓦 で あ っ た と推定 で きる。従来不 明で あ った6704Aの 所 用建 物 の一 つ が 明 らか に な った。

両 者 は と もに平 城 宮第 Ⅳ期 に属 す。

      (次

 

)

(2)土

器 、埴 輪

調 査 区全 域 か ら多量 の上器 が 出土 したが、多 くは包含層 や整地 上 出土 の もので

243・ 245‑1次調査出土瓦集計表

型 式 点 数 型 式    1  点 数 型 式    1点 型 式   点 数

6313

6316

型 式 不 明 平 安 時 代

  

6663

6664

6667

6721

67266732 6760

型 式 不 明

  

254 316

  1   

 

瓦 転 用 紡 錘 車        V

 

亥uET功L瓦 「 修 J

「 修 ?」

日奉 J

?J

刻 印 平 瓦 「 修 」

「 修 ?」

理 」

ξ肇 1       2 093 4kg

蜃雪  1        5,656 1kg 172 7k富

17560 勇文 i        41210 133

―‑ 38 ‑―

あ り、遺構 で はSK16275、 SE16030の ものが量 的 にま とま って い る。今 回 は、整理 期 間 な どの都 合 で図示 は省 略 したが、 SK16275出 土 土器 は平 城 宮 土 器

Vの

好 資 料 で、第104次調 査 で検 出 したSD3236C出 土 土 器 の様相 に近 い。 SE16030出 土 土 器 は 平 安 時代 初 頭 の一 括 品 で、 土 師器 を主 と し、 杯 、皿 、甕 な ど の器 種 を そ ろえ る。

「少 子 」 や「 ×」 を墨 書 した もの が見 られ る。 (玉 田 芳 英)

(3)木

木 簡 は全 部 で57点出土 した。 遺 構 別 の 内訳 は、井 戸SE16030の 掘 形 か ら削 屑1点 (判読 で きず)、 門下 層 の南 北 満 SD16040か ら56点(う ち削 屑 38点)で あ る(点数 は 1994年 4月 現在)。 後 者 の主 な もの の釈 文 を掲 げて お く。

1      

匠 コ木 万 呂 大伴 門友 造

十上 □ 村 粟 田 170・22・5  011

播麻介EIヨ

[同

 

君 力] 5。 三保里戸主矢 田部匠コ戸□□□

・ 堅魚八連

091

(115)・10・3  081

(148)・17,4  033 1はSD16040内 の小穴 か ら出土。「 大 伴 門」 は朱 雀 門 の別 称 とい わ れ 、 この門 を警備 す る門部 の姓名 を書 き上 げた ものか。SK820の 西宮兵 衛 木 簡 や 二 条 大 路 木 簡 に見 られ る門 の警 備 に関 わ る木 簡 の よ うに、 食料 支給 に関 わ る もの で あ ろ う。

なお、「 十上」 は十人単位 の統 率 者 で、三条大路木簡 に例 が あ る。

 2・ 3は

一 括

して 出土 した。 2の「 伊 美 吉 」 の表 記 は天 平 宝字

3年

(759)10月 に 「 忌 寸 」 に 統 一 され て い るか ら、 これ以 前 の もの と考 え られ る。 4・

5は

SD16040が南 面 大 垣 を抜 け る木樋 の埋 土 か ら出土 した もの。5の「 三 保里」 は、 姓 及 び 品 目か らみ て駿河 国安倍郡 の里 で あ ろ う (但 し和名 抄 に は見 えない)。 な お、井 戸 SE16030か

らは漆 紙 文 書

1点

が 出土 して お り、「 □ 志 保 」 と判 読 で き る。

υ

□ 麻

□ E 吉 美 伊 上 井 上 位    

□ 初    

□ 大     臣 史   B

朝 令   力辺 司   川

□   E 下

□     位

(渡 辺 晃 宏)

ま と め

(1)東

院 の、 南端 中央部 の様 相 と変遷 が明 らか とな った。 東 院 の東 南 隅 に は 池 を 中心 と した庭 園 が あ るが、 そ の区画 は今 回 の調査地 の東 方 で完 結 して お り、

直接 関係 はな い。 奈 良 時代 前半 に は、 北 を単 廊 、塀 で画 され た東 西 に長 い区画 で あ り、 その中でSB16050・ 16100が 中心 的 な建 物 とな る。SB16050 0 16100の 規 模 は、

宮 内省 、式 部 省 な どの八 省 ク ラスの役 所 の正 殿 に匹敵 す る もので、 か な り大 規模 な役 所 が あ った と推定 で きる。 一 方 、 奈 良 時代後半 には建物配 置 が一 変 し、 性格 の変化 を うかが わせ る。 出土遺 物 等 か ら、 A・

B期

が恭仁遷都前 、

C期

が 平 城還 都 直後 、

D期

が東 院玉殿、 E・

F期

が楊梅宮 の時期 と推定 で きる。

(2)南

面 大 垣 に開 く門SB16000を 検 出 した。SB16000Cは 、 桁 行

5間

、 梁 間 2 間 で、柱 間 は他 の宮城 門 よ り小 さいが、東 院 の東 へ の張 り出 しを ほぼ三 分 す る位 置 に あ る。 これ は、平城宮、 ひ いて は古代都城研究 の上 で、重要 な発 見 で あ る と 言 え、東 院 の張 り出 しが独立 した空 間 と して重視 されていた証拠 となろ う。 また、

門 か ら北 へ は全 面 バ ラス敷 きの宮 内道 路 が通 ってお り、北方 の宇奈 多理 神 社 の丘 陵周 辺 に重 要 な施設 が あ る可能 性 が高 ま った。 SB16000の 東 に は、 棟 門 SB9400が 開 くが、 これ は脇 門 的 な性格 の もので あ ろ うか。

今 回発 見 したSB16000が 平 城宮 の宮 城 門 の なか で どの様 な位 置 を 占 め る か とい う こ とで あ るが、平城宮 の大垣 に開 く宮城 門 は『令集解』古記 な どか ら計12門 と 考 え られ て お り、 これ まで

6門

の遺構 を確認 して い る。平城宮 の各 面 につ いて順

に見 て い くと、南面 は、若犬養 門 (南面 西 門)、 朱雀 門 (南面 中 門)、 壬 生 門 (南 面 東 門

)の

遺構 を確認 し、

3門

が 開 くことを確認 して い る。西 面 は、佐 伯 門 (西 面 中門)、 玉 手 門 (西面 南 門

)の

遺 構 を確認 し、配 置 か ら見 て

3門

が 開 く と して 良 い。 北 面 は、 これ まで門 の遺 構 を確 認 して お らず、東院 の張 り出 しが あ るため に大垣 の延長 が他 の面 に比 べて長 く、不 明 な点 が多 いが、1988年に朱 雀 門 と対 称 位 置 にあ る北 面 中門推定地 を調 査 した ところ、 その位 置 には門 が存在 しな い こと を確認 した (『昭和63年度 概報 』)。 一 方 、第一次 と第 二 次 の大 極 殿 地 区 の 間 に は 現 在 で も南北方 向 の道路 が通 って お り、1998年の橿原考古学研究 所 の調 査 で 、 道

―‑ 40 ‑―

路 の西 脇 に大 蔵 省 関連 施 設 の もの と推 定 され る大 規模 な築地 を検 出 した。 この こ とに よ って、奈良 時代 に もこの位 置 に南 北方 向 の道路 が あ った可 能性 が あ り、北 面 大 垣 との交 点 に北 面 中 門 が開 いて い た可 能性 が高 い。 これ らの知見 と、 遺 存地 割 か ら、 北面 に は大 垣 を二 等 分 す る位 置 に

3門

が 開 くと考 え られ る。

東 面 に は、 東 院 の張 り出 しが あ るた め に大 垣 が折 れ曲が り、東 院 の張 り出 しの 入 り隅部 で小 子 門 の遺 構 を確 認 して い る。東 院 の東面大垣 で は門 の遺構 を確 認 し て いな いが、第223‑16次調 査 で凝 灰 岩 製 の唐 居 敷 が 出上 し、大 垣 を三 分 す る位 置 に門 が開 くことが推定 され た (『1991年度 概 報 』)。 ま た、 東 面 大 垣 と周 辺 の調 査 で は、東二坊 々間路推定地上 に各所 で遺 構 を検 出 してお り、平 城宮 と法幸 寺 、及 び前 身 の藤原不比等邸 との密接 な関連 が うかがわれ、条坊 や平城 宮 内 の遺 構 配 置 か ら見 て も、東 院 の東面大 垣 に は

1門

の みが開 いて いたので はなか ろ うか。

こ う して見 ると、今 回検 出 した8B160001ま、平 城 宮 東 面 に お け る第

3番

目 の 門 で あ り、 当初 は掘立柱 の門 で、後 に礎 石 建 ちの

5間

×

2間

の門 に改修 され るに し て も、平 城宮 の宮城12門 の1つで あ った可能性 は十分 にあ る。 なお、 門 の名 称 に つ いて は、現状 で は確定 で きる材 料 はな く、今後 の検討課題 で あ る。

(3)東

院地 区 の南面 大 垣 の下 層 に は、 先行 す る掘立 柱塀 が あ る こ とが 判 明 し た。平城宮 の大垣 の下層 に は、北面 大 垣 で は掘立柱塀 があることがわか って お り、

西面 大 垣 で も内側 約

16mに

あ る掘 立 柱塀 が大垣 に先行 す る塀 で あ る ことが指 摘 さ れ て い る。一方、朱雀 門、壬生 門 の あ る宮南面大 垣 には先行す る掘立柱塀 はな く、

当初 か ら築地大垣 を建設 した ことが明 らか とな って い る。今 回 の発見 で、 東 院地 区 で は平 城宮 造 営 当初 は南 面 を掘 立 柱 塀 で画 して いた ことが確認 で き、 平 城 宮 の 大垣 の造 営 に関 す る新 たな知 見 を得 た。

(4)奈

良 時代 前 半 の大 規 模 な石 組 溝 と石敷 を伴 う井戸 を検 出 した。 庭 園 とは 直接 関係 の な い この一 画 に も、大 規 模 な石組 遺 構 が存在 して い た こと は、 東 院 の

性 格 を反 映 す る もの で あ ろ うか。 (玉田 芳 英)

ドキュメント内 I 平城宮の調査 (ページ 35-39)

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