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29 これについては枚挙のいとまがないが、そもそも植民地統治期に焦点をあてているため、

本稿の対象とする地域、隣接する地域の近年の研究(たとえば、Saul and Mayor 2001;

Fourchard 2001; Soares 2005; Allman and Parker 2005; Mann 2006; Weiss 2008;

Hilgers 2009; Iddrisu 2012; Kobo 2012b)において、そのような傾向は容易に看取すること ができる。

30 例外は農村における土地の占有をめぐる歴史研究(Jacob 2007; Lentz 2013)である。西ア フリカ内陸において、土地の占有は移住の経緯と深く関連しているため(本稿1章及び2章)、

植民地統治以前の移住の歴史についての検討が不可欠なものとなっている。本稿の対象と するイスラーム史は、こうした土地をめぐる歴史と原理から離れていくように展開してい ったため、これらの研究とは異なるような議論を組み立てなければならなかった。これら の研究と、真島(2006, 2007)の理論を踏まえた土地の占有をめぐる佐久間による歴史人類学 の成果(2013)を、西アフリカ内陸の歴史人類学のなかでどのように位置づけるかについては 別稿に譲りたい。

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冒頭で述べたように、本稿はブルキナファソに位置するムフン川湾曲部の通史を描くこ とを目的としている。現在、ブルキナファソというナショナルなレベルでの代表的な通史 がないことから、不完全であっても通史を書く必要性があると考えているからである。ブ ルキナファソというナショナルなレベルでの通史は 4 つあるが、いずれも大きな問題を抱 えており、代表的な著作はないといってよい。ここでは、既存の通史の特徴と問題点を指 摘し、その問題点を乗り越えるための本稿における地域設定について明らかにする。

2-1. 既存のナショナルな通史とその問題点

最も古いナショナルな通史は、オート・ヴォルタ(現、ブルキナファソ)独立直後に出版さ れた『オート・ヴォルタ歴史概要』(Guilhem et Hebert 1961)である。これは1993年まで 用いられた 120 ページほどの中学生・高校生を対象とした教科書であり、著者のギレムは ワガドゥグの師範学校の校長、エベールはボボ・ジュラソ(正確にはトゥシアナ)の中学校教 員であった(Kiethega 2003: 50)。特にエベールは植民地期からボボ・ジュラソの口頭伝承 の聞き書きをおこなってきた郷土史家であったが、この教科書では約半分がモシ王国の歴 史にさかれ、各民族についての短い概観、征服期、植民地史が書かれている。つまり、ほ とんどがモシ王国と植民地期の政治史となっている。

2つ目の通史は、高級官僚を務めたバリマが国立フランス海外領学校に提出した修士論文 を本にした『オート・ヴォルタの生成』(Balima 1970)である。この本では、モシ王国と征 服期、植民地期が扱われているが、他の民族についてはほとんど触れられていない。1つ目 の教科書も実質的にそのような内容であったが、オート・ヴォルタのナショナル・ヒスト リーをモシのナショナル・ヒストリーとして語っている。200ページほどの分量であるが、

100ページほどは政党、省庁、国会議員の一覧などが参考資料として付則されている。

年代が前後するが、この著者はのちに 400 ページにもなる大著『ブルキナファソの諸民 族の伝説と歴史』(Balima 1996a)を書き上げている。これが3冊目である。ブルキナファ ソ全体の歴史を 1 冊にまとめている著作を強いてあげるとすれば、この本になるだろう。

植民地統治以前、征服期、植民地期、独立後を対象とし、特に植民地統治以前と征服期で はモシ以外の諸民族についてもページを割いて書きこんでいる。しかし、ほとんどの場合、

典拠が示されておらず、記述の厚みも地域や時代によってばらばらになっている。率直に いえば、知り得た事柄を地域と時代ごとにそのまま書き込んである著作である。

上記の 3 冊に共通する点を述べておこう。第一に、基本的に政治史、事件史であった。

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第二に、歴史叙述の明確な枠組が設定されていなかった。第三に、モシの歴史が多くを占 めていた。第四に、これらはブルキナファソの(正確には出身者ではない)住人による著作で あった。最後の点について補足すると、このことはブルキナファソが優秀な歴史研究者を 輩出しなかったことを意味しない。フランスの大学で博士号を取得したのち、優れた業績 を残した研究者たちは通史ではなく、より限定された主題のなかで歴史研究を進めてきた。

その要因を後に述べるが、ブルキナファソの通史を書くことには学術上の困難があり、そ のために書かれてこなかったといえる。

4冊目は、ブルキナファソのビリフォルを対象としたフランスの開発人類学者であるサボ

ネ=ギュヨによる『ブルキナファソにおける国家と諸社会:アフリカの政治についての試 論』(Savonnet-Guyot 1986)である。副題に「アフリカの政治についての試論」とあるよう に、厳密にはブルキナファソの通史の提示を目的としていない著作ではあるが、サンカラ による革命政権誕生までの広義の政治についての歴史をまとめようとしたという点では通 史として捉えることもできるだろう。この本では社会構造に焦点をあてて、その社会構造 が植民地期、独立後にどのように変容したのかを明らかにしようとしたという点において、

これまでに挙げた著作とは異なっている。

この目的のために、サボネ=ギュヨは全体の半分の分量を割いて、自身が調査したビリ フォル、詳細な民族誌があるブワ、モシのヤテンガ王国の社会構造を説明し、それぞれリ ネージ体系、村落共同体体系、君主制体系としてまとめている。これらが植民地期の行政 体系の導入によって、ヤテンガ王国は既存の体制が強化され、前者二つではリネージや村 落の単位を越えた管区(カントン)長というローカルな権力の集中が生じ、独立後の広義の政 治の歪みとなったことを指摘している。全体としての主張そのものは妥当であり、狭義の 政治史を脱却したという点では評価できる。しかし、ビリフォル、ブワ、モシのヤテンガ という対象の選択が恣意的であり、それらの選択に歴史的な必然性はまったくない。また、

あくまでも社会構造に焦点が当たっているため、それぞれの対象地域の歴史的な叙述が非 常に少なく、それぞれのローカルな歴史と西アフリカ内陸の歴史がどのように接続してい るのかという全体像を得ることができない。そもそも、通史を提示することが目的ではな いため、このような批判は不当ではあるが、やはり、通史の困難さが露呈しているといえ る。

このように、ブルキナファソというナショナルなレベルでの代表的な通史がないことが 理解されるだろう。もっとも、このことはブルキナファソの諸民族や諸主題を対象とした

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歴史研究がないことを意味しない。著名な研究を挙げれば、モシの代表的な王国について の研究、植民地統治期の歴史人口学的研究、ブルキナファソの征服史研究、1915年から1916 年のムフン川湾曲部を中心として展開した住民とフランス軍との戦争についてのモノグラ フ、ワガドゥグとボボ・ジュラソの都市史研究、ブルキナファソ南部からガーナ北部にま たがるヴォルタ系諸民族の移住史研究が代表的なものであり、それぞれ高い評価を受けて いる31。つまり、特定の地域や主題の歴史に関しては、一定の研究蓄積があるが、それらを

31 ブルキナファソの歴史研究史は、大まかに四つの時代区分に分けられる。第一期

(1900-1930年代)には諸王国の歴史を口頭伝承からまとめた研究がなされた。代表的なもの

としては、のちにオート・ヴォルタ植民地となる地域に赴任していた行政官・民族誌家の トクシエ(Tauxier 1912, 1917)、医師のクレメール(Cremer 1924)、モシの王国の口頭伝承 を収集したフロベニウス(Frobenius 1986[1911-1925])、カトリック教徒であり、植民地官 吏となったモシのデロブソム(Delobsom 1932)、ボボ・ジュラソに教師として赴任したセネ ガル出身のシレ・バ(Cire-Ba 1930)などがある。これらの研究は基本的に口頭伝承、観察さ れた事実を記述したものであり、年代の安直な特定方法や口頭伝承の相互検証の欠如、ヨ ーロッパ由来の概念の安易な当てはめといった問題点を含むが、現在では一次史料として の価値をもっている。第二期(1930-1980年代)になると、特定の民族集団、王国についての 古典的な民族誌が出現するようになった。オート・ヴォルタ植民地に赴任しており、かつ モースに学んだラブレによるロビの民族誌(Labouret 1931)はブルキナファソの民族誌研究 だけではなく、フランス民族誌学研究にとっても一つの達成であった。その後、1948年の オート・ヴォルタ植民地再構成後にIFANのオート・ヴォルタ支部が設立され、その支部 の研究員や関連して研究活動を行なった研究者たちから良質な民族誌が数多く出された。

具体的には、ボボの結社についての民族誌(Le Moal 1980)、ブワの村落社会についての民族 誌(Capron 1973)、親族構造や奴隷制をまとめたサモの民族誌的研究(Heritier 1975)、口頭 伝承と社会組織からワイグヤのモシの諸王国についての歴史を再構成した民族誌(Izard 1985)、ワガドゥグのモシ王国の民族誌 (Skinner 1989)、口頭伝承と社会組織からテンコド ゴのモシ王国についての歴史研究(Kawada 2002)などがある。第三期(1980年代以降)では、

特定の民族集団に特化した古典的な民族誌研究を離れて、特定の地域の特定の主題につい て論じる研究が出現した。代表的なものとしては、ブルキナファソ南部のダガリ、ロビ、

ビリフなどの諸民族の伝播の歴史と土地所有の問題を論じてきたドイツのレンズらの研究

(Lentz 2013など)が近年では民族学と歴史学を横断する目覚ましい成果を挙げている。同

様に民族学と歴史学を横断する研究としては、ボボの「家」とコンによるボボの征服をま とめた研究(Saul 1998)を基礎として、1915-1916年のムフン川湾曲部で生じたヴォルタ-バ ニ戦争についてのモノグラフ(Saul and Royer 2001)が提示された。こうした征服の過程を 歴史的に裏付ける研究には一定の蓄積があり、ダガリへのフランスの征服の過程をまとめ たモノグラフ(Dupprey 1984)やブルキナファソを単位としてフランスの征服を全般を跡付 けた歴史研究(Kambou-Ferrand 1993b)が代表的である。正統派の歴史研究としては、征服 史研究の他に、ワガドゥグとボボ・ジュラソの植民地期の都市の発展を論じた(Fourchand 2001など)がある。玉石混交であるが、ブルキナファソの歴史についての二度の国際シンポ ジウムとその成果をまとめた論集がブルキナファソの政治史から社会史、宗教史に至る広 大な領域を扱っている(Massa et Madiéga 1995; Madiéga et Nao 2003a, 2003b)。ブルキナ ファソの歴史研究のなかで最も研究蓄積があり、精度が高いものは移民に着目した歴史人 口学である。ブルキナファソのコートディヴォワールへの移民は植民地期より大規模に生 じており、1980年代以降、アフリカの歴史人口学研究を牽引した研究者たちが植民地資料

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横断する研究がないといえる。このような現状は、地域設定と史資料のそれぞれの問題に 拠るものと考えることができる。以下にそれぞれの問題とその乗り越えについて述べる。

2-2. 地域設定の問題

ブルキナファソの歴史を叙述するにあたって、問題となることはその地域の設定である

(Madiega 2003)。まず、国民国家批判(たとえば、アンダーソン1997[1983])を経た現在に

おいて、ナショナルな枠組で素朴に歴史を再構成することはできない。まして、しばしば 指摘されるように、サハラ以南アフリカの諸国の国境線は植民者の都合によって引かれた ものであり、植民地統治以前の空間的な枠組として、現在の国境線を導入することにはま ったく根拠がない。こうしたことを踏まえて、マディエガは歴史的に統合された地域とい う枠組を提案している(Madiega 2003)。

しかし、このことも問題を含んでいる。西アフリカ内陸の植民地統治以前の国家、ある いは言語、物質文化、民族意識などを指標として、境界を設定することは非常に困難であ るからである(たとえば、川田2004: chp. 2)。経済的な統合もまた、同様である。交易は飛 び地状のパッチワークのようになっており、全体としての広域の範囲は広いものの、均質 的、あるいは同心円状に交易圏が広がっているとはいえず、むしろ、交易商人が立ち寄る 特定の村落や町が点々と散らばっていた(Saul 2004)。そして、政治、文化、経済のいずれ の局面で地域的な統一性や統合性を把握するにせよ、どの立場の人びとに着目するのか、

あるいはどの要素に着目するのかによって、設定される空間の範囲は異なりうる。あるい は、西アフリカ内陸の生態上の区分は現在の複数の国家をまたぐような非常に広範なもの であり(本稿1章)、そのことによって歴史叙述の枠組を与えることはできない。

したがって、通史の対象となるべき空間は、どの要素に着目するか、どの人びとに焦点 をあてるかによって、異なってくる。また、時代によっても、括られる範囲が変動する。

そうであるならば、どの要素に着目し、どのような人びとに焦点をあてるのかを明示し、

対象となる時代や集団に応じて対象となる空間を拡げ、場合によっては狭めることが求め られるだろう。

実際のところ、国家関係に着目するのであれば、18世紀から19世紀にかけての西アフリ カ内陸の広域の政治的な関係は、ニジェール川中流域とヴォルタ川中流域とのあいだにあ を批判的に読み解きながら精度の高い研究を量産している(たとえば、Cordell and Greogry 1980, 1982; Gervais 1983, 1993b; Gervais and Marcoux 1993)。