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第 1 部 19 世紀までのムフン川湾曲部における持続と変容:政治・経済・イス
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まず、ニジェール-コンゴ語族では、ウシ、ヤギ、ヤムイモの語彙が共通してみられてい る(Ehret 1984: 29)。また、「耕す」という動詞も――たとえば、土を掘るといった関連す る別の意味であったかもしれないが――共通してみられる(ibid.: 29)。近年の見解では、ヤ ムイモが栽培されていたかどうかは不明であるが、野生種を長期間にわたって利用してい たと考えられている(Blench 2007: 415)。のちに述べるように、ウシやヤギについても同様 であろう。他方で、弓と矢、矢毒、イヌといった語彙もニジェール-コンゴ語族に共有され ていることが指摘されている(Blench 2006)。
つぎに、農学の研究では、主要な栽培種について、野生種と栽培種の分布域の比較から、
穀物では東西のアフリカのサバンナにおいて、ヤムイムは西アフリカの森林地帯が起源地 であると推測できることが早くから指摘されてきた(たとえば、中尾1966; Harlan 1971)。
ヤムイモは考古資料として残存しにくいため、考古学的な裏付けができないが、西アフ リカの森林地帯で(長期の定住を伴わない)ヤムイモのある程度の選択的な利用、弓と矢、矢 毒、イヌの導入という狩猟技術の進展が生じたと考えられる。
このことは西アフリカの文化的な中心地がサバンナと森林地帯の 2 つにわかれていた可 能性を示唆している。そして、注意を喚起すべき点は、現在のブルキナファソがこの二つ の中心地の中間に位置していることである。
現在のブルキナファソの言語分布は、18世紀前後に到来したと考えられている、アフロ・
アジア語族のハウサ、タマシェク、大西洋コンゴ語派のフルベを除くと、北西部を中心と したマンデ語派の諸言語と、南部と東側にまたがるグル語群(ヴォルタ語群)の二つに大きく わけられる(Lewis 2009)。単純化していえば、北はマンデ語派、南はグル語群にわかれる。
グリーンバーグの古典的な見解では、マンデ語派とグル語群はニジェール・コンゴ語族に 属しているが、マンデ語派はニジェール・コンゴ語族に入らないという見解が一定の研究 者から提起され続けている(Mukarovsky 1966; Dimmendaal 2008)。少なくとも、マンデ語 派とその他の語派との分岐は非常に早く、プロト-ニジェール・コンゴ語族からの第一回目 の分岐、ないしは第二回目の分岐として想定されている(Williamson and Blench 2000;
Ehret 2000、図1-1)。他方で、グル語群はバンツー諸語との分岐が相当程度近接している
(ibid.)。つまり、西アフリカでの森林地帯において、狩猟と採集の両面で技術的な革新が遅
くとも4,000-3,000年前には生じており、グル語群とバンツー諸語はこうした文化を共有し
ていたと考えられる。
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図1-1. ニジェール・コンゴ語族の言語系統図(Williamson and Blench 2000: 18, 20-21を 基に筆者作成)
1-2. 緑のサハラにおける牧畜と採集の混合経済(5,000 BC-2,000BC)
西アフリカ内陸における牧畜の起源は、いまだ最終的な決着をみていないものの、一般 的には、サハラにあると考えられている。牧畜にどこまで依存していたのかは不明である が、発掘調査をまとめたものからは、サハラでは7,500-6,500年前からウシを利用していた とされる(Marshall and Hildebrand 2002: 109、図1-2)。また、最古の家畜のヤギとヒツジ
は7000-6700 年前の東部サハラの遺跡から出土している(ibid.: 110)。また、のちに述べる
ように、ウシの西アフリカの導入は4,000-2,500年前のあいだにおさまっている。このこと から、マーシャルらは、農耕が牧畜に先行した(もしくは同時並行した)南西アジア、メソア メリカ、北東部アメリカと比較して、アフリカでは牧畜が農耕よりもかなり先行している ことに注意を喚起している(ibid.)。もっとも、この議論はサハラを念頭においたもので、西 アフリカでは家畜と栽培種の出現時期にそれほど大きな差はない。ともあれ、サハラで成 立した家畜の利用が農耕を伴うものではなかったことは重要な点である。
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図1-2. 家畜ウシの初期の出土遺跡(Marshall and Hildebrand 2002: 110)
マーシャルらは栽培化が生じなかったことの理由を、完新世初期の不安定な気候変動と 遊動生活にもとめている(Marshall and Hildebrand 2002: 139)。同じ場所での定期的な播 種が可能ではなかったと考えているのである。マーシャルらは別の事例を引いているが、
牧畜と採集の組み合わせについては、サヘル地域での農牧をおこなう民族の研究において 報告がなされている。どのような生業であったのか、現状の民族誌からかなり具体的なイ メージがつかめるだろう。
たとえば、ニジェールのサヘル地域の牧畜民のケル・タマシェクは農牧をおこなってい るが、日常的にイネ科草本種子の採集をおこなっており、食糧不足の際には例年以上に重 要になることを指摘している(Bernus 1967, 1980)。また、ブルキナファソ北東部のサヘル 地域に定住して農牧をおこなうケル・タマシェクの生業活動を報告した石本は、バオバブ (Adansonia digitata)な ど の 葉 、 イ ネ 科 草 本(Panicum laetum; Setaria pallide-fusca; Eragrostis sp.; Echinochloa colona; Oryza barthii; Cenchrus biflorus)の種子、スイレン科
植物(Nymphaea sp.)の塊茎の採集がなされていることを報告している(石本2012: 85-87)。
採集法には籠をふって種子をかきいれる方法と刈り取る方法があり、1ヵ月に満たない短期 採集行と3-4ヵ月におよぶ長期採集行があることを指摘しているが、いずれの方法や採収行
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においても採集地について生育状況の知識の有無によって作業効率が大きく変動すること を明らかにしている(ibid.: 88-89, 96-97)。収穫量についても詳細な記述がなされているが、
たとえば、野生イネを1人で10日間、採集をおこない、20kg、1世帯の10-15日分の食事 をまかなう程度を収穫している(ibid.: 90)。長期採集行は出稼ぎ、賃労働の増加によって年々 減少しているが、1990年代以前には、採集物が数ヶ月分の食糧をまかなう年も多かったと いう聞き取りが紹介されている(ibid.: 99-101)。単純な比較はできないが、牧畜と採集活動 が並行して行われていたことの具体的なイメージがつかめるだろう。
一般論としていえば、動物飼養によって全食料をまかなう社会は非常に稀であり、大部 分の牧畜民は自らの社会内で農耕を営むか、農耕民との接触によって農産物を得てきてい
る(福井1987)。アフリカの乾燥・半乾燥地域に位置する10の牧畜社会における摂取カロリ
ーを比較した研究では、農産物からの摂取カロリーが最も低いケニアのトゥルカナでさえ 農産物からの摂取カロリーは全体の 8%を占め、西アフリカの 4 例(ニジェールのタマシェ ク、フルベ、マリのタマシェク、セネガルのフルベ)においてはいずれもおよそ50%以上と なり、10の牧畜社会のなかで最も高いのはニジェールのフルベで63%にも及んでいること が示されている(Galvin and Little 1999)。このような生態人類学の成果は、割合の大小は あるものの、牧畜と採集活動の併存状況を示唆している。
しかし、より重要な点は西アフリカと東アフリカの牧畜のあり方の違いであろう。一般 論としていえば、西アフリカでは牧畜民は牧畜に専業特化しているが、東アフリカでは生 態系に応じて農耕をおこなう比率が変化する半農半牧という生業形態になっている。福井 は、古代エジプトの壁画にはウシの耕作利用が描かれているのに対して、サハラの岩壁画 にはそれがないことに注目して、農業と牧畜が有機的に結びつかない農牧システムの起源 として、サハラの牧畜を捉えている(福井1999: 40-41)。
要するに、牧畜への専業特化が進んだのは、この段階ではなかった。別の角度からであ るが、サハラの牧畜をstock keepとして捉え、専業特化は後の時代に進行したとリンセー レは主張している(Linseele 2010)。
1-3. 栽培種と家畜をもつ狩猟採集民(2000 BC- 0AD)
論者によっては、西アフリカの大半では、家畜と同様に、栽培種も緑のサハラに住んで いた人びとによって持ち込まれたと想定している(たとえば、Linseele 2010: 58)。しかし、
一般的にいって、ウシ、ヤギ、ヒツジ、ニワトリといった代表的な家畜の起源地がアフリ
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カ大陸ではないのに対して(Linseele 2013: 157-159)、アフリカイネ、ミレット、ソルガム といった主要な穀物は西アフリカ起源であること(中尾1966; Harlan 1971)を踏まえると、
栽培種については緑のサハラに居住していた人びとによって持ち込まれたと断定すること ができない。緑のサハラに住んでいた人びとであるのか、西アフリカの森林地帯に住んで いた人びとであるのかは別として、乾燥化が生じた紀元前 2 千年紀に、現在の西アフリカ のサヘル、サバンナに居住していた人びとが、この地で栽培種を生み出したと考えるのが 妥当であろう。
紀元前 2 千年紀の西アフリカのいくつかの遺跡では、ウシの骨の出土が報告されている
(表1-1)。最も古いのは、紀元前2千年紀初頭と想定されるマリのウィンデ・コロジ西(Winde
Koroji Ouest)遺跡の事例であるが(MacDonald 1996)、近年の再検討によれば、このウシは 野生種に近いものであったとされる(Linseele 2007: 132, 137)。また、ブルキナファソ北部 の遺跡群では、紀元前2,000-1,000年の遺構は極端に規模が小さく、家畜の骨も出土してお らず、非常に遊動性に富んでいたと解釈されている(Linseele 2013: 151)。
ウシ(Bos primigenius f. taurus)/サンガウシ(Sanga cattle)/ゼブ・ウシ(Bos primigenius f. indicus)
国 遺跡 年代 文献
ナイジェリア ブカルクラリ遺跡(Bukarkurari) 紀元前1600-1500年 Linseele 2007 マリ ウィンデ・コロジ西遺跡(Winde Koroji Ouest) 紀元前2200-850年 MacDonald 1996
コバディ遺跡(Kobadi) 紀元前1600年 Jousse and Chenal-Velarde 2002 ティレムシ遺跡(Tilemsi) 紀元前2千年紀 Smith 1974, 1975
コリマ南遺跡(Kolima-Sud) 紀元前1100-900年 MacDonald 1994 モーリタニア ダール・ティシット遺跡群(Dhar Tichitt) 紀元前1500-1100年 Munson 1976
ダール・ティシット遺跡群(Dhar Tichitt) 紀元前990-905年 MacDonald et al. 2003
表1-1. ウシの骨を出土した紀元前2千年紀の西アフリカの遺跡(なお、ウシとゼブ・ウシは
出土する骨の形態からは識別ができないため、このような表記となっている(Linseele 2013:
151))
トウジンビエもまた、紀元前 2 千年紀のあいだにモーリタニアからナイジェリア、ガー ナ北部まで広がっている(表 1-2)。最古のトウジンビエは近年更新され、マリのティレムシ 遺跡から出土した紀元前2,500年のものが最古とされる(Manning et al. 2011)。しかし、そ の他の遺跡では紀元前 2 千年紀から出土しており、トウジンビエのへの依存は地域によっ て差異がある。ブルキナファソの北東部の遺跡群の一部からは、この時期にトウジンビエ が出土しているが、わずかなものであり、野生の植物の利用が優勢であった(Kahlheber and
Neumann 2007: 321)。他方で、ガーナ北部のビリミ遺跡では、植物遺存体の50%がトウジ
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ンビエであるのに対して、11%が野生種の穀物となっており、トウジンビエに特化していた ことがわかる(D’Andre and Cassey 2002: 159)。ビリミ遺跡の報告者は、どのような栽培を 行っていたかを具体的に明らかにする手がかりにかけるとしつつも、遊動性を減少させた ことは確かであろうとしている(ibid.: 163)。モーリタニアのダール・ティシット遺跡群はよ りインテンシブにトウジンビエを利用していた。この遺跡群では、トウジンビエは豊富に 出土しており、穀物倉を思わせる遺構も報告されている(Amblard 1996; Amblard-Pison 1999)。また、ウシの骨も出土していることから(Munson 1976; MacDonald et al. 2003)、
半農半牧の生業形態をより洗練化させていたと思われる。
栽培の初期段階のステップがどのようなものであったのかについては議論が分かれてい る。一部の論者は、ティレムシ遺跡やビリミ遺跡から出土したトウジンビエの種子が小さ いことから、栽培の初期段階を示すものと解釈している(D’Andrea et al. 2000; Manning et al. 2011)。ブルキナファソ北東部の遺跡群から出土したトウジンビエも種子が小さいもので あったが、必ずしもそのように解釈する必要性はない(Kahlheber and Neumann 2007: 324, 329)。種子のサイズと重量の増加は選別の結果として生じるものであり、単に選別が行わ れなかったと解釈できる(ibid.: 329)。言い換えれば、最初に栽培を導入した人びとは比較的 簡単な技法で栽培していたのであり、意図的な選別は後の時代に生じたといえる(ibid.: 329)。
また、紀元前 2 千年紀には、西アフリカではトウジンビエだけが唯一の栽培種であったこ と、ガーナ北部を除けば、完全な定住がいまだ確立されていなかったことを考慮すると、
栽培は生業のなかではマイナーな役割であったと推測される(ibid.: 330)。つまり、乾燥化の 結果として形成されたサヘル、サバンナ地帯で遊動生活を営んでいた諸集団の意図的でな い選別がトウジンビエのドメスティケーションを生じさせたのである。あるいは、後年の アフリカイネ、フォニオ、ソルガムといった栽培種の導入は定住以後のリスク拡散の戦略 として導入された可能性がある。
しかし、一方で一部の地域では家畜や栽培種と無関係の狩猟採集が10世紀前後まで継続 していたことにも注意を払う必要がある。ブルキナファソ南部のゴブナング(Gobnangou) 遺跡では、11 世紀まで、野生植物と野生動物のみを利用し、例外的に家畜化されたイヌの 遺骸が出土しただけであった (Frank et al. 2001)。近年の報告ではこの遺跡、もしくは近 隣の遺跡にトウジンビエの利用が紀元前2000年ごろにわずかにあったことが示されている が(Dueppen and Gallagher 2013)、この報告においても、紀元1千年紀まで遊動生活が継 続していたとされる(ibid.)。同様に、マリのコルンコロカレ(Korounkorokale)遺跡において