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つぎに、本稿で取り扱う史料についての検討を行う。まず、どのような史料があり、ど のような史料にアクセスしたのかを述べる。つぎに、各史料の性質について論じ、それぞ れの性質を踏まえた本稿における分析の方法論を示し、それらの方法論を用いることが本 稿でいう歴史人類学であることを述べる。

3-1. 史料の概要と一般的な制約

ブルキナファソを対象とした歴史学が固有のナショナル・ヒストリーを書けなかった要 因の一つに、フランス植民地統治期の行政文書の分散・散逸が挙げられるだろう。文字史 料をベースとする歴史学の研究では、フランス語で書かれた文字史料が基礎的な一次資料 となっている。一次資料は、(1)各種の報告・調書・通達・電信などの行政文書、(2)カトリ ック宣教団による日誌・報告・記事・論文などの史料、(3)ムスリム文化連合の活動記録の 史料、(4)行政官民族誌家・教員・民族誌家による報告・論文・民族誌・回想録・伝記的小 説の史料に大別できる。本稿ではこれらすべてを駆使して論述を行うが、多くの先行研究 と同様に、圧倒的に数量の多い行政文書に依拠している。

1990年代までの行政文書の状況については、すでに報告され、ブルキナファソ特有の問 題が指摘されている(Gervais 1993a; Ouedraogo 2003; Sissao 2003)。このことは、植民地 の領域区分の歴史と深く関わっている。1900年に現在のブルキナファソの領域でのフラン ス軍の征服がいったん終了し、この領域は軍管区による統治を経た後、1904年に編成され たオー・セネガル・ニジェール植民地に組み込まれた。その後、オー・セネガル・ニジェ ール植民地から分割して、オート・ヴォルタ植民地(現、ブルキナファソ)が1919年に編成 された。しかし、1933年に隣接する植民地に分割併合され、1947年にかつての領域とほぼ 重なるオート・ヴォルタ植民地が再構成され、1960年に独立を果たした。行政文書は植民 地行政の実務での使用が主たる目的の文書であったため、1933年に分割併合された際に、

隣接する植民地に移管され、現在のマリ、コートディヴォワール、ニジェールの公文書館

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に1946年以前の行政文書が部分的に保管され、史料が分散してしまっている。また、こう した移管の際に、多くの行政文書が散逸したことは想像に難くない。仏領西アフリカの他 の植民地の歴史研究と条件が大きく異なるのは、この点である。

2つ目のブルキナファソ特有の問題は、仏領西アフリカから独立した他の諸国家と異なっ て、2001年まで国立公文書館がなかったという点である。2000年以前においては、歴史研 究者は、植民地期の行政文書を保管していた各省庁と研究所にアクセスしていた。2001年 にブルキナファソ国立公文書センターが設立されると、ここに各省庁と研究所から移管さ れた(Cissé 2004: 3)。個人からの寄贈も受け付け、2014年現在も整理作業が進行しており、

基本的には保管していた省庁ごとに分類・整理したカタログを新たなカタログが出されて いる。こうしたことから、これまでアクセスされてこなかった新史料が公開される一方で、

2000年以前に歴史研究者が用いてきた史料――基礎的で情報量の多いと推測される史料―

―が必ずしも国立公文書センターで見つけることができないという問題点を有している。

また、国立公文書センターで現在公開されている史料の大半は、オート・ヴォルタ植民地 が再構成された1947年以降のものとなっており、一定の限界を有しているといわなければ ならない。

3つ目の問題は植民地統治期の行政文書の散逸である。植民地期の行政文書はオート・ヴ ォルタ植民地という単位のほか、それよりも一段階の下位の行政区分である管区において も作成・保管されており、当時の行政文書を旧管区の拠点となった都市の高等弁務官 (l’Haut-Commissariat)事務所が現在、これを引き継いでいる。ボボ・ジュラソ、デドゥグ の事務所には史料のカタログがなく、デドゥグでは整理・分類がなされていなかった。こ うしたボボ・ジュラソ、デドゥグに残された行政文書には、2000年代以前に複数の人類学 者がアクセスしている。著者はそれぞれの事務所で植民地期の行政文書のすべてに目を通 し、断片的な新史料を見つけることができた一方で、先行研究で引用していた史料を見つ けることはできなかった。

コートディヴォワール国立公文書館においても、先行研究が用いている一部の史料をみ つけることができなかった。コートディヴォワール国立公文書館では、1988年にオート・

ヴォルタ植民地に関連する史料をまとめたカタログが作成されているが、2015年の筆者に よる調査では、このカタログに記載されている史料の大半の所在が不明となっていた。フ ランス国立海外公文書館とこの公文書館に所蔵されているセネガル国立公文書館所蔵史料 のマイクロフィルムでは、先行研究が参照している史料にアクセスできないという事態は

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生じなかったが、これらの公文書館の所蔵資料においても、植民地期の各種の年次報告に 欠番が多々みられる。

まとめると、一般論としていえば、仏領西アフリカから独立した他の諸国と比して、ブ ルキナファソの行政文書は分散・散逸の度合いが相対的に大きく、通史の困難も基本的に はこのことに求められるだろう。行政文書には、植民地行政の関心による偏向が前提とし てあるが、そのことに加え、史料管理の問題から偶発的にアクセスできる史料に大きな偏 りがある。ある特定の時代の特定の地域や事柄に関しては、相当数の史料にアクセスする ことができるが、その前後の時代や同時代の隣接地域に関する史料がほとんど欠落してい るというケースがほとんどである。その結果、包括的な通史を書くには、空白となってし まう時代や地域が生じてしまうのである。こうした史料上の制約から通史を書くことは困 難になっている。

たしかにこのような史料の制約は容易に埋められるものではない。とはいえ、聞き取り で得られたデータに加え、これまであまり参照されることのなかった、調書・通達・通信 などの断片的な史料、カトリック宣教団の残した種々の史料や元植民地行政官の回想録、

ムスリム文化連合の活動記録、植民地行政官や人類学者による民族誌などの参照しうる史 料を総動員することによって、多少なりとも、この史料上の制約は補完されるだろう。膨 大な史料から叙述される他地域の重厚な通史と比較すれば、本稿で叙述する通史は軽いも のとなるであろう。しかし、すでに述べたとおり、そのような通史さえもないという現状 を鑑みれば、通史を書くことの意義は明らかである。さらに、こうした多種多様な史資料 の読解は、独自の歴史人類学のあり方を要請する。このことを次節で述べ、本稿における 歴史人類学の意味を明らかにしよう。

3-2. 民族誌としての史料、史料としての民族誌・小説

本稿では、筆者自身の聞き取りによって得られた資料と公文書館等における史料調査に よって得られた上述の広範な史料を用いて、ムフン川湾曲部の歴史を再構成する32。これら

32 これらの調査は2012年から2016年にかけて断続的に実施され(2012年10月-2013年1 月、2013年6月-2014年1月、2015年2月-3月、2016年2月-3月)、ブルキナファソで は計11か月のフィールド調査と史料調査、コートディヴォワール国立公文書館及びフラン ス国立海外公文書館において計2か月の史料調査を行なった。なお、聞き取りは、ダフィ ン語、ジュラ語、フランス語を解する調査助手とともに行った。サファネ周辺ではスワロ・

セレ、ボボ・ジュラソ周辺ではユースフ・トゥグマがそれぞれ調査助手として通訳を行な った。聞き取りは基本的に筆者のフランス語の質問を通訳を介して行ったが、フランス語

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の性質の異なる史資料を取り扱うことについては、方法論について述べておきたい。そし て、この方法論こそが、植民地統治以前と植民地統治以降の歴史をつなげる、本稿のいう 歴史人類学である。

聞き取りによる資料と文字史料はある意味においては基本的な条件を同じくしている。

口 頭 伝 承 と 文 字 史 料 は と も に 語 り 手 / 書 き 手 の 解 釈 を 内 包 し た も の で あ り(川 田

2001[1976]: 5-6)、テクストであれ、非テクストであれ、「だれが、どこで、だれを対象とし

て、いつ、なにを、どのように、表象しているのか、制作しているのか、そして偶然もふ くめてなにゆえ現在にまで伝わってきたのか」という史料批判が必要とされる(福井 2004:

80, 83)。このような基本的な条件と史料批判の前提を踏まえたうえで、本稿で参照する聞 き取りによる資料と文字史料は両者の類似と差異に応じて、およそ 3 つにわけられる。す なわち、聞き取りによる資料と文字史料には、その両者が、(1)ほぼ同質なものとして捉え うるもの、(2)差異があるものの連続したものとして捉えうるもの、(3)まったく異質なもの にわけられる。

(1)ほぼ同質なものとして捉えうるものの最たる例は、村の起源譚である。本稿2 章で論

じるように、西アフリカ内陸においては先着原理によって、基本的に、土地の最初の到来 者が土地の霊との関係を結び、その子孫が土地の主となり、村の土地の用益権を有するよ うになっている。したがって、誰が最初にやってきたのかという歴史は、村内において非 常に重要な社会的意味をもっており、どの村に行っても、村の起源譚は長いものであれ、

極端に短いものであれ、必ず存在していた。サファネやその周辺の村々で筆者は、こうし た村の起源譚を多く聞いてまわった。

こうした調査は歴史人類学の研究としては基本的なものである。たとえば、ガーナ北部 で調査を行なった歴史人類学者のレンズはこうした村々の起源譚を集中的に収集し、村落 社会のモビリティの志向性を読みとっている(Lentz 2013)。あるいは、特定の村や地域の歴 史を対象としたブルキナファソのワガドゥグ大学の修士論文にも、自身が聞き取った、い くつかの村の起源譚がとりあげられている(Vinama 1983; Larou 1985; Kan 1986)。

こうした村の起源譚を聞き取り、文書化していたのは、人類学者だけではない。ブルキ を解するインフォーマントとなった人びとの一部とはフランス語で直接インタビューを行 なった。なお、本稿のもととなった調査は2012年から2015年の調査は特別研究員奨励費

(2012年度-2015年度)、2016年の調査は総合地球環境学研究所「砂漠化をめぐる風と人と

土」プロジェクト(代表・田中樹)の研究費によって可能となった。ここに記して、ここに深 く御礼申し上げます。