part 2 本論 12
1.1 Praj˜n¯aprad¯ıpa 第 22 章導入部
1.1.3 議論の主眼
1.1 Praj˜n¯aprad¯ıpa第22章導入部 23
´sakyam. tath¯agatatvam anupr¯aptum / tasm¯ad vidyata eva bhavasam.tatis tath¯agatasadbh¯av¯ad iti //
またもし生存の連続(bhavasam.tati)が存在しないならば,そのとき如来も存在ないだろう.なぜなら ば,一生涯で如来の境地(tath¯agatatva)に到ることは不可能だからである.したがって,如来は実有 であるから,生存の連続は必ず存在する,と〔対論者は言う〕.
如来が長い時間をかけて(mah¯ak¯alena, Pras[p. 431.b1])仏陀の境地に達したことを考えると,「生存の連続」
という場が必要となり,その活動の場が存在しなければ,如来もまた存在しえなかったであろう.Prasにお ける対論者はそう主張する.さらに翻って,如来が実在者として活動していたという事実があり,だからこそ 生存の連続の存在が証明されると述べて,如来が実有であることを根拠として,生存の連続を証明しようと試 みている.つまりPrasにおける対論者は,「如来」をテーマとするこの第22章において,如来の実在を証明 することによって,生存の連続を説明しようとしているのである.ここに,如来の存在性によって諸法の存在 性を導こうとしたPPr同章の対論者の見解との違いを見出すことができる.
月称はこの対論者に対して,「生存の連続」をネガティブな意味で解釈し,生存が連続するのは,対論者が 露呈しているような無知(aj˜n¯ana)が原因であることを指摘する:
Pras[p. 432.5–6]: bhavad¯ıyam eva h¯ıdam atimahadaj˜n¯anam. bhavasam.t¯anasy¯avicchedavartit¯am.
c¯atid¯ırghak¯alam. ca gamayati
あなたの持つこの深刻な無知こそが,生存の連続の,間断なき生起と極めて長い時間を持つこととを理 解させるのである.
ここでの生存の連続は「輪廻」と考えて良いだろう.月称は輪廻の原因として無知を指摘し,如来の存在性 が輪廻を導くわけではないことを指摘している.これは,縁起説において苦の根本原理に「無明(avidy¯a)」が 置かれていることを意図した解釈であると言うことが可能であろう.Prasにおいて月称は,対論者が無知ゆ えに実在としている「如来」が空であることを示すために,如来の無自性が示された第22章第1偈の注釈に 取りかかるのである.
このように,PPrとPrasとでは,対論者が如来の実在性を根拠として主張したいことの内容が,前者では 諸法の実有性,後者では生存の連続の存在性というように相違する.しかし,それぞれが違う問題意識を持ち ながらも,この章においては「如来」がトピックとなり,MMKに沿いながら如来の考察が深められていくの である.
PPr[副論0.3]: ’dir bshad pa / gal te tha snyad du gtogs pa’i blo gros kyis (P kyi) dngos po rnams dang / de bzhin gshegs pa ngo bo nyid yod pa kho nar ’dod na ni grub pa la sgrub pa nyid yin no // ’on te don dam par na ni re zhig de bzhin gshegs pa nyid je (P rje) dpyad par bya ste /
【清弁の応答】これに応えよう:もし,言説(*vyavah¯ara)に属する知(*mati)によって「諸存在と 如来は必ず有自性である」と主張するならば,〔それは〕すでに証明されたことを〔再度〕証明するこ
と(*siddhas¯adhana)に他ならない.またもし勝義として〔「諸存在と如来は有自性である」と主張す
るの〕であれば,まず,如来こそを第一に検討すべきである.
対論者の主張である「諸存在と如来は有自性である」という中の「諸存在(dngos po rnams)」とは,対論者 が最も有自性であると言いたい主題であり,「諸法」と言い換えても差し支えないだろう.本章において如来 は,その諸法の有自性性を証明するための喩例とされる.ここでの「如来」については,PPrTが「如来の二 種の身」と注釈しているように*42,対論者が提示した法身と色身を含んでいると考えて良いだろう.つまりこ の第22章においては,その二種の身が勝義として有自性か否かを検討しようと言うのである.そして,清弁 が章を通じて明らかにしていることは,色身はもちろん,法身も無自性であるということである.しかしここ で無自性とされる「法身」とは「教えの集積」という意味であり,それは章の後半で言説(vyavah¯ara)ある いは戯論(prapa˜nca)として取り扱われることになる.対論者が提示している「法身」はその「教えの集積」
という意味で用いられている,あるいは清弁がそう見なしているということに注意を払いながら,この先きの 検討を進めたいと思う.
一方で,世俗としての如来に関しては議論しない,ということも述べられている.その中で対論者が「世俗 として諸存在と如来とに自性がある」と述べたことに対して,清弁が「それは分かりきったことであり,当 然である」と反応していることには目をとめる必要がある.「言説に属する知(tha snyad du gtogs pa’i blo gros)」すなわち言語や概念を伴った知から見れば,色などの諸存在と,法身・色身としての如来は有自性であ るのは当然であり,それはすでに証明されたことを再度証明するという誤謬である,と述べているのである.
言説レベルすなわち世俗レベルにおいて,自性の存在を自明の理として認めており,清弁にとって,世俗的に は諸存在も如来も有自性で問題ない,ということである.つまり,「世俗としての如来の身」については対論 者の見解に対して異論がなく,分かりきったことである,という清弁の見解が伺えるのである.このことに関 して注釈者は教証を用いて説明している:
PPrT[D Za 168b5–169a3, P Za 204a5–b2]: pha rol po dag kun rdzob (P ins. pa) kyi tha snyad du gtogs pa’i blo gros kyis (P ins. /) gzugs la sogs padngos po rnams dang / de bzhin gshegs pa’i sku rnam gnyisngo bo nyid yod pa kho nar ’dod na nikho bo cag dbu ma pas kyang lung las /
gzugs ni dbu ba rdos pa ’dra //
tshor ba chu bur dag dang mtshungs //
’du shes smig rgyu ’dra ba ste //
’du byed rnams ni chu shing bzhin //
rnam shes sgyu ma lta bu zhes //
yang don dam par ngo bo nyid med pa nyid du gsal ba)」と述べていることは,対論者の言う勝義法身と世俗色身とが,中観派の 勝義としての立場から検討されるという本稿の理解を支持する.
*42PPrT[D Za 168b6, P Za 204a6]: de bzhin gshegs pa’i sku rnam gnyis.
1.1 Praj˜n¯aprad¯ıpa第22章導入部 25 nyi ma’i gnyen gyis bka’ stsal to //
zhes bya ba dang /
ri’i rgyal po gangs kyi lho phyogs chu klung skal ldan shing rta’i ’gram dang nye ba drang srong ser skya’i bsti gnas su ´s¯akya’i rgyal po zas gtsang gi sras po rgyal bu don thams cad grub pa zhes bya ba byung ste / de khyim nas khyim med par rab tu ma byung na ni ’khor los sgyur ba’i rgyal po gling bzhi la dbang ba rin po che sna bdun dang ldan par ’gyur ro //
khyim nas khyim med par rab tu byung na ni bla na med pa’i sangs rgyas skye bo mang po la phan pa dang / (P om. /) skye bo mang po la bde ba dang / lha dang mi rnams kyi ston par ’gyur ro
zhes gsungs pa dag khas blangs pas de dag kho bo cag gi phyogs la yang (D yang: P ma) grub pa’i phyir khyed kyi sgrub pa de / (P om. /) grub pa la sgrub pa nyiddu ’gyur bas mi rung ngo //’on te don dam parde dag ngo bo nyid yod pa kho nar ’dodna nimi ’grub ste / de la re zhigkhyod kyis dpe de bzhin gshegs pa nyid je (P rjed) dpyad par bya stezhes ston to //
〔対論〕相手たちが,世俗の言説に属する知によって,色などの諸存在と如来の二種の身とは,まさに 有自性であると主張するならば,我々中観派の者たちによってもまた,教証に「『色は泡沫の如く,受は 気泡の如く,想は蜃気楼の如く,行は芭蕉の如く,識は幻の如し』と大陽の末裔は仰った*43 」と,ま た「山の王ヒマラヤの南方Bh¯ag¯ıratha河の岸辺近くの,カピラ仙の住まう処に,´s¯akya族の王シュッ ドーダナの王子「あらゆる目的を成就した者」と呼ばれる者が産まれ,彼は出家しないならば,四洲を 治め,七宝を具えた転輪王となり,出家するならば,無上覚を多くの人々にもたらし,多くの人々を幸 福にし,天人たちの教師となろう」と仰っていることを認められているので,それらは私たちの主張に おいても証明されているから,あなたのその証明は,すでに証明されたことを〔再度〕証明することに 他ならないことになるので,不合理である.またもし勝義として,それら〔諸存在と如来と〕がまさに 有自性であると主張するのであれば,証明されず,そのうちまずあなたは,喩例である如来こそを第一 に検討すべきであると,示されているのである.
つまり,世俗的な知によって如来を見たとき,色などの諸存在つまり五蘊と,法身あるいは色身である如来 は,有自性にほかならないということであり,それは中観派も認めるところで,今さら証明する必要はない.
教証には五蘊に関するSam. yutta-nik¯ayaの偈と,如来である釈尊の出自の逸話が引用されており,世俗とし ての如来はそれぞれ経典に説かれている通りの姿であることが示されている.
*43Sam. yutta-nik¯aya, Khandha-vagga[PTS, SN vol. 3, p. 142.5b–3b.]: phen.apin.d.¯upamam. r¯upam. // vedan¯a bubbul
˚upam¯a // mar¯ıcik¯upam¯a sa˜n˜n¯a // sa ˙nkh¯ar¯a kadal¯upam¯a // m¯ay¯upama˜nca vi˜n˜n¯an.am. // d¯ıpit¯adiccabandhun¯a //.