part 2 本論 12
1.2 如来は五蘊と同一でも別異でもないから無自性である( k. 1 )
1.2 如来は五蘊と同一でも別異でもないから無自性である(k. 1) 27 られている,ということである.その意味で智は五蘊に含まれると言っているのであり,智は五蘊の一部であ るからこそ,五蘊たる如来を否定することによって,智も否定されることになるのである.
「智としての如来は五蘊と同一でも別異でもない,さらに別異でないから,二項間に成り立つそれ以下の三 つの観点からの考察は意味をなさない」.それが第1偈に対する清弁の見解の骨子である.「五蘊には「色」と いう智たる如来には見られない要素が見られるから同一ではない.しかし一方で智は五蘊の一部であるから,
別異でもない」.そう明言はされていないが,以上で述べられた五蘊と智との関係を勘案すれば,清弁がその ような意図をもっていたと考えることも可能であろう.以下,視点を変えながら詳述される清弁の議論を,問 題点を整理しながら順を追って見ていこう.
1.2.2 第1支分の考察
まず,五蘊と如来との関係を吟味する第1偈中の第1番目の支分「諸蘊は如来ではない」あるいは「諸蘊と 如来は同一ではない」については,推論式を用いて次のように説明が加えられている:
PPr[副論1.1]: ’dir rjes su dpag pa ni [paks.a] don dam par phung po rnams ni de bzhin gshegs pa ma yin te / [hetu1] phung po nyid yin pa’i phyir dang / [hetu2] ’byung ba dang ’jig pa’i chos can nyid yin pa’i phyir [dr
˚s.t.¯anta] dper na / so so’i skye bo’i phung po rnams bzhin nam / (P om.
bzhin nam /) phyi rol gyi sa la sogs pa dag bzhin no // de bzhin du byas pa nyid la sogs pa’i gtan tshigs dag gi phyir ro zhes kyang brjod par bya’o //
yang na [paks.a] don dam par phung po rnams ni de bzhin gshegs pa ma yin te / [hetu1] de dag gi skye ba bkag pa’i phyir dang / [hetu2] gzugs la sogs pa dag gi rdzas su yod pa nyid bkag pa’i phyir ro //
yang na ye shes ’ba’ zhig phyogs su byas nas brjod par bya ste / [paks.a] don dam par ye shes ni de bzhin gshegs pa ma yin te / [hetu1] ’byung ba dang ’jig pa’i chos can nyid yin pa’i phyir dang / [hetu2] shes pa nyid yin pa’i phyir [dr
˚s.t.¯anta] dper na so so’i skye bo’i shes pa bzhin no //
以上についての推論(*anum¯ana)は〔次の通り〕である:【主張】勝義として諸蘊は如来ではない.【証 因1】集積したもの(*r¯a´si)であるから.【証因2】生滅法を有しているから.【喩例】たとえば,凡夫 の諸蘊のように,あるいは,外の地などのように.同様に「所作性などの諸証因の故に」とも言うべき である.
あるいはまた,【主張】勝義として諸蘊は如来ではない.【証因1】それら〔諸蘊〕の生起を否定するか ら.【証因2】色などの実有(*dravya)性を否定するから.
あるいはまた,智のみを主題として(*paks.¯ıkr˚tya)〔次のように〕述べるべきである:【主張】勝義とし て智(ye shes)は如来ではない.【証因1】生滅法を有しているから.【証因2】知(shes pa)であるか ら.【喩例】たとえば,凡夫の知のように.
「勝義として諸蘊は如来ではない」ということを主張するために最初の論証式においてはまず,三つの証因が 示されている.(1)五蘊は集積したものであるから,(2)五蘊は生滅するから,そして(3)五蘊は作られた ものであるから,だから,そのような諸蘊は如来ではない.つまり,如来は三つの証因とは反対の性質を持つ ことを意味し,ここでの如来は集積したものでなく個別的な在り方で存在し,生滅せず不変であり,作られた ものではない存在である,ということになる.これは有為法である五蘊とは別の,無為なる如来と言えよう.
喩例では凡夫の諸蘊が引き合いに出されているが,そのような如来が凡夫の五蘊と同一であるはずはない,と
清弁は指摘するのである.
一番目の推論式が,凡夫の世界における五蘊を基準としての主張であったのに対して,同じ「勝義として諸 蘊は如来ではない」を証明するために,如来を中心とした論証式が二つ目として提示されている.まず,諸蘊 が如来であるならば諸蘊の生起が否定される,ということについて,PPrTは詳しく説明していないが,ここ では勝義として如来が不生であることを念頭に置いていると考えられる.諸蘊と不生である如来とが同じであ るならば,諸蘊は生起しないことになる,という困難に陥ることを指摘しているのであろう.次に,諸蘊が如 来であるならば色などの実有性が損なわれる,についても同様に,如来が有とも無とも言えない存在であるこ とが意図されていると考えることができる.その如来と諸蘊とが同じであるならば,色の実在性が否定される のである.
第三の論証式は趣を異にしている.これまでの「五蘊と如来」というトピックを,「智と如来」に置き換え て論証式が構成されている.意味としては,凡夫の知のように,生滅する智を勝義としての如来とは言えな い,というものである.しかしここでなぜ「智」が問われるのだろうか.これまでの文脈においては,「智(ye shes)」は如来の法身を表すものとして用いられてきた.しかしここでは智と如来は別である,と述べるので ある.これまでと同じ「智」であれば理解することができないが,ここでは凡夫の知(shes pa)が述べられて いるので,この論証式における「智」は,これまでの解脱道における阿羅漢の「智」ではなく,単なる「知」
であると理解する他ない.生滅する性質を持ち,凡夫の知と等しいような知は,決して如来の智ではない,と 理解して良いだろう.
1.2.3 第2支分以降の考察
次に,「諸蘊と如来は同一ではない」という以上の第1支分の対となる,「諸蘊は如来である」あるいは「諸 蘊と如来は別異ではない」という第2の支分を検討する.対論者の見解と清弁の応答は次の通りである:
PPr[副論1.2]: mu stegs can dag ni phung po rnams las de bzhin gshegs pa gzhan yin par bsams (P bsam) nas / bdag tu sgrub par ’dod pas de dag gi phyir ’di bshad de / sku las gzhan ma yin (1a-2) / de bzhin gshegs pa ste / de dag las gzhan pa’i de bzhin gshegs pa yod par ston pa’i rjes su dpag pa med pa’i phyir dang / phung po rnams las gzhan pa’i bdag dgag pa bzhin du de yang bkag pa’i phyir ro //
異教徒たちは,諸蘊と如来は別であると考えて,〔如来を〕アートマン(bdag)として証明しようとす るので,かれら〔の主張を否定する〕ためにこれに応えて,「身(蘊)と別異でもない(1a-2),如来は」
〔と述べたのである〕.「それら〔諸蘊〕と別である如来が存在する」ことを示す推論はないからであり,
また,諸蘊と別であるアートマンが否定されるのと同様に,その〔諸蘊と別である如来〕もまた否定さ れるからである.
意味を補いながら理解する必要のあった第1支分とは違い,明瞭に偈の解釈が示されている.「諸蘊と如来は 別異ではない」という句の意味は,「諸蘊なしに如来が存在するのではない」である.存在を構成する要素で ある蘊を離れて,如来という実体が個別にあるのではなく,あくまで蘊を離れず如来は存在していると言うの である.もし,五蘊を離れて如来が存在するのであれば,その如来はアートマンと等しくなってしまい,異教 徒の見解となってしまう,と清弁は述べる.PPrTはさらに,「もし〔アートマンが〕諸蘊と別であれば〔アー
1.2 如来は五蘊と同一でも別異でもないから無自性である(k. 1) 29 トマンに〕蘊の特徴が存在しなくなる」というMMK18.1cd*46を引用し,清弁の説を根拠づけている*47.こ こで清弁および観誓は,五蘊がある種の存在であることを認めており,存在するものである五蘊という構成要 素を離れた,如来やアートマンなどの存在者はあり得ないことを述べているのである.
以上の第2支分「如来と五蘊とは別異でない」という主張が,第3から第5支分を基礎づける.つまり,別 異なものの間でしか成り立たない第3から第5支分の言明は,如来と五蘊という二項が別異でないことを第2 支分において証明したから,意味をなさない,というシンプルな理論によって主張される:
PPr[副論1.3]: phung po rnams las de bzhin gshegs pa gzhan yin par ma grub pa kho na’i phyir / de la sku med ces gsungs te / ji ltar gangs la sman dag yod pa de ltar ro // 1b-1
der de med / ji ltar shing ljon pa’i nags tshal dag la seng ge yod pa de ltar ro // 1b-2 de bzhin gshegs pa sku ldan min // 1c
ji ltar nor can nor dang ldan pa de ltar ro //
「諸蘊と如来は別である」と決して成立しないので,「その〔如来〕の中に身が在るのでもなく( MMK1b-1)」と仰ったのである.あたかも雪の中に諸々の薬があるように〔如来の中に諸蘊があるのではない〕.
「その〔身〕の中にその〔如来〕が在るのでもない(MMK1b-2)」.あたかも樹林の中にライオンがいる ように〔諸蘊の中に如来が存在するのではない〕.
「如来は身を持っているのでもない(MMK1c)」.あたかも,蓄財家が財産を持っている者であるように
〔如来が諸蘊を持っているのではない〕.
PPrTはそれぞれの主張を論証式にしているが,証因はいずれも同じ「諸蘊と如来は別でないから」である*48. 最後の第5支分に関しては「所有者である如来自体が成り立たない」という理由もPPrTにおいて述べられ ている.そのPPrTの理解については,五蘊と同一でも別異でもない無自性なる如来が所有者たりえることは ない,という意図が見てとれ,「諸蘊と如来は別でないから」という解釈とは視点の違う見解が示されている と言えよう.
*46MMK18.1: ¯atm¯a skandh¯a yadi bhaved udayavyayabh¯ag bhavet / skandhebhyo ’nyo yadi bhaved bhaved askandhalaks.an.ah. //
*47Cf. PPrT[D Za 207a4–5, P Za 171a7]
*48PPrT[D Za 171b2–172a2, P Za 207a8–208a2]. なお,PPr/PPrTで提示される喩例に関しては,丹治[2006, p. 31(n. 64)]
がMMKの諸注釈書を広く参照し,比較している.以下,各推論式のみを提示する:
[paks.a] don dam par de bzhin gshegs pa la phung po rnams yod pa ma yin te / [hetu] phung po rnams las de bzhin gshegs pa gzhan ma yin pa’i phyir / [dr
˚s.t.¯anta] dper na gangs la sman yod pa las bzlog pa bzhin no
【主張】勝義として如来の中に諸蘊は存在しない.【証因】諸蘊と如来は別でないから.【喩例】たとえば,雪の中に薬が存在するのと は反対に.
[paks.a] don dam par de bzhin gshegs pa ni phung po rnams la yod pa ma yin te / [hetu] phung po rnams las de bzhin gshegs pa gzhan ma yin pa’i phyir / [dr
˚s.t.¯anta] dper na nags tshal na seng ge yod pa las bzlog (P zlog) pa bzhin no
【主張】勝義として如来は諸蘊の中に存在しない.【証因】諸蘊と如来は別でないから.【喩例】たとえば,林の中にライオンが存在す るのとは反対に.
[paks.a] don dam par de bzhin gshegs pa phung po rnams dang ldan pa ma yin te / [hetu] phung po rnams las de bzhin gshegs pa gzhan ma yin pa’i phyir / [dr
˚s.t.¯anta] dper na nor can nor dang ldan pa las bzlog pa bzhin no
【主張】勝義として如来は諸蘊を持つものではない.【証因】諸蘊と如来は別でないから.【喩例】たとえば,蓄財家が財産を持ってい る者であるのとは反対に.