第5章 まとめ
第1節 西条藩陣屋跡の造成過程と建物配置
本節では、まず歴代藩主に関する概略と歴代藩主の西条入部の回数を記述し、西条藩陣屋につ いて述べる。
1 歴代西条藩主について
まずは西条藩の歴代藩主について、一柳家と松平家に分けて記述していく。
一柳家(1636年〜1665年)
一柳氏は伊予河野氏の庶流で、河野宣高が美濃国の土岐氏に従属し、一柳姓を称したことか ら始まるとされる。西条藩は、1636年(寛永13年)に伊勢神戸五万石の領主であった一柳直盛が 一万八千六百石の加増を受け、六万八千六百石で転封となったことにより成立する。ただし、直 盛は西条に赴く途中、病を得て大阪で没した。直盛の没後、幕命により西条藩一柳家の領地は、
西条藩三万石・川之江藩二万八千六百石・小松一万石に分割された。
第二代藩主一柳直重(1636年〜1645年)の時代に江戸期を通じて存続する陣屋および陣屋町の原 型のほとんどが作られた。直重は西条入部後、陣屋の建設に着手した。陣屋は東西二町四間、南 北二町一五間の平城で、周囲には石垣で畳んだ堀がめぐらされている。堀の水は、新町泉・観音 水などの湧水からなる新町川・喜多川の流路を変えることで引き入れられている。また、その水 は燧灘に流れ出るように新しく本陣川が掘られた。
第三代藩主一柳直興は1665年に改易され、西条における一柳氏の時代は終わる。
松平家(1670年〜1871年)
一柳家の改易後、徳島藩・松山藩の預り地、幕府領(代官による支配)を経て、1670年(寛文10年) に松平頼純が伊予国宇摩郡・新居郡・周布郡の58か村、三万石を与えられ、西条藩松平家初代藩 主となる。西条藩は「定府大名」であったため、藩主が西条へ入国する機会は少なかった。頼純 の入国は1670年(寛文10年)・1694年(元禄7年)・1698年(元禄11年)・1702年(元禄15年)・1708年(宝永 5年)の5回である。
第二代藩主は頼純の子、松平頼致である。1716年に紀州藩5代藩主徳川頼方が第8代将軍となっ たため、頼致は紀州徳川家を相続することとなった。それに伴い、西条藩は弟の松平頼安が相続 した。
第三代藩主松平頼安は1729年(享保14年)に西条に入国している。その後、歴代藩主の入国は100 年余りない。1735年(享保20年)に頼渡と改名した。
第四代藩主松平頼邑は頼渡の子で、1738年に藩主となった。頼邑の時代は藩財政の立て直しが 行われており、1750年(寛延3年)には倹約令が出された。ただ、頼邑は病弱のため藩政改革を推進 することが困難であった。そこで、紀州藩6代藩主となっていた頼純(徳川宗直)の三男頼淳が1753 年に西条藩五代目藩主となって相続した。頼邑は22歳で隠居することとなった。
図61 西条藩歴代藩主の系譜
重好 綱教
頼職
頼方
家重
一柳宣高 直高
直末
直盛
直重
直家
直賴
直興
直照 直次
直治
松平頼純
頼雄
頼致
頼渡 頼邑
宗将
頼淳
重倫
頼謙
頼看
頼啓 頼学
頼英
頼久 徳川光貞
宗武
宗尹 治斉 家斉
家慶
斉順
斉彊 斉荘
斉温
家定
慶福
治寶 家治
田安家
①
② ⑩
③ ④
⑤
⑥
⑦
⑧ ⑨
紀州藩 6 代(宗直)
紀州藩7代
紀州藩 9 代(治貞)
紀州藩8代
紀州藩より養子
紀州藩 14 代(茂承)
家督相続前に早世
廃嫡
①
②
③
伊予河野氏 庶流 美濃
美濃(六万石)
西条(五万八千六百石)
播磨加東(一万石)
西条(三万石)
川之江(一万八千六百石)
小松(一万石)
小野(一万石)
津根(五千石)
西条(二万五千石)
播磨加東(一万石)
紀州藩初代
紀州藩 2 代
紀州藩 5 代 紀州藩 4 代 紀州藩3代
第 8 代将軍[吉宗]
紀州藩 10 代 紀州藩 11 代
紀州藩 12 代
紀州藩 13 代 第 9 代将軍 第 10 代将軍
第 11 代将軍
第 12 代将軍 第 13 代将軍
第 14 代将軍[家茂]
一橋家
清水家
一柳家系譜
松平家系譜
享保 20 年に「頼安」から改名
頼路
徳川頼宣
第五代目藩主松平頼淳が藩主となった年、藩財政立て直しのため年貢米の徴収方法を「春免」
から「秋免(見取免)」に改めようとしたことに対する、年貢減額の一揆が起こった。頼淳は1775 年に紀州藩9代藩主となった。
頼淳のあと、紀州藩7代藩主徳川宗将の子が第六代西条藩主松平頼謙となる。1778年には禎瑞 新田の開拓が始まる。
第七代藩主は頼謙の嫡子である松平頼看で、1795年に藩主となるが1797年に没した。
第八代藩主松平頼啓は頼謙の第三子である。頼啓は西条にも擇善堂を設け、藩士の教育を奨励 したため、多くの人材があらわれた。
第九代藩主松平頼学は1835年(天保6年)に、第三代藩主頼渡以来、107年ぶりに入国している。
1836年(天保7年)には、日野暖太郎に領内の地誌の編纂を命じている。地誌『西条誌』は1942年 (天保13年)に完成した。
1862年(文久2年)、頼学の隠居に伴い、松平頼英が第十代藩主になる。頼英は幕末の動乱期を経 て、1869年(明治2年)に版籍奉還を出願し、同年に西条藩知事に任命されている。その間、西条の 地に赴いている。
2 西条藩歴代藩主の西条入部について
歴代藩主の西条入部は松平頼純の1670年(寛文10年)・1694年(元禄7年)・1698年(元禄11年)・1702 年(元禄15年)・1708年(宝永5年)、松平頼致の1714年(正徳4年)、松平頼安の1729年(享保14年)、松平 頼学の1835年(天保6年)、松平頼英の1863年(文久3年)で、合計すると5名の藩主で9回である。
3 西条藩陣屋の絵図について
現在、陣屋の建物配置がわかるものとしては、原本が西条神社にあり、復元された幕末期頃の 建物配置図(掲載した図62は、『西条市誌』から引用した)がある。その他には国立歴史民俗博物 館所蔵の『伊予国西条松平家文書』に「西条御屋敷廻方角分間絵図」と「陣屋指図」という図が 存在する。今回、『伊予国西条松平家文書』を実見する機会を作れなかったため、『西条市誌』
の建物配置図をもとに調査箇所の検証をしたい。
『西条市誌』の建物配置図には、原本にない現存する正門の位置が付け加えられているため、
今回の調査で検出した礎石に加え、現在の正門の位置の座標も測量することによって、図面同士 の比較検証が可能である。なお、この検証は『西条市誌』の建物配置図での建物間の相対的な位 置関係が正しいという前提のもとに行なったことは明記しておきたい。
第62図上段の正門の縮尺率を100分の1にし、遺構配置図(図62下段)に重ね合わせると、今回、
調査した範囲を含む現在の体育館は陣屋内の北東部に位置し、建物の配置図をみると、「小座 敷」から「局」にかけての範囲にあたる。「局」の北半分を含む範囲に調査区は位置することが わかった。また、礎石は「局」の範囲内に位置する。したがって、図面同士を重ね合わせるとい う作業から類推できることは、調査区は「局」という建物があった場所で、原位置を保った礎石 が「局」の範囲内で検出されたことからも、配置図の位置関係はより実像に近いのではないかと
図62 西条藩陣屋跡建物配置と礎石・石列・井戸の位置
N
N
X=102180.000
X=102020
Y=-29800 Y=-29620.000
X=102180.000
X=102020
1 … 御座の間 2 … 対面所 3 … 伺下段 4 … 伺二之間 5 … 御客座敷 6 … 小座敷 7 … 詰所 8 … 老女詰所 9 … 善所 10 … 局 11 … 玄関 12 … 番所
13 … 門 14 … 正門 14
2m
0
1 : 100
礎石
石列 井戸
正門の礎石の位置
1 2 3 4
5 6
7 8
9
10
11 12
13 10
10
30m 0
1 : 1,500
※ 建物配置図は『西条市誌』より一部改変の上引用
30m
0
1 : 1,500
考えられる。