(1)事実関係
術前の準備に関しては、裁判では、担当医がいかなる認識で準備をしたり、準備にあ たっての発言をしたか、本件患者の状態をどのように捉えていたのか等という点につい て、他の問題と関わることから、争われた。
しかし、客観的に何を行ったかという点については、ほぼ争いがない。
ア 当該病院の医療提供体制
(判決21頁 第1・2)
○ 輸血用の血液を常時置くことはせず、必要なときに準備する。
○ 不足した場合は、約50km離れた福島県いわき赤十字血液センターから、約1時間 かけて自動車による搬送を受けていた。
(判決21頁 第1・1)
○ 産科は一人医長(担当医のみ)
イ 患者の状態把握(胎盤の状態など)
(月日のみの記載は,平成16年を指す。)
平成13年7月(判決21頁 第1・3)
○ 帝王切開手術にて第1子を出産
10月22日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(2))
○ 全前置胎盤の診断
12月3日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(5))
○ 経腟超音波検査
・血流豊富 ・尿潜血(±)
○ 癒着胎盤、又は前置胎盤による出血に注意が必要である旨、医師記録に記載 12月6日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(6))
○ カラードップラー検査
・芋虫状の血流
・「膀胱下血流(+)」と医師記録に記載
○ 尿潜血(-)
12月7日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(7))
○ 尿潜血(±)~(+)
○ 「毛のう炎(+)-ここからの出血」と医師記録に記載
12月13日(判決23頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(10))
○ 医師記録に、胎盤が左寄りである旨、右寄り部分にU字型切開案を記載
ウ 手術体制
12月9日ころ(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(8))
○ C医師(外科医)に、執刀補助を依頼。
(判決23頁 第1・4 本件手術(1))
手術は次の体制で行われた。
○ 執刀医 担当医
○ 麻酔医 麻酔医B
○ 助手 C医師
○ 助産師 L助産師 M助産師
○ 看護師
・オペ責 N看護師 ・器械出し O看護師
・外回り P看護師、Q看護師
エ 本件における具体的な術前準備
12月6日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(6))
○ 術中エコー検査のためプローベの準備
○ MAP(濃厚赤血球、1単位200ml)を5単位用意することを決めた
○ 場合によっては単純子宮全摘出術を行うことを前提に、その準備を指示
オ 不測の事態が生じた場合に備えた事前の応援依頼
12月9日ころ(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(8))
○ 麻酔医Bに、次のことを伝えた。
・前回帝王切開創に胎盤が掛かり、手術中に出血が多くなる可能性があること
・子宮を摘出する可能性があること
・もしもの時はZ病院のA医師を呼ぶことになっていること等
○ 助手C医師に、Z病院のA医師にも応援を依頼していることを伝えた。
12月11日(判決22頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(9))
○ 担当医の医局の先輩であるK医師が、大野病院に派遣された際、人手が欲しい場合は、
医局に相談して良いのではないかなどと勧めた。
○ これに対し、担当医は、A医師を呼ぶ旨答えた。
12月17日(手術当日)(判決23頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(12))
○ 担当医よりA医師に電話。次のやりとりがあった。
<担当医からA医師への説明>
・A医師が1回目の帝王切開を担当した患者について、担当医が2回目の帝王切開をす ることになった。
・胎盤が後壁に付着している全前置胎盤であり、何かあった際には応援を頼むかもしれ ない。
<A医師の質問>
・MRI検査を実施したのか否か。
・前回帝王切開創に胎盤がかかっているのか否か。
<A医師の質問に対する担当医の回答>
・MRI検査は実施していない。
・前回帝王切開創に胎盤がかかっている可能性があるが、おそらく大丈夫である。(★)
○ 担当医がA医師に応援を依頼するのは、このときが初めてであった。
手術前、担当医はA医師に対し、★の発言をしていたが、公判廷では、実際は前回 帝王切開創に胎盤が掛かっていないと考えていた(担当医⑦-244、878~880)と供述 している。
では、なぜ★との説明をしたのか。その理由につき、担当医は、公判廷で次のとお り供述している。
(公判廷供述 担当医⑦-245、882~884、⑪-8、10~12)
○ 初めて依頼するに当たって、何もない症例で呼ぶのはちょっと気が引けた。
○ 出血が多くなって子宮摘出の判断に迷うようなときに助言を頂こうかという意味で 連絡した。
○ 電話の最中、A医師が渋っているような様子もあったので、少し大げさにあえて事実 と違うことを言った。
カ 転医の判断
(判決23頁 第1・4 本件手術に至るまでの経過(13))
○ 本件患者の入院後、大野病院勤務の助産師、看護師達の間で、W医大で前回帝王切開 の前置胎盤患者の帝王切開で大量出血となった症例が話題になった。その中で、W医大 には産婦人科医が何人かいて、輸血も届きやすい場所にあるのに対し、産婦人科医が担 当医1名しかおらず、輸血を追加注文しても届くまでに時間がかかる大野病院で対応で きるのだろうかという話が出た。
○ この点に関し、R助産師が、担当医に対し、本件患者の転院を進言したが、担当医は、
大丈夫である旨答えた。
R助産師の進言に対して担当医が大丈夫と判断した理由について、担当医の検面調 書、公判廷供述は次のとおりである。
(検面調書乙13-4)
○ この時点では、子宮前壁に胎盤が癒着している危険性は低いと考えていた。
(公判廷供述 担当医⑦-898~901)
○ 何でも大げさに言ってくる助産師で、いつものことだというような感じで聞いてい た。
(2)医学文献
ア 出血の可能性について
文献によると、癒着胎盤症例において、「子宮摘出が必要となる癒着胎盤症例の出血 量は、平均 3,500ml(900~21,000ml)との報告や、母体死亡率は 25%であるとの報告 もあるため、輸血は早めに準備する。」などとされ、癒着胎盤か否かにかかわらず、前 置胎盤の場合で、「前置胎盤 145 例のうち、出血量 2,000ml 以上 12 例」などの記載が ある。
通常の胎盤剥離、通常の帝王切開術、前置嵌入胎盤、既往帝王切開前置癒着胎盤、
前置胎盤、前置癒着胎盤の各場合における術中出血量等の文献の記載は、次のとおり である。
○ 通常の胎盤剥離:約 250ml
「約 250ml の剥離出血を伴う」(武谷雄二編,新女性医学大系 25 正常分娩,p221,19 98 年,弁6)
○ 通常の帝王切開術の術中出血:632±357ml
「通常の帝王切開術の術中出血 632±357ml・輸血施行率 2.3%に対し前置胎盤で 1,1 54±924ml・15%である。」(大屋敦子,実際産科出血をとめる-その予知,予防と対処 法-前置胎盤,産婦人科の実際 vol56No2,p166,2007 年,文献17)
○ 帝王切開分娩 349 例における分娩時大量出血(3,000g 以上)は 23 例、うち前置胎盤 3 例。1例は帝切後に出血が止まらず、子宮全摘となり、12,000g もの出血となった。
(鈴木佳克ら,分娩時大量出血の原因と対策.東海産科婦人科学会雑誌 37 巻.p89-90.
2001 年,文献 85)
○ 前置胎盤 145 例のうち、出血量 2,000ml 以上 12 例、4,000ml 以上 6 例、6,000ml 以上 2 例、13000ml が 1 例。
前置胎盤の出血量に関する記載をまとめると、概要次のとおり。前置胎盤 145 例のう ち、出血量が 2,000ml 以上と記録されている症例、出血量が 2000ml 未満であっても輸 血を施行した症例は、14 例。この 14 例の出血量はそれぞれ、1600、1833、2000、2200、
2344、2615、3000、3150、4620、4700、4800、5200、6563、13000ml。半数の 7 例は全 前置胎盤であった。14 例のうち、子宮摘出を行ったものは 6 例。(上記 4620、4700、4 800、5200、6563、13000ml の症例)(別宮史朗ら,大阪府立母子保健総合医療センター における産科出血の検討,産婦人科の進歩 48 巻 3 号,p232-234,1996 年,文献 86)
○ 前置嵌入胎盤の術中出血:542-7100g(平均±SD=3888±2209g)
「術中出血量は前置穿通胎盤では 3200-21200g(平均±SD=12140±8343g)であり、
前置嵌入胎盤での 542-7100g(平均±SD=3888±2209g)と比較して優位に多かった。」
(日本周産期・新生児医学会雑誌 vol41-No2,p324,2005 年,検甲56)
○ 既往帝王切開前置癒着胎盤の平均出血量:3,915ml
「既往帝王切開前置癒着胎盤 26 例の平均出血量 3,915ml」(福島明宗ら,既往帝切 前置癒着胎盤および既往帝切前置胎盤症例の検討.日本産婦人科学会誌 Vol59 No2,p5
03,2006 年,文献 87)
○ 子宮摘出が必要となる癒着胎盤症例の出血量:平均 3,500ml(900~21,000ml)
「子宮摘出が必要となる癒着胎盤症例の出血量は、平均 3,500ml(900~21,000ml)
との報告や、母体死亡率は 25%であるとの報告もあるため、輸血は早めに準備する。」
(望月眞人監,標準産科婦人科学第2版,p430,2001 年,検甲12)
「子宮摘出を要する癒着胎盤の平均出血量は 3,500ml(900~21,000ml)」(大屋敦子,
実際産科出血をとめる-その予知,予防と対処法-前置胎盤,産婦人科の実際 vol56No 2,p166,2007 年,文献17)
○ 前置癒着胎盤について、出血が 2,000ml を超えたのは 41 例(66%)であり、5,000m l を超えたのは9例(15%)、10,000ml を超えたのは4例(6.5%)、そして 20,000ml を 超えたのは2例(21%)。
「前置癒着胎盤について、出血が 2,000ml を超えたのは 41 例(66%)であり、5,00 0ml を超えたのは9例(15%)、10,000ml を超えたのは4例(6.5%)、そして 20,000ml を超えたのは2例(21%)であった。そして、32 例(55%)の女性が輸血を必要とし た。」(David A. Miller ら,American Journal of OBSTETRICS AND GYNECOLOGY,1997 年,弁9)
イ 準備の内容について
文献によれば、癒着胎盤の可能性がある前置胎盤では 4000ml 以上の輸血準備と人手 を集めることが必要であるなどとされ、無理な剥離を行わないといったことを指摘す るものもある。
既往帝王切開で胎盤が子宮前壁付着の場合は、10 単位の準備では十分量ではないと されている。
○ 超音波断層法等の方法を用いて「癒着胎盤が疑われれば、大量出血に備えて輸液路の 確保、輸血の確保、人員の召集、及び術前準備をしたうえで、試験的胎盤用手剥離術を 行う。」「無理に剥離しようとすると大量出血、外傷性子宮破裂、子宮内反症などを引き 起こすことがあるため、大量出血を認めた場合は直ちに中止し開腹術に切り替えるべき である」(岡井崇編,産科臨床ベストプラクティス,p260,検甲9)(※ただし、編者か ら、主に経腟分娩の場合を前提としたものであるとの回答がある。(弁137))
○ 「前回帝王切開既往で癒着胎盤の可能性のある前置胎盤は、上級病院で管理するか、
さらに 4,000ml 以上の輸血を確保して人手を集め、十分に対策をたてて管理することが 重要である。」(須野敏章ら,分娩、産褥時期に母体究明のため子宮摘出を行った症例の 検討,臨婦産 Vol50 No6,p845,1996 年,文献31)
○ 「諸家の報告では、前置癒着嵌入胎盤の帝王切開の際には、十分な術前準備をして手 術に望んだ場合でも、術中出血量は、4,000ml あるいはそれ以上の症例が多数あるため、
この量を目安として輸血準備をしておく。」(岡村州博編,帝王切開術既往妊婦の前置胎 盤を診たら前置癒着嵌入胎盤を疑え周産期救急のコツと落とし穴,p28,2004 年,文献