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と ギ リ シ ア 哲 学

予備 知識 を概 説し 終え たと ころ で、 藤沢 令夫 の半 生を 振り 返っ てみ よう

。 私た ちの 常識 では

、授 業を 受け るに しろ 研究 室に 行く にし ろ、 すで に大 学と

いう 組織 の中 にあ る程 度確 立さ れた 学問 分野 が存 在す る。 つま り、 教授 がお り、 准教 や助 教や 院生 がお り、 学会 があ り、 講座 があ る。 しか し、 藤沢 の活 躍 した 西洋 古典 学会 は一 九五

〇年

、藤 沢が 二五 歳の とき に設 立さ れた

。そ れま でも ギリ シア 哲学 の古 典の 翻訳 はあ った が、 古代 ギリ シア 語か らの 原典 訳は 存在 しな かっ た。 藤沢 は往 年を 回顧 して

、西 洋古 典学 の歴 史は まさ に自 らの 半生 だっ たと 述べ てい る。 では

、藤 沢は どの よう にし てギ リシ ア哲 学を 志す よう にな った のだ ろう か。

Wikipedia

には

「北 村透 谷『 ホメ ロス 在り し時

、プ ラト ン在 りし 時、 彼の 北 斗は 今と 同じ き光 芒を 放て り』 とい う美 文と あい まっ て、 旧制 高校 の受 験勉 強の 気休 めに して いた

」と ある

。旧 制中 学の 時に 切り 取っ た「 アテ ナイ の学 堂」 のプ ラト ンと アリ スト テレ スの 部分 は額 縁に 入っ て自 宅書 斎に 飾ら れて いた

。藤 沢が 旧制 中学 の時 から ギリ シア 哲学 に関 心を 持っ てい たこ とは おそ らく 間違 いな い。 とこ ろが 二〇

〇〇 年の エッ セイ で、 藤沢 はギ リシ ア哲 学研 究の 道を 進ん だ動 機は 別に あっ たと 述懐 して いる

。 私も

旧制 高校 的な 教養 の一 環と して

、プ ラト ンの 対話 篇な どの 訳書 をあ れこ れ読 んだ けれ ども

、正 直言 って

、特 に興 味や 感動 を覚 えた こと は一 度 もな かっ た。 今に して 思え ば、 その 理由 の大 半は 明ら かに

、訳 がま ずか った こと にあ る。……

顧み れば どう やら

、五

〇年 前の 私の ギリ シア 哲学 志望 の 決定 には

、そ れに 先立 って 私の 二〇 歳ま での 長い 年月 を重 苦し く蔽 って い た 戦 雲 の 暗 翳 が

、 幾 重 に も ま つ わ っ て い る よ う で あ る

。( 藤 沢

2001b,p.97)

やや 脚色 がか かっ てい るが

、藤 沢が ギリ シア 古典 に向 かっ たの は内 発的 な

興味 関心 から だけ では 説明 でき ない

。一 九二 五年 生ま れの 藤沢 の満 年齢 は昭 和の 年号 と同 じで ある

。一 九四 三年(

昭和 一八 年)

、東 条内 閣は 高等 教育 機関 の文 科系 学生 の徴 兵延 期措 置を 撤廃 し、 彼ら は学 徒兵 とし て徴 兵さ れた

。藤 沢も その 一人 であ る。 理科 系の 学生 はな お徴 兵を 免れ

、兵 器開 発等 に動 員さ れた

。文 科と 理科 のこ の「 差別

」に つい て、 藤沢 は興 味深 い発 言を して いる

。 戦時

下に 理工 系は 必要 だが

、文 科系 の学 生は 不要 だか ら戦 争に 行っ て死 んで こい と、 国か ら命 令 され たよ うな も ので(

「生 等も とよ り生 還を 期せ ず」 と出 陣式 で学 徒代 表)

、い ま思 えば もの すご い差 別、 まさ に生 死を 分け る大 差別 であ った

。/ しか し、 当時 そん なこ とを 考え た記 憶は

、ま った くな い。……

最先 端の 科学 と技 術を 急ぎ 学ば ない と、 列強 の間 で国 を守 れな か った から であ る。 国策 は世 の通 念と なり

、戦 時下 に法 令と して 露骨 なか た ちで 現れ ても

、わ れわ れ文 科生 は「 万や むを えず

」と

、さ して 驚く こと もな かっ たの だと 思う

。( 藤沢2001b,p.237) これ

は、 戦時 下で もの 心つ いた 若者 が、 軍国 主義 をほ とん ど無 批判 に受 け 入れ てい たこ との 一例 であ る。 東京 工業 大学 に進 学し て結 果的 に徴 兵を 免れ た吉 本隆 明も

、国 家に 身を 捧げ るた めに 戦場 に行 くべ きか 大学 に行 くべ きか

、 葛藤 して いた

。こ のよ うに 第二 次世 界大 戦中 に青 春を 過ご した 世代 を、 戦前 派・ 戦後 派に 対し て「 戦中 派」 とい う。 彼ら はそ の人 格の 形成 期に

、敗 戦と い う、 価値 観の 一八

〇度 の転 換を 経験 した 世代 であ る。 小熊 は「 戦中 派」 の特 徴 とし て次 の点 を挙 げて いる

「戦 中派

」は

、戦 中に 最大 の動 員対 象に され

、も っと も死 傷者 が多 かっ た

だけ でな く、 中等

・高 等教 育を まと もに うけ る機 会を 持て なか った

。ま た 彼ら の幼 少期 は皇 国教 育が 激化 した 時期 であ り、 しか も極 度の 言論 弾圧 の ため

、マ ルク ス主 義や 自由 主義 に接 する こと も不 可能 だっ た。 その ため こ の世 代は

、幼 少期 から 注ぎ 込ま れた 皇国 思想 を相 対化 する 経験 も知 識も な く

、 敗 戦 ま で 戦 争 に 批 判 的 な 視 点 を も た な い 者 が 多 か っ た

。( 小 熊

2002,p.599)

藤沢 もこ の典 型で あり

、「 戦中 派」 に括 るの は妥 当だ と考 える

。藤 沢の 復学 した 戦後 の京 都帝 大で は、 戦争 に同 調的 だっ た言 動の ため に京 大哲 学科 の高 山岩 男や 西谷 啓二 らが 公職 追放 され

、か わっ て「 わが 国に は稀 有で あっ た本 格的 なギ リシ ア哲 学と 西洋 古典 の研 究者

」田 中美 知太 郎が 着任 した

。藤 沢は 田中 の門 下に 入っ てギ リシ ア哲 学を 専攻 し、 最も かわ いが られ た弟 子の ひと りと なっ た。 京都 大学 の田 中の 講座 は藤 沢が 受け 継い だ。 後付 けで はあ ろう が、 この あた りの 事情 をう まく 語っ た部 分が ある

。 プラ

トン が一 二歳 のこ ろ、 彼の 祖国 アテ ナイ が企 てた シケ リア 遠征 とそ の失 敗、 二三 歳頃 のア テナ イの 降伏 など の、 いわ ゆる

「ア テナ イの 帝国 主 義」 が引 き起 こし たペ ロポ ネソ ス戦 争に まつ わる 出来 事は

、ほ ぼ同 じ年 齢 にお いて 私が 出遇 った

、中 国大 陸 への 出兵( 日中 戦争 の 始ま り、 一九 三 七 年) とか 日本 の敗 戦( 一九 四五 年) とか を想 起せ しめ る。/ そし て、 そう いう 一 連 の暗 い 出来 事に と もな う 政治 と社 会 の混 乱……

これ ら の事 柄 もま たわ れわ れが 戦中 戦後 にか けて 体験 し て来 たと ころ で ある とい えよ う。( 藤沢

2000a,p.7)

そし て、 プラ トン

=藤 沢に 対し てソ クラ テス を演 じた のが 田中 だっ た。 田 中は 政治 的に 早熟 で、 旧制 高校 の時 代か ら「 過激 な思 想団 体や 革命 的な 労働 者の

、小 さな グル ープ に出 入り して

、過 激な 議論 に耳 を傾 け」 てい た。 京都 帝 大で は高 山や 西谷 らの 主唱 した

「世 界史 の哲 学」 に反 発し た。 その 学究 は当 時 から

、身 も心 も古 代ギ リシ ア人 にな りき るも のだ った らし い。 藤沢 は田 中の 発言 を引 用し て、 次の よう に述 べて いる

「私 は人 々が とう に卒 業し てし まっ たと 考え てい る古 人プ ラト ンの 亜流 であ り、 旧式 なプ ラト ン主 義者 であ ると して 嗤わ れる こと を、 むし ろ誇 り とす る。 しか し、 わが 国で は未 だか つて

、プ ラト ンや アリ スト テレ スの 哲学 が伝 統と なっ たこ とは ない ので ある

。人 々が 時代 の尖 端に 立と うと した り、 近代 精神 の基 礎を 築い た人 たち の真 似を しよ うと 思っ ても

、そ れが 滑稽 な 猿真 似に 終わ らな けれ ばな らな い空 しさ は、 いっ たい 何に よる のか

」[ と田 中は 言っ た。]/

無意 味に 難解 な特 殊語 法で 綴ら れる 京都 学派 の〝 独創 的〟 哲 学に つい て行 けな かっ た私 は、[ 田中 の] こう した 発言 に共 感し

、勇 気づ け られ た。 それ に、 私は 外地 から の復 員後

、こ の京 都学 派の 哲学 が戦 時中

、偏 狭な 国粋 思想 への 対抗 重量 たり えず

、む しろ 同調 の気 配が 濃厚 であ った こ と に

、 敗 残 兵 と し て の 怨 念 と 不 信 を い だ い て い た の で あ る

。( 藤 沢

2001b,p.322)

田中 と京 都学 派と に対 する 藤沢 の評 価に は、 彼の 戦争 体験 を加 味す る必 要 があ る。 一九 四五 年、 京都 帝国 大学 の学 籍は 書類 の上 での こと で、 藤沢 の身 は 中国 にあ った

。そ して 満州 で敗 戦を 迎え

、放 浪の 後翌 年七 月に 辛く も帰 国を 果た す。 外地 にあ った 彼の 一年 間の 経験 はほ とん ど想 像に 絶す る。 敢え て藤

沢に 語ら せる こと にし よう

。 終戦

の玉 音放 送か ら一 月余 りた って

、秋 の冷 気が ひた ひた と寄 せ来 るな か、 日本 人た ちは

、終 戦間 際に 一方 的に 宣戦 布告 して なだ れこ んで きた ソ 連兵 たち と、 現地 中国 人の 報復 的反 乱と の二 重の 恐怖 にお びえ てい

… た。…

軍籍 を離 脱し た私 は、 終戦 後初 めて 動い た汽 車の 貨物 車輛 に揺 られ て、 大連 から 奉天( 瀋陽) に向 かっ てい た。 二、 三人 のソ 連兵 が乗 り込 んで いて

、 日本 人た ちか ら腕 時計 など

、め ぼし い所 持品 をつ ぎつ ぎと 奪っ てい く。/ 渾 河を 渡っ て奉 天が 近づ いて きた とこ ろで 汽車 が止 まり

、い つま でも 動か な い。 歩こ うか とい うこ とに なっ て、 荷物 を持 って 車輛 の外 に出 た。 と、 大勢 の群 衆が こち らに 走っ てく る。 何ご とか と思 って いる と、 これ がわ れわ れ をめ がけ て襲 って きた 中国 人集 団で あっ た。 あっ とい う間 もな く先 頭の 一 人が

、得 物を かざ して 私に 向か って くる

。中 学時 代に 柔道 をや って いた 私 は、 とっ さに 夢中 で投 げと ばし たが

、相 手は 私を 離さ ず、 重な って 倒れ こん だ。/ 上を 仰ぐ と別 の一 人が

、青 竜刀 のよ うな 形を した 大き なナ イフ を私 の 上に 振り かざ して いる

。間 一髪 脱れ たが

、傍 をみ れば

、同 行の 友人 が荷 物を 全部 奪わ れた うえ

、棒 でめ った 打ち にさ れて いる

。列 車に かけ 戻っ て、 ソ連 兵に 今度 は必 死で 懇願 して

、銃 で 暴民 たち を追 い 払っ ても らっ た。( 藤沢

2001b,p.339-40)

藤沢 は、 私た ち学 部学 生と 同じ 歳で この 経験 をし たの であ る。 もう 一つ

、藤 沢が 広島 一中 出身 であ るこ とも 指摘 して おく

。当 時の 同級 生や 恩師 を、 藤沢 は原 子爆 弾で 失っ た。

「原 爆ド ーム

」と なっ た産 業奨 励館 の在 りし 日の 姿を

、 藤沢 は克 明に 覚え てい たそ うで ある

。こ れら の経 験は 戦後 の知 識人 たち には

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