第4章 ワイン産業と会計処理
第1節 葡萄の会計処理
葡萄はワインメーカーの重要な資産である。彼らの事業資産である葡萄がワインの製造 原価に占める割合は25%前後(Lease, Sully, and Poggetto(2010)の、ワイナリーの原
2 農産物の定義については、図表11を参照。
価計算例を参考に原価率を筆者が独自に推定計算)を占める3。葡萄は、日本基準では、原 則、棚卸資産として取得原価評価され、IFRS においては、IAS41 号により農産物として 公正価値評価される。このように、日本基準とIFRSの葡萄への資産評価方法には違いが あるが、どちらが投資家への有用な会計情報となり得るのかを考察していきたい。
第1項 IAS41号「農業」
IFRSでは、IAS41号によって、主要な用語が、図表11のように定義されている。
図表11 IAS41号における主要な用語の定義
用語 定義
生物資産 生きている動物または植物
農産物 企業の生物資産からの収穫された生産物をいうとしている
農業活動 生物資産を販売するために、農産物にするため、または追加的な 生物資産を得るために、企業が生物資産の生物学的変化または収 穫を管理することをいう。
生物学的変化 生物資産の質的または量的な変化を生じさせる、成長、変性、生 産および生殖のプロセスからなる
売却費用 資産の処分に直接起因する増分費用(財務費用・所得税を除く)
生物資産のグループ 同様の生きている動物または植物の集合
収穫 生物資産の果実を分離することまたは生物資産の生命活動を停止 させること
姚(2014)p168より筆者引用加工修正
小規模な農業企業といえども、外部、特に銀行や政府機関からの資本および補助金を求 めており、これらの資金提供者の財務諸表に対する要求は高まっている。さらに、規制撤 廃の国際的傾向、国際上場数の増加および投資額の増加は、農業活動4の規模、範囲および
3 原価計算の方法は、組別総合原価計算により行われていると考えられる(Lease, Sully, Poggetto(2010)より筆者推定)。ワインメーカーで、日本企業(東京証券取引所上場、2010 年11月26日上場廃止)のメルシャン株式会社(2009年12月期 売上高約830億円)の有価 証券報告書の製造原価明細書にも、「原価計算の方法:組別総合原価計算を実施しております」
とある。
商業の増大をもたらしている。これにより、信頼できる、一般に認められた会計原則に基 づく財務諸表に対するより大きなニーズが生まれている(IAS41号 B5項)。このような
背景からIAS41号が2001年に制定され、生物資産5や農産物は、各報告期間の末日におい
て公正価値6によって測定しなければならないと定めている。
IAS41号では、公正価値測定される理由として、生物資産がその他の資産と比べ、生物
学的変化(成長、変性、生産および生殖)7が起きることが一番異なる点であることを挙げ ている(B14 項)。IAS41 号では、生物資産のみにある生物学的変化の効果は、生物資産 の公正価値の変動に最もよく反映されるとあり、植林地の森林の成長を公正価値評価した 際、将来の経済的便益に直接つながるとしている。さらに、取引を基礎とした取得原価会 計モデルにおいては、林業に従事している企業は、植林後30年後の最初の収穫8および販 売時点まで収益が計上されないことになるが、公正価値評価を用いて生物学的成長を認識 し測定する会計モデルでは、植林から収穫に至る期間を通じて収益が測定され報告される としている9(B15項)。
4 農業活動の定義は、図表11参照。
5 生物資産の定義は、図表11参照。
6 公正価値については、第4章第1節第2項参照。
7 生物学的変化の定義は、図表11参照。
8 収穫の定義は、図表11参照。
9 フィンランド(OMX上場)の紙・パルプメーカーであるUPM社(2015年12月期 売上 高約100億ユーロ)は、木(living trees)を公正価値評価して、変動差額を当期純利益に計上 している。
図表 12 IAS41号における生物資産・農産物に関する公正価値の規定
姚(2014)p171
次に、IAS41号4項では、図表13の例示をしている。
図表 13 生物資産、農産物および収穫後の加工処理の結果である製品の例 生物資産 農産物 収穫後の加工の結果としての製品
羊 羊毛 毛糸、カーペット
材木用人口林 における樹木
伐採された木 丸太、材木
綿 綿花 綿糸、衣類
サトウキビ 収穫された サトウキビ
砂糖
乳牛 牛乳 チーズ
豚 各部位肉 ソーセージ、乾燥ハム
タバコ畑* 葉 乾燥タバコ
葡萄の木* 葡萄 ワイン
果樹* 果実 加工された果実
*(2016年よりIAS16号「有形固定資産」を適用)
IAS41号4項より筆者一部加工修正
生物資産である葡萄木にはIAS16号が適用され、それから収穫された成果物には収穫時
にIAS41号が適用される。なお、葡萄を原材料としてワインを作る過程のような収穫後の
農産物の加工処理にIAS41号は適用されず、そのような加工処理は、農業活動の延長上に あり、発生する事象は生物学的変化と類似しているが、IAS41 号では、IAS2 号で定義さ れた原材料から製品への転換のような他の加工処理から区別することの困難性を考慮し、
農業活動には含めず、IAS2号を適用することとしている(IAS41号B3項,B9-B11項)。
これに対し、わが国においては農業に関する明確な会計基準が存在しない。以下に示す ように、所得税法第 41 条の収穫基準の規定が存在するだけである。その適用は米等の農 産物を政府等が収穫前より購買契約を結んでいる場合等に限られるが、契約により対価が
確定しており、確実に買い取られる状況の時の実現可能性が相当程度に高い場合にのみ、
発生主義的に収穫基準による収益計上が認められている(阿部 [1976])。
収穫基準(所得税法第41条)
(農産物の収穫の場合の総収入金額算入)
第41条 農業を営む居住者が農産物(米、麦その他政令で定めるものに限る。)を収穫 した場合には、その収穫した時における当該農産物の価額(以下この条において「収穫 価額」という。)に相当する金額は、その者のその収穫の日の属する年分の事業所得の 金額の計算上、総収入金額に算入する。
2 前項の農産物は、同項に規定する時にその収穫価額をもって取得したものとみなす。
図表 10に示したように、IFRSと違い日本基準には、葡萄に適用される明確な農業会計 基準は存在せず(上記したように、所得税法第41条収穫基準がわずかに存在する)、農産 物は他の工業製品と同じく棚卸資産に分類される。
以下、IAS41号の規定と日本基準との規定との差異は図表14の通りである。
図表14 生物資産・農産物に関するIAS41号と日本基準との主な差異
項目 IAS41号 日本の現行規定
生物資産・農産物の 測定属性
売却費用控除後の公正価値(時価) 取得原価
未実現利益の計上 可。期中に生物資産の公正価値の変動がある 場合に、その変動分を当期の損益に含める
不可
収益の認識対象 生物資産 農産物 農産物、生物資産
収益の認識時点
当 初 認 識 時 お よ び 各 報 告 期 間 末 日 に 継 続 的認識
農産物の収穫時点 販売時点
収益額の測定 売却費用控除後の公正価値 実際販売価格 姚(2014)p172より筆者引用加工修正
なぜ日本では農業会計基準が存在しないのであろうか。日本で農業会計基準が存在しな
い理由の 1 つに、大規模な公開会社がほとんど存在しないことが考えられる。2005 年ま で日本は農地法による規制があり、株式会社の農業への参入が制限されていた。そのため、
法人が大規模な農業活動を行う環境になかった。しかし、近年は、TPP協定や農協改正法 案成立による経済環境の変化が起き、巨額の資本を背景にした農業法人や、既存の食品・
飲料メーカー、総合商社などによる大規模な農業活動が可能な状況になりつつある10。こ のような状況において、大規模法人の農業活動によって農産物を生産した際に、IFRS の 適用が考えられる。
第2項 IFRS13号「公正価値測定」
前述したようにIAS41号において、葡萄は、農産物として、収穫時に公正価値で測定さ れる。IFRS が農産物を公正価値により測定する理由は、公正価値の変動が農産物の生物 学的変化を最もよく反映できるためであるとしている(IAS41号B4項)。では、農産物 の公正価値とは、何かを次に確認する。
まず、IAS41号第8項において、「公正価値」(fair value)とは、IFRS13号を参照し、
測定日時点で、市場参加者間の秩序ある取引において、資産を売却するために受け取るで あろう価格または負債を移転するために支払うであろう価格をいうとしている(IFRS13号 9項)。
公正価値は、市場を基礎とした測定値であり、企業固有の測定値ではない。このため、
観察可能な市場価格がある場合はもとより、それがない場合でも、公正価値は、市場参加 者がその資産・負債の価格づけを行う際に用いるであろう仮定を用いて測定すること、資 産を保持するかどうか負債を決済するかどうかという企業の意図は、公正価値の測定には 関連しないとされている。さらに、IFRS では、市場価格がない場合でも、関連性のある 観察可能なインプットを最大限に使用して公正価値を見積るとしている。(IFRS13 号 36
10 総合商社の例として以下の企業がある。
① 住友商事が、2010年に農業生産法人株式会社さかうえに出資。
② 三菱商事が、2010年に農業生産法人株式会社まいすたぁに出資。
③ 豊田通商は、2008年に農業生産法人株式会社ベジ・ドリーム栗原を設立し、さらに、
2010年には、近畿大学と共同でクロマグロ養殖の株式会社ツナドリーム五島を設立し ている。
豊田通商は2016年3月期決算現在で IFRSを適用していないが、2016年3月期の決算短信 にて「豊田通商グループは、資本市場における財務情報の国際的な比較可能性の向上を目的に、
将来のIFRS適用を見据え、社内のマニュアルや指針等の整備を進めております」と記載され ていることから、将来、IFRSが適用されれば、農業会計の適用が考えられる。