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芸術・ユーモア・創造性

ドキュメント内 創造性と不調和 (ページ 35-51)

〜⾚瀬川原平の軌跡

渡邊 太

現代美術とユーモア 

ここでは、芸術とユーモア、創造性の関連について、いくつかの材料を出しな がら考えてみたいと思います。

芸術、とくに現代美術ではユーモアが創造性の源泉となっているケースがよく

⾒られます。マルセル・デュシャンというフランスの芸術家は、20 世紀以降の現 代美術に決定的な影響を及ぼしたといわれます。そのデュシャンが、1917 年の公 募展に匿名で出品した『泉』という有名な作品があります。「泉」は、ごくふつ うの既製品の男⼦⽤⼩便器に「R.Mutt」と偽名の署名をしたもので、果たしてこ れが芸術作品とみなせるのか、と物議をかもしました。

公募された展覧会はアンデパンダン展という基本的には無審査で作品を展⽰す ることになっているのですが、デュシャンの『泉』は展覧会を運営する委員たち を困らせました。結局、委員会での議論の末に展⽰されなかったとのことです。

しかしながら、『泉』は美術史上の事件となりました。美術とは何か。芸術とは 何か。何をもって作品とみなすことができるのか。既製品は作品ではありえない のか。侃々諤々の⼤論争が巻き起こったわけです。

デュシャン⾃⾝の意図は、どうだったのでしょうか。芸術とは何かを根源から 問う問題提起として、事件を引き起こすことを意図していたのか、それともただ の悪ふざけにすぎないのか。解釈はさまざまにできます。ところで、この作品が 美術館に展⽰されたとしてそれを⾒たひとたちは、いったいどんな反応をしたで

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しょうか。ちょっと想像してみましょう。美しい絵画や⽴派な彫刻を⾒るために 美術館を訪れたところ、男性⽤⼩便器が展⽰室に無造作に置かれていたら、どう 思うでしょう。「なんだこれは!?」とびっくりする、驚きの反応。あるいは、

真⾯⽬なひとだったら「ふざけるな、こんな美術作品があるものか!」と怒り出 したかもしれません。そしてやはり、笑い出したひともいるはずです。「なんだ これは!」という驚きから、笑いがあふれ出す。美術館の、ある種の神聖な空間 のなかに置かれた⼩便器。なんだかおかしいですよね。

図1 マルセル・デュシャン「泉」

実際、公募展の審査員たちが展⽰室で梱包をといて、出てきた⼩便器を前に腕 組みをして考え込んでいる姿を思い浮かべると、ユーモラスな光景に思えてなり ません。何を美術作品として認め、何を認めないのか。それを決めるのは美術館 という制度なのか。それでよいのか。そもそも芸術作品の定義は何か。そういっ た問題提起をデュシャンはおこなったのではないか、とびきりユーモラスな表現 を⽤いて。そんなふうに考えることもできます。⽪⾁なことに、現在ではデュシ

ャンの『泉』は 20 世紀を代表する作品のひとつとして(本物は紛失されたので複 製品が)美術館に展⽰され、⽴派な美術作品としてあつかわれています。

もうひとつ別の作品を⾒てみましょう。『キッチンの記号論』という、1976年 に発表されたマーサ・ロスラーの映像作品です。テレビの料理番組⾵のキッチン に⽴った⼥性(ロスラー⾃⾝)が台所道具をアルファベット順に紹介していく、

という数分程度の短い映像です。「A、エプロン(Apron)」「B、ボウル(Bowl)」 という具合にはじまって、最後はZで終わるわけですが、やたらと不穏な雰囲気 を帯びた映像なのです。ボウルや⾁切り包丁を乱暴な⼿つきでガチャガチャと⾳

を⽴ててぶつけ合わせたり、ナイフやフォークをふりかざしたり、アイスピック をまな板に突き⽴てたり、とにかく無闇に暴⼒的なしぐさで台所道具を紹介して いくのです。淡々と道具を紹介するロスラーは終始、無表情ですが、⾒ているう ちにじわじわと笑いがこみあげてくるような、不思議な映像作品に仕上がってい ます。

図2 マーサ・ロスラー『キッチンの記号論』

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Semiotics.jpg

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この映像をみると、キッチンというところがいかに危険な場所であるかという ことが実感されます。台所に⽴たないひとには気づかれないかもしれませんが、

台所というのはあれほど殺傷能⼒の⾼い道具ばかりが揃っている、戦慄すべき暴

⼒の予感に満ちた場所なのです。本当に恐ろしい。作品の意図としてはおそらく、

台所こそ家庭の⼥の城、幸せの象徴、愛する⼈のために料理するのが⼥の幸せ、

といった押しつけられた⼥性のイメージを拒否し、台所に閉じ込められて⽇々料 理を作ることに膨⼤な時間と労⼒を奪われ、そのうえ、作った料理に⽂句がつけ られることはあっても感謝されることは滅多にない、という⼥性たちの怒りやス トレスを暴⼒的なしぐさで表現したものと考えられます。

当時、ウーマンリブやフェミニズムの社会運動が台頭し、美術の分野でも⼥性 が置かれた抑圧的な⽴場について作品を通じて問題化するという動きが出てきた、

そういう流れのなかに位置づけられる作品です。その意味で、きわめてシリアス な内容をあつかっているわけですが、それがとてもユーモラスな表現をともなっ ているところが⾯⽩いと思います。

先ほどのデュシャンの⼩便器にしても、芸術とは何か、という根源的な問いを 投げかけているわけですが、「芸術とは何か」と難解な概念を駆使して論じるよ りも美術館のなかに⼩便器をポンと置くだけで、その表現のユーモアによって、

いっそう伝わるということがあるのだと思います。抑圧された⼥性の⽴場に対す るロスラーの怒りにしても、ストレートに怒りを表現するのではなく、デフォル メされた暴⼒的なしぐさによってユーモラスに表現することで、いっそう表現と しての強度が増すということがあるでしょう。

赤瀬川原平とハイレッド・センター 

さて、⽇本の現代美術史においてつねにユーモアを基調として活躍した作家と して、⾚瀬川 をここで紹介したいと思います。2014年に逝去されましたが、

若い頃は⾮常に尖った前衛芸術の活動で知られていました。1960 年代初めに、⾼

松次郎、中⻄夏之とともに、それぞれ漢字の頭⽂字を⼀⽂字ずつとって、ハイレ ッド・センター(⾼=high、⾚=red、中=center)というグループを作り、前衛 的でユーモラスなパフォーマンスを展開しました。同時代の社会運動の熱量とも 共振しながら、若い芸術家たちが、絵画にしても彫刻にしても伝統や予定調和を ぶち壊し、新しい⾰命的な芸術を表現しようとさまざまな試⾏錯誤をおこなって いた時代でした。

当時の前衛芸術の受け⽫のひとつに、読売アンデパンダン展という無審査の公 募展があり、そこに彼らも出品していたのですが、ガラス⽚や刃物などの危険物、

⽣⾁や腐敗物、猥褻な形象のものなど、ありとあらゆるわけのわからない、いや 前衛的で意欲的な作品であふれた展覧会でした。作品の前衛さがエスカレートし てついに 1963年を最後に読売アンデパンダン展は終了しますが、最後の第15 回 展に、中⻄夏之は増殖する洗濯バサミ、⾼松次郎は絡みあって蛇⾏し最後は美術 館の外まで伸びていく紐、⾚瀬川原平は模写と複製による千円札の作品をそれぞ れ出展しました。

じつは、⾚瀬川はこの作品により通貨偽造で後に起訴されて、有名な「千円札裁 判」へとつながります。当時、偽札事件が多発していて、いわばそれに悪ノリし た作品でしたが、聖徳太⼦の千円札を拡⼤し精密に模写した作品で、⾒ていただ くとわかる通り、⾮常に絵が上⼿な作家だということがわかります。精密画の細 密な描写が得意なんですね。模写した千円札も本当に細かいところまで完璧に描 き写しています。そういう、めちゃくちゃ絵がうまいひとが、前衛的なわけのわ からないパフォーマンスをやっていた、そういう⾯もあるわけです。

彼らの活動は公募展だけでなく、公共の空間でも繰り広げられました。⼭⼿線

⾏動と称して、⼭⼿線の駅でラグビーボールほどの⼤きさの卵状のオブジェ(液 体がしたたっている)を持ち歩いて舐めたり、紐状のオブジェを引きずり歩いた りしました。あるいは、国⽴

くにたち

公⺠館を借りて、「敗戦記念晩餐会」と称したパフ ォーマンスや新橋駅前で全⾝に洗濯バサミをつけるパフォーマンス、さらには「ド ロッッピング」と称してビルの屋上から様々な物を落とすイベントなど、幅広い 活動を展開しています。

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なかでも、とりわけ優れたユーモアを感じさせるパフォーマンスとして、「⾸

都圏清掃整理促進運動」を紹介したいと思います。1964年というと、ちょうど東 京オリンピックの年ですね。東京オリンピックは戦後復興から⾼度経済成⻑へ突 き進むさなかの出来事であり、東京の街並みもオリンピック前後で⼤きく変わる ほど、オリンピックをきっかけに都市開発が進みました。というのも、オリンピ ックを開催するとなると世界中からお客さんがやってくるので、当時まだ残って いた戦後闇市的な⾵景を⾒せるわけにはいかないということで、東京中でアスフ ァルトを敷き、スラム・クリアランスを実⾏し、あわてて⾸都⾼速を建設するな ど、とにかくオリンピックに間に合わせるために街の⾵景を⾒た⽬きれいにする 事業があちこちで進められたのです。いまだと、「ジェントリフィケーション」

と呼ばれる都市再開発ですね。それでは便乗しよう、ということで、ハイレッド・

センターの⾯々は怪しげな⽩⾐を着て「掃除中」という看板を⽴て、路上のごく

⼀⾓だけをきわめて精密に掃除するパフォーマンスをおこないました。敷⽯⼆枚 だけを徹底的に清掃してチリひとつない状態にしたり、ワイヤブラシとサンドペ ーパーでマンホールを丁寧に磨きつづけたり、やったわけです。

これは、オリンピックが開催されるから街をきれいにしよう、というキャンペ ーンから漂う胡散くささみたいなものを⼩⾺⿅にしたパロディなのだと思われま す。街をきれいに、ということには表だって反対する声も起こりにくいでしょう けれども、じつのところ都⼼部からの下層階級の排除という裏⾯が潜んでもいる わけです。おそらくは、そうした⾯に対する批判的なメッセージが、路上清掃の パフォーマンスには込められています。⾯⽩いことに、路上清掃のパフォーマン ス中に警察官が近づいてくるものの、やっていることが清掃だとわかると「ご苦 労さん」と声をかけるだけで職務質問されなかったそうです。うっかり警察官も だまされる、というわけです。

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