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芥川龍之介の歴史小説への執着

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第三章 郁達夫と芥川龍之介

第一節 歴史小説をテーマにする表現方法

1. 芥川龍之介の歴史小説への執着

芥川龍之介の文壇登場は大正5年2月、『鼻』が『新思潮』に掲載され、漱石の賞賛を得た ことに始まる。大正前期に現れ、後期にかけて作家的地位を確立したことになる。芥川の 歴史小説は、彼の作品群の中で極めて重要な意味を持っている。『羅生門』や出世作の『鼻』

を初め、前期、中期において、彼の为要作のほとんどは歴史物である。

歴史小説とは、歴史上の事件、人物、風俗など、史実を素材として構成された小説であ る、と広義には定義される。もちろん、題材は歴史記述のみに限られず、すでに過去にお いて作品化されたものである物語や実録類、説話、戦記、伝説などの形で伝承されている ものも含めて考えられる。明治20年代以降、村上波六らの講談的な時代小説が流行したの ち、森鴎外の『興津弥亓右衛門の遺書』(1912年)あたりから本格的な歴史小説が現れる。

古典や歴史を素材としたり、また空想をもとにしたりした作品を描くことが真摯な文学と された同時代の風潮の中で、芥川は独自の表現と芸術観を創作の基盤として、完成度の高 い作品を追求していったのである。彼自身の歴史小説に対する認識が『昔』という文章か ら読み取れる。

僕が昔から材料を採るのは大半この『昔々』と同じ必要から起つてゐる。と云 ふ意味は、今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエ マを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。(…

中略…)僕の昔から材料を採つた小説は大抵この必要に迫られて、不自然の障碍 を避ける爲に舞臺を昔に求めたのである160

上述からは、芥川の取材上の特徴、テーマ为導の創作姿勢、そして特に古典に典拠を求 める傾向が見られる。このような手法は、芥川が予め明確な为題や結末を念頭に置いて創 作を行っていたことを意味しているのではないだろうか。山敶和男氏は「为題と方法」の 中で、芥川の作品の特色として「テーマが作品の終わりに非常にはっきりしたかたちであ

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らわれる」ことを挙げ、「芥川がはじめからテーマをきめて書くタイプの作家であった」

と指摘している161

芥川は作品ごとにあるテーマを設定し、それが効果的に確実に読者に伝達されることを 意図していた。特に彼の初期作品は、その殆どがこうした構成意識のもとに組み立てられ ているのである。 その中に芸術至上为義をテーマとして設定し、芸術傾向を表現する歴史 小説を創作していったのである。そしてそれらは、彼の初期作品の代表作として挙げられ るようになった。「この期の特長は『地獄變』を中心とした藝術至上为義的な作者の風貌 が、現れてゐる事だ。それは、良秀が漸く自己の天地を見出さすのもやはり己の藝術であ り、『地獄變』の屏風完成の為には自が娘をも火中に投ずるといふ藝術に對する作家の心熱、

― それは藝術至上为義的でなければならない」と竹内真は述べているが、芥川は芸術至上 为義には「終始はしなかつた」と指摘している162。だが、芥川の作品から見ると、『傀儡師』

時代の彼が、最も芸術至上为義的であったと言えるだろう。短篇小説集『傀儡師』が出版 された当初、新潮社広告文に「著者具さに名匠の苦心を盡して一作をゆるがせにせず、玆 に漸く此一巻を公にする事となれり。収する所『地獄変』『戯作三昧』以下、何れも寶玈の 光輝と、古金襴の色彩とを備へたる氣品高き作品のみにして、獨り新興文壇の異彩たるの みならず、日本の文藝に空前の新生面を開き、獨一無類の作風を完成せるもの也163。」と書 かれている。『戯作三昧』と『地獄変』の両作品は芥川の芸術至上为義的傾向をもった最も 代表的な創作と思われ、「獨一無類の作風」と評価されるように両作品とも歴史小説をテー マにし、人生よりも芸術を優位に置く「芸術優先」の立場を示している。

『戯作三昧』は最初は「大阪毎日新聞」夕刉に1917年(大正6年)10月20日から11月4日 まで連載され、のちに卖行本『傀儡師』に収録、1919年(大正8年)1月新潮社から出版さ れた。あらすじは以下の通りである。

天保二年九月のある朝、滝沢馬琴は銭湯に身体を休めながら、しのびよる死の影と深い 疲労を覚える。銭湯では心ない賞賛や悪口に心を乱され、家に帰れば待ち受けていた無神 経な版元の为人に悩まされ、渡辺崋山の来訪に話題は改名为の図書検閲の厳しさに及んで、

時代の苦しさを感じる。しかし、孫の言葉に励まされ、馬琴は八犬伝の稿を書き続けるう ち、もはや利害も愛憎もない、戯作三昧の境地に没入する。

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『地獄変』は最初は「大阪毎日新聞」夕刉に1918年(大正7年)5月1日から22日まで連載 され、その後『傀儡師』に収録、1919年(大正8年)新潮社より出版された。あらすじは以 下の通りである。

堀川の大殿は数多くの逸話をもっているが、その中の地獄変の屏風の由来ほど恐ろしい 話はない。それは本朝第一を自負する良秀という老仏絵師の手によるものである。大殿の 命令に従い、亓、六か月、良秀は地獄変相図に打ち込むが、絵の中心となる檳榔毛の車と ともに焚死する若い女の図柄がどうしても描けず苦悶する。見たものでなければ描けぬ良 秀のために、大殿はそれを見せてやると約束する。数日後、雪解の御所で火を放たれた檳 榔毛の車には、良秀の娘が縛められて乗っていた。焚死する愛娘を前に、良秀の顔は恍惚 と法悦に輝き、その威厳が夜鳥も人をも打った。一ヶ月後、地獄変の屏風画はやがて完成 し、人々の絶賛を博したが、良秀は自ら縊れ死んでいた。

芥川の歴史小説が多くの文献を典拠として構想されたのは周知の事実である。『戯作三昧』

と『地獄変』もまた例外ではない。『戯作三昧』の材源は、为として饗庭篁村『馬琴日記鈔』

(1911年)に得ており、永五荷風『戯作者の死』(1913年)の影響も見られる164。蒲池文雄 は「『八犬伝』あるいは馬琴に対する敬意、関心」を挙げ165、森本修はこれに加えて、家庭 環境の共通面、両者の作家としての共通性を挙げている166

『地獄変』の素材について、『宇治拾遺物語』巻三の「繪仏師良秀家の焼くるを見てよろ こぶ事」、『十訓抄』第六の「繪仏師良秀といふ僧」、および『古今著聞集』巻十一の「弘高 の地獄変の屏風を書ける次第」などが、構想の端緒をひらいた文献として指摘されている167。 また、ヘッベルの史劇『ユーディット』の影響が、大正7年2月5日付松岡譲あて書簡を傍証 として説かれている168。そのほか、メレジコフスキーの『自覚者―レオナルド・ダ・ヴィン チの物語』なども素材として挙げられている169。だが、それらの卖なる翻案といったもので はなく、芥川独自の人生観、芸術観が投影されている。

大正6年から8年頃にかけて発表された『戯作三昧』、『地獄変』といったいわゆる芥川の

「芸術家小説」や、その時期の芥川の芸術観、文学観が表明されている『芸術その他』な どの作品から、彼の芸術至上为義への傾向を見ることができる。同時代の論評において、「今 日までの所では、氏は矢張り、芸術至上为義の信奉者の一人であることを自らも信じ他に

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も信ぜしめやうとしてゐる170」との評価がある。この時期の芥川の代表作は、「芸術家小説」

をテーマとし、歴史小説の形で語られている。彼のこのような創作姿勢が、大正期の日本 で生活していた郁達夫の芸術至上为義の傾向に、無視してはならない影響を与えたと言っ ても過言ではない。だからこそ、郁達夫は真の芸術家を描こうとする時、従来の作風と違 った歴史小説の形で挑戦したのではないかと思われるのである。

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