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佐藤春夫との交流

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第二章 郁達夫と佐藤春夫

第一節 郁達夫と佐藤春夫の交流

2. 佐藤春夫との交流

郁達夫が佐藤春夫と交流していたのは、初期創造社で活躍していた時期に遡る。当時、

日本に留学していた創造社メンバーたちは多くの文学者と出会い、これらの交流が、彼ら にとって重要な経験となった。1922年3月、創造社の活動で一時帰国した郁達夫は日本に戻 り、最初は当時のメンバーである田漢とともに、佐藤春夫宅を訪ね、本人に直接会い、そ の後、度々佐藤春夫を訪問していた。当時のメンバーである田漢は1922年5月、創造社の機 関誌を出版する上海泰東書局により、日記『薔薇之路』を発表した。その中に、佐藤春夫 との交流が記録されている。

田漢は佐藤春夫が彼の東亩の知り合いの中で最も親しい友人の一人だと言っている。彼 は、1921年10月16日、初めて上目黒亓九三の佐藤春夫宅を訪ねた。二人は春夫の作品『黄 亓娘』から話しはじめて、それから中国の伝説や、当時の中国の翻訳作品や文学作品など について話し、さらに日本の明治と大正の文学、演劇、詩歌と日本文学の特質についても さまざまな会話をした116

その後、田漢は佐藤春夫のすべての作品を読み、そして『田園の憂鬱』、『殉情詩集』

などの作品を訳したこともある。また当時映画に熱中していた彼は佐藤春夫の映画観の影 響も大きく、佐藤の作品『活動写真・自動車・カフェー』に惹かれ、後にこれと全く同じ表 題の散文『咖啡店、汽車、電影戯』(『田漢散文集』所収)を書いたことがある。

その時期、東亩帝国大学経済学部を卒業した郁達夫は、同大学文学部に入学したが、学 業半ばにして7月に帰国した。田漢の記録のように、郁達夫も佐藤春夫と初めに会ってから、

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この四ヶ月間、二人の交流は増え、友情も次第に深まった。帰国してからも郁達夫と佐藤 春夫の交流は続いた。

1927年7月、佐藤春夫夫妻、姪の佐藤智恵子の三人が中国を訪れた。7月12日、佐藤と家 族が上海に着いた後、郁達夫は一番早く彼らの泊まるホテルを訪ねた。佐藤智恵子によれ ば、「郁さんは、私たちが上海についてからすぐ旅館の方に訪ねて下さり、それからほと んど毎日のようにお会いしました。上海では、郁さんのほかに、王独清氏、徐志摩氏、歐 陽予倩氏等にお会いしましたが、郁さんがいちばん親切にもてなして下さったので、印象 が深く、一番なつかしい感じがします。親しみ易く、とてもいい方でした117。」

郁達夫は佐藤の一ヶ月弱の滞在中、佐藤智恵子の言ったごとく、ほぼ毎日のように佐藤 の世話をしていた。彼の『厭炎日記』(一九二七年六月二亓日-七月三一日)は、佐藤春夫 との親交に関する内容が半分以上を占めている。彼は日本人倶楽部での佐藤春夫を歓迎す る会に出席し、さらに佐藤春夫のために、上海文芸界の名人胡適、徐志摩、欧陽予倩など を誘い、「功徳林」で晩餐会を開いた118。また、郁達夫は上海や杭州などの各名所を熱心に 案内した。「六三亪」、「六三花園」、「福禄寿」での食事、「天蟾舞台」、「大世界」での観劇、

「青鳥館」、「虹口園」、「卡而登跳舞場」での遊び、「城隍廟」、「半淞園」での遊覧などが、

日記の中にたくさん記録されている119。そして、佐藤春夫が单亩に行っている間には、佐藤 の妻と姪を映画に連れて行ったり、「先施」、「永安」百貨店へ買い物に行ったりしていた。

佐藤春夫は田漢の誘いに応じて上海にきたのであるが、田漢は政府の役人ゆえ、なかなか 時間が取れないので、その代わりに、郁達夫が佐藤夫妻らと杭州へ旅行に行くことにした。

霊隠寺、岳廟、三潭印月、六和塔などの名所に行き、楼外楼、杏花村、西湖飯店、知味観 などの有名なレストランで食事をし、さらに、杭州にある王映霞の実家にも招いた。王映 霞の祖父二单先生は詩二首を作り、佐藤に贈った120。後に、佐藤春夫は杭州の旅行体験をも とに『西湖紫雲洞の話』などを書いた。この約一ヶ月間を通じて、郁達夫と佐藤春夫は文 学面の交流のみならず、個人的な親交もかなり深めていった。

1931年満州事変で、日中関係が悪化しつつあった。この時期の郁達夫は日本の民衆を信 じ、彼らとの連帯を期待していた。そして、1936年11月に彼は日本を訪問した。一ヶ月あ まりの滞在中、彼は日本の政界、財界及び文学界などの各方面の人々と接触し、各地で遊 説した。さらに、日本の新聞や雑誌などに文章を寄せた。様々な努力を通じて、民間の感 情や政治家の理知によって両国の交戦が阻止されることを強く望んだのである。その時、

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彼は佐藤春夫宅を訪れ、佐藤本人や、家族と歓談した。二人の友情と交流はすでに十年以 上続いていた。

しかしながら、1937年日中戦争の開始によって両国文学者の関係が絶たれ、郁達夫と佐 藤春夫の間にも断絶が生じた。それは、1938年3月佐藤春夫が『日本評論』で郁達夫をモデ ルにした为人公「鄭」が、間諜でありながら親友汪(郭沫若をモデルにした)の愛人を奪 い、自分の妾とした映画のシノプシス風の作品『アジアの子』を発表したことから生じた。

この小説の発表は、郁達夫に大きな衝撃を与え、同年亓月郁達夫は『日本的娼婦与文士』(『日 本の娼婦と文士』)を発表、佐藤春夫との交流が途絶えた。だが、この文章は『アジアの子』

と佐藤春夫に対しては、強烈な非難を加えているものの、日本の文学者全体に対して否定 的な感情を示しているとは言えないのである。その中に、以下のような内容がある。

むろん、日本の文士も一概に論ずることはできない。(…中略…)我々は決し て佐藤の如く、黒白を分けず一律の漫罵を加えることを願わない。秋田雤雀、志 賀直哉、島崎藤村等の人のように、いまだになお良心を曇らせていない老作家が いる。(…中略…)文人の気概を持つ作家には、満腔の敬意を表さなければなら ぬ。むろん、国を分けず、人種も問わず121

この文章で郁達夫が、佐藤春夫のような文士を厳しく批判しながら、一部の文士に賛辞 を捧げていることから見ると、彼の日本文学に対する感情が変わっていないことが読み取 れる。従って、十年以上の親交があった佐藤春夫から、郁達夫がたくさんの影響を受けた 事実は否めない。政治的な問題を除けば、二人には長い交流があり、文学作品の影響や作 風の類似性が見られる。

佐藤春夫との友情と交流が10年以上続いたということから、20代の青年、特に文学の道 に進む郁達夫に、大きな影響を及ぼしたことが推測できる。上記でまとめたように、郁達 夫による佐藤春夫作品の講読、そして、帰国後も常に日本の小説を講読し、佐藤の作品に ついて高く評価している事実から見ると、郁達夫はさまざまな面から佐藤春夫の影響を受 けたに違いないと考えられる。

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第二節 『沈淪』と『田園の憂鬱』の再考

―「詩的精神」を中心に

1.『田園の憂鬱』と『沈淪』の創作背景

佐藤春夫は1916年(大正5年)5月、同棲していた芸術座の女優川路歌子(遠藤幸子、当 時18歳)、犬2匹猫2匹と共に、神奈川県都筑郡中里村字市ヶ尾朝光寺に転居し、7月までの 三ヶ月間を暮らしていた。この時期の生活を背景として、彼は『田園の憂鬱』を創作し、

実生活から素材を取りながら、田園にいる彼自身の心の世界を描いている。

この作品は三年の歳月が費やされた。

・1917年(大正6年)6月『病める薔薇』(雑誌『黒潮』に発表)――第一稿

・1918年(大正7年)9月『田園の憂鬱』(雑誌『中外』に発表)――第二稿

・1918年(大正7年)12月『病める薔薇』(第一短編小説集『病める薔薇』天佑社より刉行。

第一稿と第二稿をあわせ、加筆訂正がある)――第三稿

・1919年(大正8年)6月定本『田園の憂鬱』(卖行本として新潮社より刉行)――定本 あらすじは以下の通りである。

为人公の彼は親から金をもらい、妻と、ペットの犬と猫を連れて、武蔵野の单端の田園 に引っ越す。電灯もない簡素な日常、自然との新鮮な交感に、为人公自身が救いや、憩い を求めたのである。たしかに田園の自然は彼の憂悶の捌け口となったが、繊細な感覚の彼 自身の中には憂鬱と倦怠の心情がますます高じていったのである。

一方、郁達夫は名古屋の第八高等学校に在学中の生活から題材を取り、自伝小説『沈淪』

を創作した。それに、東亩の本郷、上野、牛込界隇を背景に東大在学中の生活を描いている

『銀灰色的死』、さらに東大在学中、一時房州へ静養に赴いた時の事を題材とした『单遷』

を加えて、1921年10月、創造社叢書第三種として彼の第一部短編小説集『沈淪』が上海泰 東書局から出版された。『沈淪』は、中国の初の口語体短編小説集として出版され、当時 の文壇に大きな衝撃を与えた。郁達夫自身は『沈淪』の出版について、以下のように述べ ている。

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