―占領,舞踊,そして「魔界」―
1 はじめに
第3章の 2-4で少し触れたように,『舞姫』は川端の戦後における初めての新聞小説と して,1950年12月12日から翌1951年3月31日までの計109回にわたって,『朝日新聞』
(東京・大阪・小倉)朝刊紙上に連載された(1)。同年7月に朝日新聞社より単行本が刊行さ れ,「魔界」の語が初めて登場する作品として,川端文学の中に位置づけられている。
『舞姫』における「魔界」に最も早い時期に言及したのは三島由紀夫であった(「解説」
(『舞姫』新潮文庫,1954年11月)。そして,研究史をたどると,「魔界」を主題として捉 えたものには能沢寿彦の論があり(「『魔界』に関する一考察」『立教大学日本文学』1976 年7月),具体的に主題と関連させて論じたのは岩田光子と今村潤子の論である(岩田光子
「川端文学の特相(五)―魔界の考察―」『学苑』1979年1月,今村潤子「『舞姫』論」『川 端康成研究』審美社,1988年5月)。また,羽鳥徹哉は「『みづうみ』における魔界」(『国 文学 川端康成 魔界・都市・幻想』1987 年 12 月)の中で『みづうみ』の魔界を論じた際 に『舞姫』の魔界について触れ,「品子は『魔界に入る』という言葉の意味を父に教わり,
それをそのまま受け継いでいるように自分では思いながら,実は方向をまるで逆転させて しまっているわけである。つまり矢木の場合,『魔界に入る』とは生活を守るため愛や人情 は排するということだったが,品子の場合,愛を貫くため,世俗的道徳も自己の生活も捨 てて顧みないという意味になった。『舞姫』には二つの逆の方向を持った魔界が提示され,
後者によって前者が否定されるという形で作品が終っている」と指摘している[羽鳥 1987 : 40]。
しかし,『舞姫』の「魔界」を考察するには,作品のモチーフである「舞踊」にも目を向 けねばならない。「舞踊」に関しての研究では,初めて舞踊学の視点から桑原和美が『舞姫』
に触れ(「昭和時代初期の舞踊―川端康成を通して―」『舞踊学』1990年3月),また,舞踊 のモチーフから『舞姫』を考察したのが福田淳子の論(「川端康成『舞姫』序説―モチーフ としての舞踊―」『学苑』1991年1月)である。福田は登場する三人の舞姫のそれぞれの舞
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踊の在り方を分析し,「バレエという華やかな仮象に隠蔽された真実が三人の恋愛を通して 示されている」と述べ,また,「矢木の舞踊批判は,舞踊精神とは程遠い舞踊界の現状に辟 易とした川端の代弁と取れなくもない」とも指摘している[福田 1991 : 92]。高見澤恵子 は,『バレエ読本』の内容とストーリーの関係を調査し(「川端康成『舞姫』論―バレエの視 点から―」『国文』1994年1月),平山城児は崔承喜,朝鮮動乱などに関する新聞記事を実 証し,舞踊「仏の手」の合掌の仕方が『望月仏教大辞典』によるものだろうと推定してい る(「川端康成が〝舞踊〟に抱いていた執念―『禽獣』『舞姫の暦』『花のワルツ』『舞姫』そ して『船遊女』」『川端康成 余白を埋める』研文出版,2003年6月)。このほかに,高根沢 紀子は原善の「類似した部分をもつ『たんぽぽ』との比較」こそが為されるべきという指 摘を受け,『たんぽぽ』との比較研究の論を書いている(「『舞姫』論」『川端文学の世界2 そ の発展』田村充正・馬場重行・原善編,勉誠出版,1999年3月)。『舞姫』は,以上のよう に論じられてきた。
作品はそれぞれの題により「八章」に分けられており,「七章」に「仏界と魔界」が置かれ ている。本稿では「魔界」の語が初めて登場する「七章」に向けて,「一章」から「六章」ま でどのような展開が見られるか,「魔界」と「舞踊」の二つのキーワードがどのように関わ っているか,加えて『舞姫』で語られている「魔」と,『山の音』に出てくる山を鳴らす「魔」
との関わりについても考えてみたい。以下,『舞姫』における時代状況的側面と内面的側面 を考察してみたい。
2 『舞姫』における時代状況的側面
2-1 敗戦の影
1945年8月15日に太平洋戦争が終わった。それをもって,戦前のシステムを支えた価 値体系が崩壊し,その代わりに,アメリカをはじめとする占領軍が関与した日本国憲法が 施行された。社会システムの大変革の過程で,世相にも様々な波紋がもたらされた。作家 としての川端は,こういう社会の変化に目を配りながら,日本の敗戦から受けた悲しみと ともに,戦後の世相や風俗を『舞姫』に書き入れている。作品の時間設定は,第二次世界
183 大戦の敗北5年後の11月半ばから始まる。
「わかつてますわ。でも,人間はそれぞれ悲しみを,背負つてゐますからね。矢木はさういふんですの。
悲しみがあまり重いと,そのほかのことでは,知つてゐてわからないこと,どうしやうもないことも,出 来て来ますわ。それは私もおたがひに,さうだと思ひますの。」/「ばからしい。矢木さんの悲しみは,な んだか知らんが……。」/「日本が敗れて,矢木の心の美がほろんだと,いふんですの。自分は古い日本の 亡霊だ……。」(10巻264頁)
以上のように,作品の冒頭近くで,皇居の堀に来ている波子と愛人の竹原との,矢木家 についての話の中に,「日本が敗れて」,「悲しみ」,「美がほろんだ」,「古い日本の亡霊」と いうような言葉が出てきて,波子の語る矢木の心情に敗戦の暗い影が落ちていることがう かがえる。もしこれが直接に敗戦の影を現す表現だとすれば,「ぼくはお父さんを待つて,
沙羯羅や須菩提の前に,長いこと立つてゐるうちに,少しかなしく見えて来たんですが
……。」/「ふむ。二つとも乾漆といふ彫刻の素材は,仏師が抒情的に扱ひやすいのかね。
天真な少年像に,日本の哀愁も出てゐる」(10 巻 286 頁)というところは,その間接的な 表現であろう。
そして,敗戦と皇室および日本の伝統について語られている文章もある。
戦争中に,「吉野朝の文学」といふ本を書いて,そのころ講座を持つてゐた私立大学に,学位論文として 提出した。/南朝の人々が戦ひやぶれて,吉野の山などにさすらひながら,王朝の伝統を守り,つたへ,
またあこがれた,文学と史実とを調べたものである。南朝の天皇がたの源氏物語研究に,矢木の筆は涙を そそいだ。(中略)藤原道長の王朝時代なども,決して平和の時代ではない。人間の争ひの流れに,美の波 頭が咲いたのだ。/矢木が藤原時代の暗黒を見るやうになつたのは,原勝郎博士の「日本中世史」などに 教へられてからだ。/(中略)日本の「神」といふ言葉では,矢木も日本の敗戦で,痛い目にあひ,自分 のうしろめたい感じがともなつた。「吉野朝の文学」は,今となつては,敗戦の後をかなしむやうな本にも なつたが,無論,皇室を日本の美の伝統に,神と見たものであつた。(10巻288~289頁)
以上の引用文から,戦中に書いた『吉野朝の文学』にうしろめたい感情をもっていると
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ころに矢木の戦後の屈折の心情が見られるだろう。「吉野朝」というと,「少年」(『人間』
1948年5月~1949年3月)の中の文章が想起される。「戦争中,空襲もいよいよはげしく なつてから,燈火管制の夜の暗さや横須賀線の無慙な姿の乗客のなかで,私は源氏物語湖 月抄を読んでゐた。和本に木版の大きくやはらかい仮名書きがそのころの燈火にも神経に もよかつたのである。読みながら私はよく流離の吉野朝の方々や戦乱室町の人々が源氏物 語を深く読んだのを思ひ出したものであつた」(10 巻 145 頁)と書かれているように,川 端自身も戦時下に『源氏物語』に心を傾け,「吉野朝」や戦乱のことを考えずにはいられな かった。矢木の身に川端自身の影が落とされていると言えるだろう。
また,「今は,一発の原子爆弾で,浦上の天主堂が,むざんに吹つ飛んだし,長崎で,八 万人死んだとすると,そのうちの三万は,カトリツク信者だらうといふんですが……。」(10 巻304頁)というところに「原子爆弾」や「長崎」が出ている。そして,「戦没学生の記念 像を,東大の図書館前に立てようといふのね,大学側がゆるしさうにないんですよ」,「戦 没学生の手記を集め,(遥かなる山河に)や(きけわだつみのこゑ)といふ本が出て,映画 にもなつてゐますね。その(わだつみのこゑをくりかへすな)といふ意味で,記念像も(わ だつみのこゑ)と名づけられるでせう。ノオ・モア・ヒロシマにも,通じるところがあつ て,平和の象徴なんです,悲しみと怒りとをこめた……。」(10巻310頁)というところに,
「戦没学生の記念像」,「戦没学生の手記」,「遥かなる山河に」,「きけわだつみのこゑ」な どの言葉が出てきている。とくに「ノオ・モア・ヒロシマ」については,川端が1949年11 月,広島市の招きで原子爆弾の被害を視察し,1950年4月,広島・長崎の原爆被災地を視 察したことも思い出される。
このほかに,「ぜいたくと言はれた女学校を,波子は出てゐて,名家や富家にとついだ,
友達が多かつた。さういふ家庭は,敗戦による,転落がはなはだしく,また,所帯じみな いで来たために,中年の女になりながら,旧道徳の動揺に,よけいもまれた。」(10 巻329 頁)と書かれているように,「敗戦による転落」と女性の旧道徳の動揺にも繫がっているこ とが描かれている。とくに作品の結末では,「大磯あたりで,傷痍軍人が寄附をもとめる,
とげとげしい演説口調を,品子はぼんやり聞いてゐると,/『皆さん。傷痍軍人の方に,
寄附をなさらないで下さい。寄附は禁じられてをりますから……。』/と,別の声が言つた。
入口に車掌が立つてゐた。/傷痍軍人は,演説をやめて,金属の足音を立てながら,品子