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胎動期としての「反橋」三部作

ドキュメント内 早稲田大学審査学位論文(博士) (ページ 149-190)

―「女の手」,「再会」にも触れて―

1 はじめに

第1章から第3章までは川端の旧満州紀行と海軍報道班員を中心とした戦争体験,敗戦 前後における川端の悲痛な心境,そして川端における「戦後」を考察してきた。敗戦を体 験し,多くの文学の知己や先輩を失い,戦後の世相を見てきた川端は,深い悲しみを感じ ている。先に引用した「敗戦後の私は日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである」

という心境が語られている「哀愁」などの随筆や,「私はもう死んだ者として,あはれな日 本の美しさのほかのことは,これから一行も書かうとは思はない」が述べられている「島 木健作追悼」などの弔辞からうかがえる。昭和初年に感得した「末期の眼」の認識が,戦 争の体験によってさらに深化していく。

川端は戦争の中で人間の命の儚さを実感してきた。個人としての「孤児の感覚」から分 離して,人間全体としての「哀れさ」へと拡大したのである。しかし戦争の末期から「魔 界」が初出する『舞姫』(『朝日新聞』1950年12月12日~1951年3月31日)まではまだ 一定の期間があり,「魔界」を孕んでいるこの時期を,彼の「魔界」思想の胎動期と規定す る。川端の「魔界」思想がどのように顕現してきたか,「魔界」にはどんな要素が含まれて いるかは,それぞれの要素がどのように生成しているかということと関わっているので,

これらの問題を考察することによって,「魔界」の内実を探ってみたい。

敗戦直後に発表された「女の手」(『人間』1946 年 1月)と「再会」(『世界』1946 年 2 月;『文藝春秋』1946 年 7 月)などの作品に,戦争の影や戦後の世相が色濃く書き込まれ ている。戦後川端の内面の軌跡をたどるにあたっては,「女の手」と「再会」を避けて通る ことができないだろう。そして,少し間をおいて発表されている「反橋」(1948 年 10 月)

「しぐれ」(1949年1月)「住吉」(1949年4月)の3つの作品は,敗戦後の川端が再出発

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しようと告げているようである。たとえば,「住吉」が発表された翌月から,「千羽鶴」の 連載が始まり,同年の 9 月に「山の音」の連載が開始された。つまり,戦後川端の代表作 が相次いで発表し続けられたのはこの時期である。では,「反橋」以降の時期の川端の旺盛 な創作力はどこから来たのだろうか。彼は戦争の影とどう向き合っていたのだろうか,そ して日本の「戦後」をどう認識していたか。まず,川端の戦後初の創作である「女の手」

を見ることにしよう。

2 「女の手」と「再会」について

2-1 瞬時の忘却/永遠の記憶―戦争の影

「女の手」は1946年1月号の『人間』に発表された。発表誌『人間』の発行元は,川端 肝煎りの鎌倉文庫である。実は,川端が鹿屋基地に行く前から,出版事情の悪化により鎌 倉住まいの文士たちの生活は困難に陥った。周知のように,太平洋戦争に突入してから,

出版の用紙割り当てが削られ,出版社が統合された。単行本の数も激減し,雑誌も薄くな っていた。そして,戦災に遭った出版社や印刷所も少なくなかった。つまり,作家たちに とっては,原稿料や印税収入がなくなったため,その生活難をどう切り抜けるかが大問題 になっていた。それを解消するとともに戦争で荒廃した人心を明るくする目的で,1945年 5月1日,鎌倉在住の作家たちが個人の蔵書を1000冊ほど集めて,鎌倉八幡宮の鳥居近く で貸本屋を開いた。発案者は久米正雄や川端康成である。協力者に小林秀雄,高見順,里 見弴,中山義秀などがいる。高見順の5月22日の日記(『敗戦日記』文藝春秋社,1959年 4月)の中に,開業当時のことが記されている。

昨日,店から帰つた妻が,NI 氏の紹介状を持つたᇞᇞの人が店へやつて来て,本を寄贈してほしいと言 つてきたという。聞いて私はカーッと腹が立つた。道楽でやつているのではない。食えないから,やつて いるのだ。大事な時間を潰して「番頭」をやつているのだ。金さえあれば,家で勉強したいのだ。金がな いから,我慢して,稼いでいるのだ。――食えない文士が,どうしてそうサービスをせねばならないのか。

飛行機工場は,無料で飛行機を寄贈しているだろうか。[高見 1959 : 174

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川端が鹿児島県鹿屋航空基地から帰ってきたのは,その翌々日のことである。そして,

同じ高見順の6月4日の日記を見ると,貸本の配当金が記されている。同人は25人で,最 も多いのは久米正雄(911円44銭)であり,また大佛次郎(659円20銭),高見順(472 円33銭),林房雄(324円45銭),島木健作(194円58銭),川端康成(129円46銭),

片岡鉄兵(89円30銭),新田潤(85円),少ないところでは,里見弴(17円36銭),小林 秀雄(2円82銭)と書かれている。当時の川端は,「年に四十円ほどの原稿料しか得られな かったのだが,この貸本業では一カ月で一三○円ほども配当があった」と言われているよ うに[大久保 2004 : 139],文士たちの生活難に大変役立ったことがわかる。終戦後,貸本 の事業は順調に進んで,店も繁栄していた。市民が文化に飢えていることへの考慮もあり,

紙と印刷設備がなんとか解決できた文士たちは,1945年9月1日,出版社「鎌倉文庫」を 立ち上げた。里見弴が社長になり,久米正雄,大佛次郎らが重役になった。川端は常務取 締役として東京の事務所に日参するようになった。巌谷大四の記述によると,川端はのち には鎌倉文庫の副社長になったという[巌谷 1962 : 275]。このときの経験が,のちの『山 の音』などの作品に反映され,川端の戦後の盛んな社会活動にもつながっているだろう。

1945年12月に,文芸誌『人間』を鎌倉文庫より創刊した(1)。「混乱していた戦後の文化 に明るい話題を提供した」[読売新聞文化部 1969 : 176],鎌倉文庫が出している5種類の 雑誌の 1 冊目として知られている。なぜ誌名を「人間」としたのか。ここで思い出される のは,創刊された半年ぐらい前に,川端の鹿屋特攻隊基地の報道班員の体験である。とく に,帰隊命令を受けた特攻隊員の杉山幸照と一緒に帰った途中に,「特攻の非人間性」を語 っていた。戦争での殺戮と破壊の行為を分かっているはずだが,若い生命が続々と流れ去 っていったことを生々しく実感したのは,この特攻隊基地で過ごした日々である。戦後に なってから,川端をはじめとする鎌倉の文士たちは,戦争に壊滅された人間性をいかに回 復できるかという大問題を認識していただろう。1冊目の雑誌名を「人間」としたのは,そ ういう祈願が含まれているといってもいいだろう。

「女の手」がその創刊号に発表された。この作品は川端自身の戦後初の創作でもあるの で,戦後川端文学の方向性を考察するには見逃せない作品といえる。作品の梗概を見てみ ると,先生の未亡人も信州の疎開先から帰ってきたことを聞いた主人公北川は,亡くなっ

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た先生についての記憶をたどるが記憶が薄らいでいる。北川は先生の姿を蘇らせるために 未亡人を訪ねる。束の間,未亡人が先生に似て感じられ胸を打たれる。しかしよく見ると,

昔と違った強さを顔や姿に見出して,やはり先生と似ていないと思う。たくましく生きて いる未亡人の現実に疲れを感じるようになる。未亡人がそれに気づき,先生のことを話題 にすると,また先生に似ていると北川は再び感じる。未亡人が,仙子さん(北川の妻)は 本当にきれいな手をしていましたと言うのを聞いて,北川は仙子が先生の手を引いたこと,

未亡人に手を取られた先生の姿,告別式で仙子が未亡人の手を支えていたことを思いだす。

北川における手にまつわる美しい記憶が蘇り,妻の手が美しかったことに思い至る。

「女の手」が発表されたのは,1946年1月号(発行は1945年12月)であるので,川端 が執筆していたのは,敗戦の1945年8月から11月の間のことであると推測できる。つま り,敗戦を体験した川端の戦後の文学活動の新たな一歩を踏み出そうとする実践作と言っ てもいいだろう。「戦争で忘れたかと言つたのはふいと出た悪態に過ぎなかつたが,言つて から,北川は眼前に滔滔と忘却の大河が流れてゐるのを見るかのやうに思ひ,その水勢は 戦争で暗黒に逆巻いてゐるかのやうだつた」(7巻295頁)と書かれているように,戦争と いうものが北川の無意識の中に深く入り込んでいることが分かる。長年の激動の戦乱の時 代を生き抜いた北川は,戦争による殺戮と破壊の過去を忘れようとしたが,そのような忘 却は瞬時的な麻痺にすぎない。戦後の現実を見ていたら,戦争にまつわる記憶がさまざま な形で蘇ってくる。北川にとって,戦後の現実とは一体どんなものだろうか。次のような 一節を見てみよう。

未亡人からも先生のことは一言も話し出しさうになかつた。先生のまはりにゐた誰彼を思ひ出して,戦 争が終つた現在の消息を語り合ふのはこのごろの世間話の順序だし,その消息に驚きや喜びをあらはす未 亡人の応答も世間並みに高調子とはいへ,さういふ旧縁の人たちはもう未亡人の関心から外れてゐるのを 北川は感じ,このごろのさういふ高調子はもう耳馴れてゐた。(7300~301頁)

世間の習わしとして世間話に「高調子」の反応を示しているが,「さういふ高調子はもう 耳馴れてゐた」と書かれているように,実は未亡人は戦後の現実に鈍感である,と北川は 感じている。「さういふ旧縁の人たちはもう未亡人の関心から外れてゐる」というところか

ドキュメント内 早稲田大学審査学位論文(博士) (ページ 149-190)

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