―友人の死去,日本(古典)回帰,「末期の眼」の徹底化―
1 はじめに
第1章では,川端康成における旧満州紀行(1941年春,秋)と特攻隊基地の報道班員(1945 年春)という戦争体験を考察したが,戦時下の川端が大きな衝撃を受けたことが分かる。
第2章では,川端が敗戦と重なる相次ぐ友人の死去からいかなる打撃を受けたか,日本(古 典)回帰の決意が具体的にどのような文章の中に語られているか,そして川端における「末 期の眼」の認識とは何かを考察する。太平洋戦争に突入してから,戦局の激化にともなっ て,用紙事情が厳しくなり,川端の文学活動は低迷していた。とくに1944年から東京は大 規模な空襲を受けて,人々にとってはどうやって生き残るかが最大の課題であった。
無論,川端にとっても同じである。「この頃,十九年から二十年にかけて川端は空襲にそ なえて,裏山の防空壕代りに使っていたやぐらをノミとカナヅチでこつこつと広げる作業 に没頭していました。子供もいましたし,近所の人も入れるようにというわけです。軽い 外套を着て,ひまを見てはあきもせずこつこつとやっておりました。防空群長の仕事を引 き受けたのもこの頃のことです」,と秀子夫人が記しているように[川端秀子 1983 : 178],
警戒警報や空襲警報が飛び交う非日常の中で,川端は創作活動をすることができなかった のである。そして,非常時の出版規制で作品発表の機会も少なくなり,収入も途絶えて,
軽井沢の別荘をひとつ売却し,生活費にあてるような暮らしをしていた。社会活動として,
芥川賞の詮衡会や,文学報国会の会議などで東京に出たりしている川端は,横須賀線の車 中で木版の湖月抄本『源氏物語』を読みふけった。
1945年8月14日,日本は御前会議においてポツダム宣言の受諾を決定した。翌15日正 午に,昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書,戦争終結ニ関スル詔書)の音 読放送が,社団法人日本放送協会(当時)にてラジオ放送された。この放送は,太平洋戦 争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝えるものであった。秀子夫人,養女政子 と共に自宅でその玉音放送を聞いた川端は,敗戦という現実をいかに受け止めていたのだ ろうか。「敗戦のころ」の文章の中に,「太平洋戦争,日本の敗戦は,『平家物語』や『太平
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記』のやうに,大きい作品としたい願望を持つてゐる」(28巻7頁)と川端が記しているこ とから,源平の争乱,南北朝の動乱と同じように,日本の敗戦を歴史の大きなできごとの ひとつとして捉えていることがうかがえる。川端にとっての敗戦をより包括的に考察する ために,まず,敗戦前後の出来事を把握してみよう。たとえば,日本の降伏から2日後(8 月17日)に,文学の知友の島木健作の死に遭った。実は島木健作だけでなく,敗戦から大 きな打撃を受けた川端は,その前後に多くの身近な文学上の知己の死に遭遇した。
2 敗戦と友人の死去
新感覚派以来の盟友のひとりの片岡鉄兵(1944年12月25日)の死去にはじまり,川端 は親交のあった作家たちの死に次々と見舞われた。敗戦後には,たとえば,島木健作(1945 年8月17日),武田麟太郎(1946年3月31日),横光利一(1947年12月30日),菊池 寛(1948年3月6日)と,並べてみただけでも,川端が受けた衝撃の大きさは明らかであ る。川端が敗戦から受けた打撃は,友人の死去を悼む弔辞などの文章の中に書き込まれて いる。まず,そのような心境が吐露されている文章を見ることにしよう。
天寒歳暮波濤中といふ句を思ひ出して私は片岡家から夜道を帰つたりしたが,自分一人の寒さや悲しさ の身に沁みやうも感情の平時公法を著しく外れてゐて,骨を弓と張つて立向ふ根性が先きに立つ。このや うな日のただ中に友人の死は一入哀切であり,逆にまた戦争の烈しさが私の傷惨懐慕を救禦してゐるかと 思へる。(「片岡鉄兵の死」『新文学』1945年3月,29巻213頁)
私の生涯は「出発まで」もなく,さうしてすでに終つたと,今は感ぜられてならない。古の山河にひと り還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として,あはれな日本の美しさのほかのことは,これから一 行も書かうとは思はない。(「島木健作追悼」『新潮』〈戦後復刊第一号〉1945年11月,34巻43~44頁)
片岡鉄兵は『文芸時代』以来の友であり,中国従軍のときにかかったマラリアが原因で,
健康がすぐれなかったという。1944年12月25日,旅先の和歌山にて肝硬変で急死した。
12月29日の朝,片岡夫人は一人で遺骨を携えて東京駅に着いた。「スキイ帽のやうな帽子 その他今時の身固めでリユツク・サツクを背負ひ,両手に鞄を提げてゐた。これに遺骨が
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入つてゐると,その小さい方の鞄をちよつと示された時,私は片岡君の滅相を思ふよりも 時代の険折がふと身に迫る感じだつた」(29巻212頁),と川端がその時の様子を回想して いる。そして,秀子夫人の記述によると,片岡の葬式は年明けの1945年1月14日であり,
告別式は15日の「午前八時からで,これは空襲などに会わないようにという心づかい」と 書かれている[川端秀子 1983 : 178]。午前8時から近親の礼拝,9時から10時までが一般 の告別だった。また,「片岡鉄兵の死」(『新文学』1945年3月)の中に,「寒中の朝のうち に都心を外れて荻窪までは相当で,私達は前日から通夜を兼ねて泊まりこんだが,丹羽文 雄氏などは疎開先から汽車中の弁当を朝飯にして来たといふし,伊東の佐佐木茂索氏など は三時に起きて飯を炊き一番の汽車に乗つたといふことだつた。その日あたり敵の多数機 が来さうな予感もあつて戦闘機の遽しい爆音に誘はれては空を見ながら無事に終つたのを 幸ひにした私達は,恰もこの時敵機が伊勢神宮を犯してゐるようとは思ひ及ばなかつた。
このやうな時に片岡君は死んだのである」(29巻211~212頁),と川端が片岡鉄兵の告別式 の様子を書いている。しかし,このような戦争の烈しさが,かえって知友を失った「傷惨 懐慕を救禦」したと川端は言っている。
ここで語られている「敵機が伊勢神宮を犯してゐる」というのは,片岡の葬式の1月14 日の午後,米軍機2機が宇治山田市上空から外宮の宮域5ヶ所に6発の爆弾を投下したこ とである。つまり,戦火は拡大の一途をたどり,新宮が直接標的になったことがわかる。
実は1945年になり,新宮の職員も応召して戦地におもむくことになったが,米軍はなぜ伊 勢神宮に爆弾を投下したのだろうか。「軍国的国家主義の精神的支柱とされるいわゆる国家 神道によって,日本帝国主義のアジア侵攻とともに東アジアの各地に伊勢神宮内宮ないくうの祭神 であるアマテラス大 神おおみかみを祭さい祀しする神社が建設されていった。国家主義によるアジア侵攻に ともなって伊勢神宮は,アジアの植民地の日本化に大きな意味をもった」[千田 2005 : 4]
と,千田稔が『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』(2005年1月,中公新書1779)の中で 語っているように,日本のアジア侵攻の「軍国的国家主義の精神的な支柱」を破壊したい という理由を示唆しているだろう。
話を元に戻すと,川端の弔辞は手間取って書き上がらず,菊池寛の弔辞を代読した。「葬 式の前々日夜中から書出したが腹案の三分の一も進まぬうちに夜が明けた。私は未完の草 稿を携へて片岡家に行く外はなかつた。夜間の空襲に執筆を妨げられもした。しかしまた
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私は無理して書き急いだり切りまとめたりする習慣を戦争中に殆ど捨ててしまつてゐた。
他の弔辞があつたので幸ひ未完の弔辞は読まずにすんだ」(29巻490頁),と川端は片岡の 葬式の前の様子を語っている。その未完の弔辞は,「この戦争の成行を生きて見届けようと,
君は僕にも屡言つた。生きてといふ言葉に,僕は僕等が交友二十年歴てこの秋ときに遇ふお互 の愛情を感じ,国の危急を憂へる君が衷心を聞いた。それは畢竟激湍に鳴る僕等の生の声 として尚僕の耳にありながら君は已にゐない」(29巻212頁)という書き出しで,「このや うな日旅に病んで君の末期の目に冴映つたであらう世界戦争の貌を思ふと,君の死もまた 今日の波濤に一点燃えるかと更に胸打たれる」(29巻213頁)と記されている。のちに,「武 田麟太郎と島木健作」(『人間』1946 年 5 月)の中にも,「無論戦争中だから,この戦争の 成行を生きて見届ける,といふやうな表現を決定するにも,私は時間を費したのである。
成行のかはりに,勝利と書けるとやさしかつたが,片岡君は大分前から敗戦を見通して,
私が書いたよりも人に聞かせにくい言ひ方をしてゐた」(29巻491頁),と片岡鉄兵への思 いを語っている。
「片岡鉄兵の死」の文章中の「このやうな日」というのは,戦勢が崩壊し始める時のこ とだと思われる。戦勢が悪化するに伴い,川端における国家や民族の意識も強くなってい るようである。たとえば,戦後発表された「天授の子」(『文学界』1950 年 2 月)の中に,
東京大空襲の日々の心情が記されている。その時,川端は隣組の防空群長をしていた。夜 中に机に向かっている習慣があるので,夜番に勤めたようだ。そうした中,川端は暗く静 まり返った夜空や山々を眺めながら,「過去」を回想するときが多かった。
空襲のための見廻りの私は夜寒の道に立ちどまつて,自分のかなしみと日本のかなしみとのとけあふの を感じた。古い日本が私を流れて通
とほ
つた。私は生きなければならないと涙が出た。日本の美の伝統のため に生きようと考へた。人は生きてさへゐれば自分の生の意義を感じるひとときがいつか必ず来るものだと,
私は生きのびてゐるが,負け戦の国のみじめさが私の生の意義を強めようとは,思ひがけない逃げ場であ つたかもしれない。/そうして日本が降伏すると,私は自分をもう死んだものとして感じた。これから後 は言はば残生だと思ふことによつて,私は多くのものを捨てようとした。いきどほりもかなしみも捨てよ うとしたのであらう。力ない逃げ道であつたかもしれない。しかし私の尊敬する文学者も戦争に身心を苦 しめてずゐぶん死んだ。私の最も恩を受けた先輩も最も親しい友人達も死んだ。三十五年以上も前に肉親