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脳・神経科学を正しく理解するための哲学

第 III 部

A.1 脳・神経科学を正しく理解するための哲学

付録 A 脳・神経科学

過ぎない.同様に光や音の刺激が脳に表象されることを,簡単に脳が刺激を 認識する と述べることができ るかもしれない.しかし言うまでもなくこれもまた擬人的な表現であり,これを文字通りの意味にとってはな らない.実際,この段階では刺激の内容は意識に昇っているとは限らず,これはむしろ無意識における水面下 の機械的な処理と考えられる.また,いくら脳を伝播する生化学的な信号を追ったところで,意識に経験され る音の質感(クオリア)を説明することはではないと考えられる.精神と物体の異質さは,脳活動が意識(やそ の内容)を生み出すと考えることを不可能にするように見える(心身平行論).

A.1.2 自由意志の否定

人間の行動が脳によって支配され,決定されているならば,人間の自由意志は否定されると考えられる.何 か失態を演じたとしても,「脳細胞の膜電位の居所が悪かった」のように言い逃れできるというわけだ(これは

「虫の居所が悪かった」という言い回しのパロディーである).しかしこれは脳・神経科学の知見により自由意 志を否定(あるいは擁護)できるという意味ではない.むしろ自由意志が存在しないことは,経験科学の知見 に左右されないより根源的な事実であり,自由意志は論理の中だけで退けられるように見える.なお第III部 の第11.1節)では一貫した世界観(Spinoza描像)の下で,自由意志を否定する一通りの議論を簡潔に展開し た.そこで挙げた自由意志を否定する論拠は,脳・神経科学的な議論よりも強力と考えられる.

■理性vs感情,意識vs無意識 本稿では主に第I部の第9章において感情の理性に対する優位性や,無意識 の意識に対する優位性に言及した.繰り返しになるけれど,ここでは改めて次のことに注意を促しておこう.

すなわち自由意志が存在しない以上,

感情のみならず理性もまた自由意志によってコントロールすることはできない.

先天的・生得的な性質のみならず

後天的に獲得される性質もまた自由意志によってコントロールすることはできない.

無意識の行動,反射,不随意的な反応のみならず

意識的な行動もまた自由意志によってコントロールすることはできない.

■「頭を使う」ことはできない 脳・神経科学の知見を活かせば,人は自分の脳をより上手く使いこなせると 思われるかもしれない.しかし一般に何かを理解するということは,それを必然として受け入れるということ を含んでおり,対象を変えることとは相容れない.実際,今の場合,脳を使う「自分」とは一体,誰のことな のだろうか.「頭を使え」と言われても,頭は自然に働くものであって,脳の支配の外側にある「自分」など あり得ない.同様に「自分との戦い」「克己」「自律」「自己管理(self management)」といった表現が違和感を 抱かれることなく当然のように用いられるけれど,「自分と戦」い,「己を克服」し,「自らを律」し, 「管理」

することのできる主体は見出せない.自分で自分をコントロールするというのは甚だしい自己矛盾であり,自 由意志の概念を想起させるものである.

A.1.3 骨相学的な誤謬

脳の各部位に単純にその機能を割り当てる,所謂,骨相学的な方法のみによっては,到底,脳の仕組みを理 解することはできない[12, pp.38–40].脳の機能は複数の領域の協調的な働きによってもたらされるものだか らである.実際,脳の機能は膨大な数のニューロンの活動によって実現されることを考えれば,専門的な知識 がなくとも,事がそう単純でないことは容易に理解される.脳の機能を右脳と左脳の2元論で片付けようとす るのは,骨相学的な誤謬の典型的な例である.

A.1.4 「脳の活性化」

「脳の活性化」という表現は脳・神経科学において,神経細胞が発火することを指すのであり,「脳が元気に なる」というような日常的な意味で用いられているのではない.したがって脳の活性化は常に至るところで起 きていることになる.この点に注意すれば専門的な知識がなくとも,脳を活性化させると謳う脳トレを似非科 学として退けることは容易である.

脳・神経科学は未だ脳を理解するには到底及ばない.脳は1000億個ものニューロンからなる複雑系であり,

その特性を少なくとも要素還元論的な立場から理解するのは,Laplaceの悪魔でもない限り不可能であろう.

この点に注意すれば専門的な知識がなくとも,脳科学と称する安易な見解を似非科学として退けることは容易 である.何でも脳波で説明しようとすることも,「安易な見解」に含まれる.

A.1.5 「目的論的自然観の排除」

自然の振舞いを説明するために,自然界はある目的を満たすように働いているかのように考えられることが ある.簡単な例を挙げれば以下.

「胃は食べ物を消化するためにある」

「鳥の羽は空を飛ぶためにある」

「植物は日の光をより多く浴びるために枝葉を伸ばす」

「天敵に襲われるリスクを減らすために魚は群れを作る」

「より強い子孫を残すために生存競争が行われる」

これらは目的論に基づく説明であり,ここで仮定されている目的は目的因と呼ばれる.しかしながら自然は,

例え我々の目にそのように見えるとしても,目的を持っているとは限らず,目的を自覚しているとも限らな い.本稿では機械論的な因果律しか認めない.このとき上記の例は以下のように訂正される.

「胃の働きにより,食べ物を消化できる」

「羽の働きにより鳥は空を飛べる」

「植物は枝葉によって日の光をより多く浴びることができる」

「魚は本能的に群れを作り,結果的に個々の個体が天敵に襲われるリスクは減少する」

「生存競争はより強い子孫を残すことに寄与する」

ここでは「強い」の意味や,この主張の是非は問わない.また仮にこれが正しいとしても,

このような事実命題だけから「競争するべきだ」という当為命題を導くことはできないことを 注意しておく(Humeの法則).

このように目的論による説明は,原因と結果が逆転していることになる.

A.1.6 「認識論,科学的真理」

人間は脳の解釈から逃れられないのだとすれば,いかにして人間は脳を理解することができるのだろうか.

言い換えれば,客観的な真理は,仮にそのようなものがあるならば,いかにして主観によって捉えることがで きるのだろうか.このような疑問はもっともである.しかし私たちが現実世界をありのままに認識していない としても,科学的な探求は意味を持つ.現実世界の認識の仕方が私たちに共通していれば,理論の予言が私 たちの認識と一致するかについて合意が得られると考えられるからである(図19参照).このような考え方は

図19 KantのCopernicus的転回

KantCopernicus的転回として知られている [14, p.122].

もっとも実際には本稿では,世界は我々の外に,我々が見る通りにありのままに存在するという素朴実在論 を仮定する.我々が普段そうしているように,そしてこれまで科学がそうしてきたように.このとき科学の知 見は,それが現実世界と一致するかを確かめて真偽を判断できる可能性がある.すなわち理論から矛盾なく導 かれた予言が現実の自然現象を説明できる限り,理論も正しいと考えられる.このように現実世界と一致する 観念を真理と考える立場は,真理の対応説と呼ばれる[15, pp.47–48].もちろん科学的真理は帰納的推論の産 物であるため,蓋然的なものであり,絶対確実な知識ではあり得ない.

■演繹と帰納 演繹と帰納について述べる[16, pp.21–23,p.44].

演繹とは前提が真ならば結論も必ず真になるような推論のことである.演繹的推論を用いれば,数学に見ら れるような厳密な議論を組み立てることができる.ただし演繹的推論において, 前提が真であること自体は 保証されない.数学は演繹的推論のみから構成された体系であり,議論の出発点となる前提が現実を反映して いる保証がないため,現実について語ることができない.

一方,帰納的推論とは,実験や観察を通してすでに調べ終わった対象に関しては真であると分かったことを 前提として,一般的な結論を探り当てるものである.これを用いれば現実世界に関する何らかの結論が得られ る可能性がある.科学の知識とはまさにそのようなものである.しかしこれはある種の飛躍であるため,誤っ た結論に行き着くこともあり得る.実際これまで太陽が毎日昇ってきたからと言って,絶対に明日も太陽が 昇ってくるとは言い切れない.

以上をまとめると,数学は厳密であるが現実世界について語りえないのに対し,科学は現実世界について語 りうる代わりに絶対確実な知識とはなりえないと言えるだろう(図20参照).

なお,数列の一般項の推測などは帰納的推論であるけれど,この予想が正しいことの証明に用いられる数学 的帰納法は,その名に反して演繹的な手法である.

A.2 脳の構造

脳の主な構造を図21,図22に示す.