ミソフォニア体験記
本章は私のミソフォニア体験記であり,私が友人にミソフォニアの紹介をし,自分がミソフォニアであるこ とを伝えるために作成した動画の原稿を基にしています.第3章,第4章の小見出しでは,トリガー音を聞い た直後の反射的な反応と,その後の闘争・逃走反応を明確には区別していません[1, p.67].
1 ミソフォニア──特定の音に対する怒り
ミソフォニアは特定の音を聞くと激しい怒りや不安を覚える病気として,2000年以降に提唱されました.
ミソフォニアはギリシャ語の造語で,直訳すると「音の嫌悪」となります*5.まだ診断方法も治療法も確立さ れていません(2020年現在).ミソフォニアは音の処理に関する神経学的な異常とされています.そうである ならば原因は必ずしも,意味レベルの粗い解釈では(エピソード的なものとしては)捉え切れないかもしれま せん(第III部の第10章参照).
2 私のトリガー:咳払いの音
怒りを引き起こす音はトリガーと呼ばれています(これは的確なネーミングだと思います).どのような音 がトリガーとなるかは人それぞれですが,主に人間の発する音がトリガーとなる場合が多いようです.典型的 な例としては,咀嚼音,咳払い,ペンのカチカチというノック音,タイピングの音などが挙げられます.こう した音を不愉快に感じるというのは分からなくもありません.実際,これらの中には私にとって苦手な音もあ ります.しかしミソフォニアは,単に音が苦手なのとはレベルが違います.
例えば私の場合,咳払いの音がトリガーです.確かに昔から咳払いの音はあまり好きではありませんでした が,あるときから急にそれが我慢できないレベルのものになりました.
ここで私のトリガー音,およびその 予備軍 (準トリガー音)を以下にまとめておきます(時系列は図9参 照).幸い準トリガー音として挙げたものは,またトリガーとはなっていません.
• 第1トリガー音(最大のトリガー音): 咳払いの音(throat clearing)
– 咳払いの音は元々苦手な音でした.父親の咳払いの音は小学生の頃から,
電車の中などでの他人の咳払いの音は中学・高校生の頃から気にしていました.
しかしそれはトリガー音ではありませんでした.
大学3年の終わりごろ,最初に父親の咳払いの音がトリガー音となりました.
その約2年半後(大学院修士2年の夏,就職活動中)に,
急に近所の人の同様の音もトリガー音となりました.
– 単なる咳の音(coughing)はトリガー音ではありません.
• 第1トリガー音に似た準トリガー音:
*5ミソフォニアはµισoϕωνηα,misophoniaと書きます.µισo,misoは「嫌悪」を表します.ϕωνηα,phoniaの部分が「音」に 対応しており[1, p.13],おそらくphone(電話),earphone(イヤホン)などと語源は同じでしょう.物理学では固体の振動を量子 化して得られる仮想的な粒子をphonon(フォノン)と呼びます.
飲み物を飲んだ後の「ア゛ー」という(ため息の)音 (saying ah after a drink, breathing after a drink), 笑うときの,喉の状態を引きずったような「ア゛ー」という音
– これらの音は食事の時に聞くことになります.
• 第1トリガー音から 派生 した準トリガー音:
飲み物を飲み込むときのゴクンという音(swallowing) – 以前はこの音はまったく気になりませんでした.
しかしミソフォニアを発症してから約2年半後(大学院修士2年の春から夏頃), 飲料製品のCMに意図的に入れてあるそのような音を聞いたとき,
はっきりと「気持ち悪い」と思いました.これには自分でも驚きました.
自分が飲み物を飲むときに出るゴクンという音も苦手です.
– トリガー音を聞いているときに偶然聞いた他の音が新たなトリガー音となることがあります.
トリガー音は通常,このような仕方で増えます[1, pp.81–83]. 飲み物を飲み込む音もまた食事の時に聞くことになるので,
これはそのときに第1トリガー音から 感染 したものと見て間違いなさそうです.
– これは第1トリガー音と関係する喉の状態を連想させる音であるとも言えるかもしれません.
• 第1トリガー音とは独立な準トリガー音:
新聞や紙をめくる音(page flipping),ペンをカチッとノックする音(pen clicking), パソコンのタイピングやマウスをクリックする音(typing, mouse clicking),
文字を書くときに鉛筆が机にあたる音(pencil on paper),ドアを激しく閉める音(door slamming) – 思えば自分がこれらの音を出すときには申し訳なく感じ,
遠慮がちに音を出していたように思います(ペンをノックするときは手で覆う,
バネで戻ってきたペンのプラスチックの部品が勢いよく当たるのを手で止める,
書き物をするときは紙を何枚か重ねて下敷き代わりにするなど(大学受験当日でも)).
– ドアを激しく閉める音に悩まされていたときには,自動でゆっくりとドアを閉めてくれる装置を 無断で家のドアに取り付けました(商品名は「引き戸クローザー そろり」)*6.
この対応がもう少し遅れていたら,
ドアを閉める音もトリガーとなっていた可能性も十分に考えられます.
もっともドアの音を解決してから1年も経たないうちに,
結局は咳払いの音がトリガーとなってミソフォニアを発症してしまいました.
– 一時期,親が内職でペンを組み立てる作業をしていたときには,
パーツをはめ込む音が家中に(家の外にも)絶え間なく響いていました.
*6ここで装置はドアを引っ張るバネの役割を果たすと考えられます.一方,ドアと床との間にはもとより摩擦力が働きます.そこで 復元力と摩擦力の下での物体の運動方程式
m¨x=−kx−αx,˙ ∴x¨+ 2λx˙+ω02x= 0 を考えると(ω0≡√
k
m, λ≡2mα ),復元力に比べて摩擦力が十分強いとき(λ≥ω0)には物体の運動 x=c1e−(λ−
√ λ2−ω02)t
+c2e−(λ−
√ λ2+ω02)t
は振動的な性格を失い,つり合いの位置x= 0に漸近的に近づきます(非周期的減衰) [7, pp.92–94].これは今の場合,ドアが有 限の速度で壁に衝突することはないということを意味しています.
図9 私のトリガー音・準トリガー音
両親には申し訳ないのですが,私はこの音に我慢できませんでした.
私が耳栓を使ったのはこのときが初めてです.
以上の音のほとんどには英語を添えてあり,これらはミソフォニアに一般的なトリガー音として紹介されてい るものです[1, p.31].
3 闘争・逃走反応──闘争
トリガー音を聞くと瞬間的に怒りに捉われ,それを鎮めることができなくなります.気分は台無しになり,
しばらくは苛立ちを引きずり,何も手に付かなくなります.破壊的な衝動に駆られ,物を壊さずにはいられな くなることもあります.それで既に私の部屋では多くの物が破壊され,処分されました.怒るのに疲れてやっ と怒りが収まると,後には物を壊してしまった悲しみや,怒りをどうすることもできなかった無力感,今後も このような事態が続くのだという絶望感が残ります.
壊した物は捨てる他ないため,これは結果的に断捨離と同じ効果を持ちます.もう部屋には捨てて良いよう なものがほとんど残っていません.それで部屋が片付いたのなら少しは救われるのですが,実際には床はお茶 やボンドをぶちまけたことにより色あせ,壁は落書きや彫刻刀の跡などで傷つき,むしろ部屋は汚くなる一方 です.ついには窓ガラスにコップを投げつけ,部屋の窓を割ってしまいました.音を聞いてから窓ガラスを割 るまで1分程度,落ち着こうと葛藤していました.その間に窓に本を投げつけたり,コップの中身をカーテン にぶちまけたり,エアコンのリモコンを床に叩きつけたりもしましたが,それでも怒りが収まりそうになく,
結局コップを投げてしまいました.最初はコップが割れたと思ったのですが,良く見ると,割れたのは窓の方 でした.窓の修理には10万円かかりました.捨てる物がなくなり,壁や床の傷,窓ガラスなど,壊した物が
捨てられずに残るようなものになってからは,ミソフォニック反応の跡が目に見えやすくなりました.しかし これらは氷山の一角に過ぎません.
4 闘争・逃走反応──逃走
トリガー音を聞くと,音を出す人と同じ場にいるのが苦痛になり,逃げ出したくなります.これはその場か ら逃げるように立ち去る,焦って食事を済ませる,猛スピードで部屋に駆け込むなどの不穏な行動につながり ます.何らかの理由でその場に引き止められるような状況には苛立たずにはいられません.
ところでトリガー音を頻繁に出す人(trigger person [1, p.18])は,ある程度決まっています.このため,
次の瞬間またその人からトリガー音が来るかもしれないという警戒心から,その人を避けるようになることが 考えられます.自分が爆弾だと分かっていれば,火に近づこうとはしないでしょう.このとき,その人はトリ ガー音の音源であるというだけの理由で避けられています.その人の性格の良し悪しは必ずしも関係しないよ うに思われます.
さて,こうしたことが周りの人間との関係を悪化させるのは明らかです.それで私も,どうしようもなく怒 りを抱いては,家庭内で定期的に問題を起こすというようなことを繰り返し,それでも騙し騙しやっていくよ うな状況が続きました.今では家族と食事の時間をずらしています.
*
実に家族との食事は,トリガー音を防ぐことが最も困難な時間帯の1つです.トリガー音の直後にミソフォ ニック反応が現れていても*7,一緒に食事をしていた家族は音が問題であるということには気付きませんでし た.食事やテレビに集中していると意外と見落としてしまうもののようです.人間の意識に昇ることは限られ ていることを思えば,それも無理のないことなのかもしれません.あるいは音が問題と薄々感づいていたとし ても,人間は都合の悪いことを否認し目をそらしてしまうものなのだということも考えられます.人間は,私 も含めて,このようなバイアスを逃れることができません.
一般にトリガー音に曝されている間には,新しいトリガーが生じる危険があります[1, p.81].私もいくつか の音が新しいトリガー音となりかけていたのに気付きました.それらは確かに食事中に生じたものと考えて間 違いなさそうです(第2章参照).
5 ミソフォニアという名前がある!
思えば今から2年以上前には,はっきりとミソフォニアの症状が現れていました(恐らく2017年冬頃に発 症).ただし最初は自分が病気なのだとは思っていませんでした.ネット上でミソフォニアの説明を見つけ,
ミソフォニアという名前を知ったのは数ヶ月前のことです.それまでと検索ワードを少し変えて,「特定の音」
「怒り」としたところ,あっさりとミソフォニアの記事が見つかりました*8.見た瞬間,これは自分のことだ
*7ミソフォニアの方の大多数と同じく,私も自覚していないのですが,トリガー音を聞いてから反射的に否定的な感情が現れるまで の間に,実は筋肉の収縮のような身体的反応が起きていることが知られています[1, pp.58–59].私の場合,少なくとも苦痛と怒 りの表情が現れることは自覚しています.このとき特に顔の右半分が歪んでいるかもしれません.音を聞いた直後に動きが止まっ たり,部屋を出たりすることもあります.ただし身体反応の特定は,自身のトリガーへの反応の経験を思い出すだけではまず不可 能とされています[1, p.64].
*8ミソフォニアに関する日本語で書かれた記事がネット上に盛んに現れ始めたのは,2019年以降であるように見えます.これは私 がミソフォニアを発症した後のことです.私がミソフォニアという病名にたどり着くのに時間がかかったのは,このような事情に もよるのかもしれません.