第 III 部
B.2 欲求と情動について
情動は身体という劇場で演じられる
通常使われている情動という言葉には,感情の概念も包含されることが多い.しかし感情を研究する上で著 者ダマシオは,身体に起こる動作または動きを情動と呼び,内面的な心的事象である感情と区別している.情 動は身体という劇場で演じられ,感情は心という劇的で演じられる.そしてこの先明らかになるように,情動 とその関連反応が感情の基盤となる.この章の目的は,情動を誘発し実行する脳と身体のメカニズムについて 説明することである.
感情の前に情動がある
シェークスピアの『リチャード2世』において,「自分の顔に表れている『外面的な嘆き』は『見えざる苦 悩』の……『影』にすぎない」とリチャード2世は言っている.この台詞は情動と感情を見事に区別している けれど,あくまで感情が情動に先行し,情動の原因になるという常識に与しているように見える.実際には情 動が感情に先行する.これは生物が単純の反応からなる情動を獲得し,次いで感情を身に付けたという進化の 順序に対応している.
ホメオスタシスとは自動的な生命調節の機構であり,その階層性は多数の枝分かれを持つ大きな木のように 考えることができる(図24参照).そして一番下の枝には次のようなものがある.
• 代謝のプロセス
• 基本的な反射
– 音や接触に対する驚愕反射,熱さや明るさに対する走性・屈性など.
• 免疫系 その上には
• 通常,快(および報酬)または苦(および罰)と結びついている行動
– 接近と退避,身体部位を手でかばうこと,警戒と苦痛の表情,白血球の増大,化学信号など.
がある.ただし苦と快の行動は苦や快の〈経験〉を必要としない.実際,単純な生物では苦や快を感じること
がなく,情動は苦や快の〈経験〉を伴わずに実行されると考えられる.
注解 同様に音に対する驚愕反射も,それが起きる時点で音が意識されているとは限らない.
また闘争・逃走反応は上記の快と苦の行動に分類できると想像される.
その上のレベルには次のものがある
• 多数の動因と動機
– 空腹感,喉の渇き,好奇心,探求心,気晴らし,性欲など.
– スピノザはある特定の動因によって活性化する有機体の行動状態を〈欲求〉という言葉で表し,
そうした〈欲求〉を認識する有機体の意識的感情に〈欲望〉という言葉を用いた.
これはダマシオによる情動と感情の区別に対応している.
• 狭義の情動
– 喜び,悲しみ,恐れ,プライド,恥,共感,嫌悪など.
[広義にはホメオスタシスの下位機構も情動に含まれることを念頭に,「狭義の情動」という語が用いられてい るものと想像される.]
これらの仕組みはゲノムによって誕生したときから備わっているけれど,それがどのような状況下で作動す るかは経験と学習によって変化する.本稿ではすでに指摘したように,ホメオスタシスはスピノザの言うコナ トゥスに対応する.
ホメオスタシスと入れ子の原理
ホメオスタシスは,単純な機構のいくつかがより複雑な反応部分の構成要素として組み込まれているような
「入れ子式」となっている.言い換えれば各反応は,それより下のレベルのより単純なプロセスの部品を手直 ししたものとなっている(図24参照).
人間にとって役割を終えた情動もある
怒りは現代社会ではほとんどの場合非生産的であり,悲しみもそうだし,恐怖症は大きな障害だ.だ が,しかるべき状況において,怒りや恐れによってこれまでどれだけの命が救われてきたことか.こう した反応が進化において勝ち残ってきたのは,それらが生存を自動的に支えるからだろう.それらは今 でも支えているし,たぶん人間,動物を問わず,すべての種において毎日の存在の要である.
(中略)
例えば人種的,文化的偏見もたらすような反応は,進化的には,他者の〈違い〉を検出する ため の 社会的情動が自動的に展開されることによっている部分もあるのではないかと,私は考えている.
〈違い〉はリスクや危険を知らせ,退却や攻撃を促すからだ.その種の反応はたぶん,種族的社会では 有用な 目的 を叶かなえただろうが,もはやわれわれにとっては適切どころか,有用でもない.かく してわれわれは,われわれの脳が,大昔,きわめてことの背景で反応するようになっていた機構を今も 携えているという事実を学ぶことができる.そして,われわれはそのような反応を無視することを学 び,他人にも同じように無視するよう説くことができる.[以上,目的論的世界観に与する表現を筆者 が …… で摘発した.]
単純な有機体が示す情動反応
ゾウリムシやハエ,アメフラシには反射的・自動的な情動が見られるけれど,おそらく彼らは情動を「感じ ている」わけではない.それらは意識的な思考を必要としない反応である.
なお基本的な反射に限らない情動一般について著者ダマシオは次のように述べている.本稿のミソフォニア に関する議論にも関係するので,引用しておこう.
これらの反応を反射と呼ぶのは正しくないだろう.なぜなら古典的な反射は単純な反応であるのに対 して,これらの反応は複雑な反応のパッケージであるからだ.要素の複雑さと要素間の機能調整の度合 いからして,情動関連反応は反射とはちがう.それは,いくつものかなり精巧な反応を内に有する,す べてがよく調整された一連の反射的反応,と言う方がよいだろう.
[もっともこれは言葉の定義の問題にすぎない.]
「狭義の情動」とは何か
必ずしも満足のいくものではないけれど,当面は伝統に従って狭義の情動を以下の3つの階層に分類する.
• 背景的情動
背景的情動は人の行動において特に顕著ではなく,四肢や身体全体の動きの状態,
顔の表情に表れる熱意やわずかな不快や興奮,いらいらや落ち着きのようなものである.
それはより単純な調節反応の合成的表出であり,刻々と立ち現れ交差する.
• 1次の情動
1次の情動は伝統的に,恐れ,怒り,嫌悪,驚き,悲しみ,喜びによって定義付けられる.
• 社会的情動
社会的情動には共感,当惑,恥,罪悪感,プライド,嫉妬,羨望,感謝,賞賛,憤り,軽蔑などがある.
1連の調節反応とそれらの組み込まれた1次の情動が,社会的情動の下部要素となっている.
社会的情動は原初的な動物にも備わったものであり,人間に固有のものではなく教育の産物でもない.
それが機能するスイッチとして適切な経験が必要な場合もあるけれど,
それらは特定の動物種のゲノムの産物であり,主として生得的で自動的な生命調節装置の1部である.
人間は情動を抑制することができる 人間は
• 情動的反応が神経系(脳)にマップされるため,最終的にそれを感情として認識できる.
• 情動を引き起こす対象との相互作用を抑制することで,
情動を意図的に抑制できる場合がある(常にではないが). 注解 第2の点はうがった見方をすれば,
人間が本能のみに従って生きる存在であるかのような印象への反発に対する目配せのようにも思える.
いずれにせよ情動を抑制できるとすれば,それは直接的にではなく,どのような対象や状況に注意を向 けるかを選ぶことで間接的に可能であるとされていることは面白い.
生活経験と脳の情動装置
情動が生じるために原因的対象を,いわんやその対象があらわれる状況を意識的に評価する〈必要〉必要は ない.たとえ情動反応が,情動を誘発しうる刺激の意識的認識なしに生じても,その情動には,そのときの状 況に対する有機体の評価結果があらわれている.
情動には個人的経験を通して情動を誘発する対象と結び付けられるようになるものもあり,それで例えば特 定の家を不快に感じるような〈条件付け〉が行われたりする.
またある対象の記憶はその対象と同様の情動を誘発し得る.スピノザは『エチカ』第3部定理28において この事実を見事に言い当てている.
人間は,現在のものごとのイメージによる場合と同程度に,
過去または未来のものごとのイメージによって,快く,あるいは痛ましく,影響を受ける.
情動を誘発する鍵と錠前
情動を生じる脳・神経の基本的な機構について以下にまとめる(本編の図1および付録A.2を併せて参 照) [3, pp.88-93].
• 情動を誘発しうる刺激(鍵) 例:視覚皮質
↓
• 情動誘発部位(錠前)
例:扁桃体,前頭前・腹側内側部*17の一部,補足運動野と帯状回におけるもう一つ別の前頭領域など – 扁桃体 → 恐れと怒りの誘発(刺激が意識されていなくても,扁桃体は反応)
– 前頭前・腹側内側部 → 社会的情動 ↓活性化
• 情動実行部位(情動の直接的原因) 例:前脳基底,視床下部,脳幹核
■ミソフォニアの文脈に適用した議論 以上をトリガー音に対する情動に関して言えば次のようになるだろ う.まずトリガー音は聴覚領域などに表象される*18.すると扁桃体をはじめとする情動誘発部位がその信号 を利用し,身体に情動を生じる直接的原因となる情動実行部位を活性化する.
電流刺激が引き起こす悲しみ
パーキンソン病は正常に動く能力を危うくする神経疾患であり,1つの有望な治療法は患者の脳幹に小さな 電極を植え込むものである*19.あるチームがこの方法でパーキンソン病の女性を治療していた際,情動と感 情の関係を示唆する興味深い出来事が起きた.すなわち電極のある接触部位に電流が流れると,患者は会話を
*17これはミソフォニアの文献[1, p.37]で言及されているvmPFCと考えられる.
*18これは脳が音を 認識する と言い換えられるかもしれない.しかし言うまでもなくこれは擬人的な表現であり,文字通りの意味 にとってはならない.実際,この段階では音は意識に昇っているとは限らず,これはむしろ水面下の無意識における機械的な処理 と考えられる.
*19おそらくパーキンソン病の最も重要な症状は,動き始めることが困難となる無動症である.