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【出典】 『朝日百科 日本の歴史1 ig89、p.1⑪7.
資料⑪
「抜歯の系列」ヒ ・
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原始・古代』朝日新聞社、
【出典】小野昭・春成秀爾聯隊 『図解・日本の人骨遺跡』
東京大学出版会、1gg2.
2.小単元「茶にみる文化変容」の授業モデル
(D教材解釈
現在、日本の伝統文化と呼ばれる茶道、香道、華道は、中世に成立した。従 来、それらのものは、ひとにぎりの支配者階級にだけ享受されたものとして取 り扱われてきた。しかし、いずれも広範な階層的基盤をもっており、むしろ自 由奔放な庶民の中から芸能へと成立する共通の傾向をもっていることが注目さ れる。なぜ、中世に現在まで続く個性的な文化が生み出されてきたのか、その 社会構造、時代背景はどのようなものであるかを、茶の変容の過程をみながら、
その中にある理論を通してみていぎだい。
そこで、単元「茶にみる文化変容一非日常性としての茶一」を設定した。以 下は、単元を構成する内容(茶の変容の過程の要因)に基づき、要点を述べて
いく。
①中世における新しい価値体系
中世の新しい価値体系を生み出したものの一つは、禅宗である。中世のわが 国は、中国の影響を強く受けていた。中世の支配者階級は、武士であったが、
日本化された禅の思想『禅文化』を以て、新たな武家政権の権威づけの思想的 背景とし、朝廷公家が伝統としていた真言・天台・浄土の仏教文化に対抗した。
宋で主流となっている仏教が輸入されたということは、新しく成立した鎌倉幕 府の指導者の関心を引き、三二の総合的な中国の思想・文化の輸入とあいまっ て、禅宗を鎌倉幕府の権威を飾る宗派として保護することになった。武士階級 の禅宗受容の理由を、禅宗のもつ自力本願的な要素が武士階級の精神規範に合 致することが指摘されるが、それよりは、外来性の強い禅宗が、新しい価値体 系として受容されたのである。幕府の保護を受けた禅宗は、わが国において禅 宗文化なるものを成立させるのである。しかし、禅宗文化は、一部の階層の宗 教精神の深化に役立つものであったから、禅宗文化の流行は、むしろ皮肉にも、
宗教文化から世俗文化への転換を実現する第一歩となった。禅宗の影響は、民
衆の生活文化のすべての分野に及び、工芸・美術などに唐物趣味、倫理から日 常の習俗にまで中国崇拝がもちこまれた。
中世の特徴とされる下剋上の現象は、政治の世界に限定されることなく、文 化の面においても展開していく。下剋上とは、旧体制から、激しく転換する社 会の現実を指していう言葉であるが、ただ公家に対する武家の在り方や姿勢に、
下剋上だと嘆くだけではなく、もっと広く、支配層に対して、武士や農民がっ きあげをする、あるいは自らの立場を強める、解放する、そうした動きを示す ことが下剋上だとされていた。例えば、貴族社会から民衆社会に下降した連歌、
民衆社会から貴族社会に上昇した猿楽に代表されるように、身分階層のあいだ に上下交流が生じ、両者が文化を共有するようになったのである。つまり、中 世は民衆の力の向上によって、支配者側からの文化と民衆側から発達してきた 文化が融合し合う素地を十分に創りだしていたのである。その顕著な例を示す のが、 『建武年間記』に伝える「二条河原落書」である。その中に「京鎌倉ヲ コキマゼテ、一座ソロバヌエセ連歌、在々所々ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ゾナ キ、譜第非成ノ差別ナク、自由狼籍世界也」とうたわれている。林屋辰三郎氏 の解釈によれば、 「さきの歌合の方式は、この在々所々のなかにも伝わっていっ たのである。その間の顕著な相違は、王朝の歌合の場合の判者二点者が、多く の場合、天皇、皇族や斯道の権威であったのに対して、『点者ニナラヌ人ゾナ キ』といわれるように、会衆だれでもが点者となって、相互批判を展開してい たことであろう。」n
②寄合の文化にみえる中世
中世の文化を称して「寄合の文化」 「座の文化」ともいわれ、寄合性・二三 性は、この時期の諸芸能の性格を大きく規定しているのである。寄合の基礎と なる連帯感は、生産面での協業のほかに、また祭祀や信仰の面でも共同で行な われることが多くなり強められることになるのである。このことは、郷村の連 帯性を高め、民衆の団結の機会となった。『建武式目』で茶寄合や連歌会が世 の風紀を乱すという理由で禁制の対象となったというよりは、身分階層を越え た相互の横の連帯が強化されることをおそれてのことであった。寄合自体が新
らしく大きな意味を帯びてきていたのである。
中世における身分階層に関係ない交流は、さまざまな寄合を成立させた。茶 寄合、連歌会、立華の寄合などは、その代表的なものである。なぜ、中世に寄 合性が生まれてくるのか。中世は、荘園領主の支配が弱まる時期であり、それ によって農民たちは生活基盤を守るために、地縁的結合を強め団結していった。
「農民たちは鎮守の宮座に出仕し、そこで神水をくみ交わして一味同心し、団 結心を高めた。」,)カをつけてきた農民や商・手工業者は、従来の社会構造の 束縛から解放され、自由になるために団結と連帯を必要とし、新しい生活組織 をつくりあげていった。生産力の増大にともなう庶民生活の向上が、それを直 接支配する武士の文化も、貴族文化と対峙するまで成長し、両者が結合して新
しい文化が生まれるのが、中世である。
中世を表すことばの一つに「バサラ」があげられる。『建武式目』の中に、
次のように述べられている。
近日、二佐羅と号し、専ら過差を好む。綾羅・錦繍、精好・銀剣、風流・
服飾、目を驚かさざるはなし、すこぶる物狂と謂うべきか。富者はいよいよ これを誇り、貧者は及ばざるを恥ず。俗の凋幣これより甚だしきはなし。も つとも厳制あるべきか。
守屋毅氏によれば、 「『バサラ』とは、南北朝動乱期の大名たちの行動を形 容して、当時、しきりにもてはやされた表現である。もともと仏教の用語でサ
ンスクリットのVajraを語源とするという。漢訳して金剛、つまりダイヤ
モンドが原義であった。金剛石がすべてを打ち砕くところがら、転じて舞楽の 調子はずれをいい、さらに転じて遠慮容赦なく驕慢・急増にふるまうことの意 となったと説明される。」3)つまり、伝統的な身分秩序、文化的秩序を拒否し て、そこから新しい価値体系を生み出し、自分の力を自由に誇示しようとする 武士階級の台頭を如実にあらわしている。また、家永三郎氏によれば、 「武士 は在地の豪農である名主層の中から出てきた新興勢力であって、武士の勃興と はとりもなおさず農民大衆の間でつちかわれた下からの勢力が、弥生時代以来 ほぼ連続的に支配権力をにぎりつづけてきた古代国家の支配階級に取ってかわ ろう.とする、革命的な変革の進行を意味するものにほかならなかった。」、〕ののである。
中世に登場してくる「町衆」も、農民と同様に地縁的結合を強化していった。
都市において自治的団結を行い、町の自主的運営をするまでに成長していく。
中世においては、政治的・経済的に幕府の基盤が弱体であることを背景に地域 的発展が進み、京都をはじめとする都市の発達が目覚ましかった。特に京都に ついては、 「領主の集住によって、貢納物の商品化を中心とする求心的流通の 核として、全領主階級の再生産補完の機能をもつ都市として存在した。」5)い かに、「町衆」が経済的に力をもってきたかについては、中世の座の発生をみ ればわかる。財政難の打開のため、商工業に目をつけて、課税することが行な われる。それに対抗する手段として、座が作られ、領主権力に対抗するだけの 力を示したのである。その経済力を背景として、 「没落公家衆をも吸収して、
新たに、きわめて有機的な地域的集団生活を形成するようになった。」6〕そこ から、先述した文化の下剋上がおこり、文化の相互交流がすすみ、寄合の文化 が成立してくるのである。
③中世に芸能として成立した茶
永原慶二氏は、次のように述べている。 「連歌にせよ、茶・花・香にせよ、
あるいは唐物荘厳とよぶ室礼にせよ、みな会所という人びとの集会場所を舞台 として発展した芸の道であった。それらの共通の性格は、法楽というような宗 教的契機をまだ完全に払拭していないにしても、大体としては、神事仏事から 分離した生活文化であったところに特徴がある。」η中世に芸能として成立し、
現在では日本の伝統文化と呼ばれる茶・花・香道は、会所の構造の中から生ま れた文化といえる。
会所とは接客空間の場を示すが、中世文化を寄合の文化と総称することから も、入びとが集い、そこで非日常的な世界が演出されることを意識したもので あった。具体的には、押板、付書院、違棚などの多様な飾り棚が設けられ、さ らにその室内には、畳が敷きつめられた。座の文化が生まれてくるのである。
寄合の場に人が集い、狭い空間の中で、非日常的な行為が展開される。このこ とから、林屋氏は、 「寄合いの芸能として連歌や茶や香をとらえ、一座の構成