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緊密化しても同盟化しない対米関係

ドキュメント内 現代インド外交の研究 (ページ 34-52)

独立後約 70年間のインド外交は、自国外交の中で米国をどのように位置付けるか、

の結果、どのような対来関係を構築するかめぐる試行錯誤の膝史だった。インド外交 とは対米関孫史だったと表現しても過首ではなし、かもしれない。

冷戦期のインド外交は非同盟、引き続いて印ソ同盟を基調とした。高政策の結果、印 米関係は概ね低調であり、相互に相手国の対外政策に否定的な評価を与えていた。 1990 年代初頭までの印米関係を検討した米国研究者のデ、ニス・クックスは、両国関係を f疎

なJ (estranged)関孫と特色付けた ([Kux1993J)。

印米関係は、冷戦が終結した 1990年代初め頃から徐々に変貌し、 1998年の核実験で 落ち込んだものの、 2000年代(2∞む年…09年)に入ってからは、かつては想像すらでき なかった程の緊密化が進んだ。相瓦の誘閣は、経済(市場、資本、技術〉と台頭する中冨 への対応であった。

しかし、 2010年代に入ってからの両国関係は、これ以上には好転も悪化しもしない、

一種の高原状態に陥っている。その主器は相互認識のギャップ、平たく言えば、双方と もに両国関孫の深まりで期持していた果実がなかなか実らない点に加え、米関が唯一の 超大畠の鹿から滑り落ちつつある状況も影響しているように見える。もちろん、両留は お互いに不可欠な相手患であり、冷戦期のように不イ誘惑を抱きつつ、相手国に対応する という時代には逆戻りすることは考えにくい。それで、も印米は新しい二悶間関係の講築

しているように見える。

第1節疎遠な関係から冷戦後に緊密な関保へ 1.非開盟と米国

非同盟政策を掲げた 1950 年代~1960 年代のインドは、冷戦がインドを含む前植民地

と世界の貧陣地域の経済開発にマイナスの効果しかもたらさないとして、間断なく批判 し続けた。インドの冷戦批判が純粋に中立的な米ソ批判であれば、対米関係の損なわれ 方も変わっていただろう口しかし、インドはソ連を基本的に友好国であり、撞民地合保 有した過去のない留と見なしていた。独立インドの初代首相となったネルーは、自叙伝 の中でソビエト・ロシアへの支持とマルクス主義への信奉を強調している [Nehru 1962 : 360369J。

その結果、インド外交は親ソ反米的な色調を帯びがちであり、ソ連による共産主義の 拡大を封じ込めるとし寸米閣の戦略とは相容れ難かった。事実、 1960年と 1961年の国 連における投票行動を見ると、非同盟諸国がソ連と一致する場合が多く、インドネシア 53.70/0、セイロン〈現スリランカ)41. 80/0、インド 41.2%であり、インドが米国と一致

したケースは 10%に留まった(Brecher [1963 : 188J )むそのため、

24 

に不快感を募らせ、例えば、ダレス国務長官 (1953 年 ~1959 年)は、冷戦におけるイン

ドの「中立j を不道徳だと非難した(コーエン[2005: 409 J 。)

しかし、米国がインドを敵視していたわけではなく、むしろ、民主国イン

義は、時代的な濃淡はあれ、印米を繋ぎとめるキーワードーを盛り立てようとした。当 時の米国は、アジアにおける最も重要な争いとは共産中国と民主国インドとの争いであ

ると借じていた。ウォルト・口ストウ (1966 年 ~1969 年の国家安全課揮問題担当大統領

特別諦住官)は、共産主義者の侵攻がアジアで成功すれば、すべてのドミノの中で最も なインドも最終的に共産化するだろうという fドミノ理論jによってベトナムに対 する米国の介入を正当化した。米国が東高アジアに介入する最大の理由は、インドの共 産化関止であることをロストウから教えられたインドの外交官が仰天したというエピ

ソードも伝えられている〈コーエン [2005: 4J)。

こで、米国は 1950年代後半以降、対印援拐をおこない、 1962年 10月に起きた印 中国境紛争でインドが劣勢に立たされると、翌月には即米軍事援助協定を締結して、イ ンドを支援し、印米関係は急速に改善された。当時の米国は、冷戦期では対印関採改善 に最も熱心だったケネディ政権下にあり、もし、ケネディが盟年暗殺されなければ、そ の後の印米関係やインドの非同盟敦策も大きく変わっていた可能性もあろう。

しかし、 1966年になると、印米関係は急速に悪化した。インドが民族解放を支持す る立場から米国のベトナム戦争拡大を批判したからである (Bran [1990:115‑122J)。 間年、米国は、食料援助などの対印援助をうち切り、年間 15億米ドルの援助という非公 式の約束を反故にした。当時のインドは、 1964年のネノレ一死虫、豊年の第 2次印パ(イ

ンド・パキスタン)戦争や早魅などの影響によって、独立以来最大の政治経済危機 舞われていた。

米国による反故はインドに対米不信を払拭し難い措置としてインド人の記構に刻み 込んだし(絵所 [1992J)、インドのナショナリズムを刺激して、自主独立外交を展開す べきであるとの国内世論を一挙に高めた。その後、約半世紀の印米関係史に熊らしみれ ば、インド人に皮米感靖を刷り込んだ最初の大きな出来事だ、つ

2.印ソ同盟と米国

インドの非関盟政策は 1950年代には概ね有効に作動していたものの、目前年代に入 って徐々に綻びを見せ始めていた。しかも、 1970年代に入ってからの間際関係では、

1971年 7月のキッシンジャー訪中以降、米中和解が進み、米中対ソという対立構図が 出現していた。この新たな対立軸に対話するため、インドは対ソ同盟を選択した。対ソ を様幹に置く、冷戦期におけるインド外交の第2の矢である。インド、米国、中間、

ソ連の 4カ閣の相互関係は、 1970年代の初期にその後の原形ができあがったと考える こともできる。

[米中パ対印ソの対立構図]

印ソ同盟は米中和解だけに起因しているわけで、はない。中国とパキスタンの要因もあ った。両国は

1 9 6 0

年代以降、密接な関係を構築しつつあったし、米国・パキスタン(米 ノミ)関係も概ね順調だった。その結果、従来まで、個別にパキスタンを支援してきた米中 の和解は米中パ枢軸の成立を意味し、インドから見れば、米中パキスタンの包囲網が自 国の周りに敷かれたと映ったのである。

米中パ枢軸に加え、インド外交にとって重大な懸念材料はニクソン政権

( 1 9 6 9

1 9 7 4

年)が進めた米国のパキスタン傾斜政策(堀本

[ 2 0 0 0 J

)であった。この政策は、印 パを平等扱いするスタンスを装いながら、実際にはインドよりもパキスタンに傾斜して これを優遇するという政策指向を持っていた280

1 9 7 0

年代初期から鮮明になった傾斜政 策は、米国が対立する印パ両国のうち、国力的に劣勢なパキスタンに肩入れをして、印 パの均衡を図り、自ら南アジアのバランサー機能を果たそうとするものだった。米国は、

バランサ一政策を通して、南アジアの覇権国・インドの台頭を抑制しようとしたのであ る。

インドが長年にわたって米国の冷戦政策に批判的だったのは、パキスタン傾斜政策に あった点も見逃せない。傾斜政策がインドには受け容れがたかった根因は、米国による パキスタンへの軍事援助が対共産主義のためとされながらも、実際には、インドに対す る軍事目的に転用され、印パ和解の最大懸案で、あるカシュミール問題を交渉ではなく軍 事的解決にパキスタンを仕向けた点にあった。インドは、

1 9 5 0

年代から今日に至るま で、米国の対パ軍事援助が転用されていると批判し続けた。

インドにしてみれば、米国の対パ軍事援助とはパキスタン軍の支援でもあり、建国後 のパキスタンが軍政下(浜口

[ 2 0 0 2:  2 4 5 ‑ 2 6 5 J  

)に置かれた基因になっているというこ とになる。民主主義を標携しながら、目的のためには手段を選ばない米国の二重基準(ダ ブル・スタンダード)としてインドが対米批判を展開する根拠ともなった。

インドが批判したもう 1つの二重基準が米国の対中政策で、あった。米国は、当初、共 産中国の脅威をインドに熱心に説き、対印核協力を進め、

1 9 6 0

年代初期には中国の核 実 験 を 予 測 し て 、 イ ン ド に 核 能 力 を 提 供 す る こ と す ら 検 討 し て い た

( P e r k o v i c h

[ 1 9 9 9 : C h a p t e r  1 J  

)。しかし、米国は、

1 9 7 1

年、突然、中国との関係正常化を発表し た。米国は、ベトナム戦争を終結させ、ソ連に対するバランサーとして中国カードを切 ったので、ある。米国は、二重基準をこともあろうに民主主義の脅威である筈の共産主義 独裁国にも適用したので、あった。米中和解がもたらした「ニクソン・ショック」は日本 だけでなく、インドでも大きかった。

28溝口

[ 2 0 1 2 J

によれば、米国のパキスタン傾斜政策は、インド、のパキスタン侵略によると の見方を取っているが、印ソと米ノミの各関係緊密化はもっと以前からの流れであり、ニク

ソン政権が中国との関係構築を意図していた以上、当然の政策的帰結で、あったと考えられ る。

2 6  

[印ソ友好協力条約の成立]

そこで、インドは、ソ連との連携を図った。

1 9 7 1

8

月の「印ソ友好協力条約」の 成立である。印ソ条約は、ソ連提案

( 1 9 6 9

年)に対して当時のインディラ・ガンディ一 首相が乗り気で、はなかったために庖晒しにされていたが新しい状況をうけて急きょ締 結された

( M a l h o t r a [ 1 9 9 1 : 1 3 5 J )

。印ソ条約については、インド国内でも非同盟政策

と決別した(

[ S i n g h   [ 1 9 8 8 :   1 7 7 ‑ 1 7 8 J J

と見なされた。

しかし、インド政府は、非同盟の看板を降ろそうとはしなかった。外交上の継続性と 有用性に加え、自主独立外交(与非同盟外交)への国民的な希求をとうてい無視しえなか ったからである。

1 9 7 0

年代から

1 9 8 0

年代のインド外交は、非同盟をファサード(看板)

とし、印ソ同盟を実態とする外交で、あった。インドがソ連との関係を強化したのは、潜 在的な友好固というソ連観を基底に、米中パ枢軸への対抗に加え、当時必至な情勢にあ ったパキスタン(第3次印ノミ戦争)との戦争に備える目的があった。

印ソ条約には、インドの圏内対策という狙いもあった点も見逃せない。

1 9 6 6

年に首 相となったインディラ・ガンディーは、会議派内の実力者を守旧派と批判し、党を割っ

て新たな会議派を結成していた。当時のインドでは、「ナクサライトJ(武装革命至上主 義者)と呼ばれた左翼過激派の運動がインド東部などを中心に受け入れられつつあった (中溝

[ 2 0 0 9:  3 5 5 ‑ 4 0 1 J  

)。政治的に活性化した貧困層を引き付けるには、進歩的なイ メージの創出が不可欠だ、った。そこで、ガンディーは、

1 9 7 1

3

月の総選挙で社会主 義的な「貧乏追放」のスローガンを掲げて圧勝した。社会主義国ソ連との同盟関係は、

ガンディーにとって自己の進歩的イメージをさらに増幅する有効な方法だ、ったのであ る。一方、ソ連にとってもインドとの関係強化は、同国に対する西側の影響力削減や中 国 封 じ 込 め な ど の 観 点 な ど か ら 、 そ の ア ジ ア 政 策 に 適 う も の で あ っ た

( H o r n

( 1 9 8 7 : 2 1 0 J  

。)

インドは米中パの動きをソ連との関係で牽制しつつ、バングラテ、シュ独立戦争の別称 を持つ

1 9 7 1

1 2

月の第

3

次印パ戦争で、勝利を収めた。インドは、東西両翼で構成され たパキスタンのうち、西パキスタンからの分離独立を目指す東ノミキスタンを軍事的に支 援し、バングラデ、ンュを建国させることに成功した。

この戦争では、インドの嫌米観を確定的にした出来事、すなわち、エンタープライズ 号事件があった。戦争末期、戦線が西パキスタンにまでに拡大しそうな気配を見せると、

米国は航空母艦エンタープライズ号をベンガル湾に出動させるなどの圧力をインドに かけて拡大を阻止した。砲艦外交である。これ以降、今日に至るまで、インド国内では 米国の対印敵視を象徴する典型例としてこの事件が頻繁に引用されるようになる。

さらに、

1 9 7 4

年に実施されたインドの核実験は、米国が主導した核拡散防止体制‑

1 9 7 0

年に成立した核拡散防止条約などーに対するむき出しの挑戦となった。インドは

「平和的核爆発Jであるとしてその軍事性を否定した。しかし、根因は中国が

1 9 6 4

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