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第一節 結論

本論文では、ハイエクとフリードマンの新自由主義理論とその教育への適用を検証する ことによって分析の視点を設定し、その視点に基づいて日本の教育政策において新自由主 義を採用する端緒となった臨教審~安倍内閣までの改革施策の分析を行った。そして新自 由主義政策として代表的なものである学校選択制と新自由主義原理の相関性を分析するこ とによって、いくつかのことが明らかになった。そのなかでも重要なこととして、経済格 差など新自由主義が生じさせる社会の不安定さに対する回答として新保守主義が台頭して きたこと、また、新自由主義はその理論とは裏腹に市場原理を貫徹するために強力な国家 介入を伴い、意思決定の集権化を進めざるを得ないということであった。それは、市場原 理を政府の「官製市場」である教育分野に適用することによって、最終的には政府の介入 を完全に消しさることを目的としていたハイエクとフリードマンの理論とは異なる結果と なった。これはまさにハーヴェイ(2007)が指摘するように、新自由主義の実践と理論の 緊張関係では実践が優位し、新自由主義の実践のためにはその理論は容赦なくねじ曲げら れるということを表すものである。

では、その理論を捻じ曲げたものはなんだったのであろうか。それは、新自由主義国家 が階級権力の復興あるいは創設というねらいを持っていたからである。この点に関して、

中谷(2007)は、マーケット・メカニズムという仕組みは、多くの場合エリートにとって 有利な仕組みであると指摘している。なぜなら、一般的にエリートのほうが情報を多く持 っているからであり、現実の市場ではより多くの情報をもったほうが取引を有利に遂行で きるからである。こうして、ハイエクとフリードマンの新自由主義理論は、経済エリート にとって自分たちの行動を正当化してくれる最適なツールとなったのである。ハイエクは その理論の中で個人を「弱い個人」と定義し、理性や知識に限界のある人間が社会を計画・

設計することによって、個人の自由は奪われていく、ゆえに、市場以外に任せられるもの はないと主張している。しかし、本論文第二章第四項で指摘したように、ほとんどの人々 は過去あるいは周囲の人々の行動とその結果から類推して適応的に行動していることが多 いように思われる。例えば、実際の市場でいちいち自分で判断することをやめた個人投資 家たち、もしくは当初から何も考えず、学習もしないまま市場に参入した人々が頼るのは 投資のプロであろう。格付け会社の発表や、証券アナリストが重視されたり、投資信託が 売れたりするのは、複雑化した市場で人々が深く考えることを放棄して、企業やそこで雇 用されている専門家に依存した結果であると言うことができる。つまり、ハイエクの想起 した「弱い個人」は実際には「さらに弱い個人」であり、現代社会においてはそうした「さ らに弱い個人」とは対照的に、多くの情報を所有しているだけではなく、必要とあらばそ の情報をコントロールできるほどの力を持った経済界・企業が存在しているのである。そ

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してハーヴェイ(2007)によれば、そのような力をもった経済界が政策立案過程にまで深 くかかわっているのである。

確かに、ハイエクとフリードマンは、淘汰されることや倒産などの悪い結果も甘受しな ければならないと述べていたが、そこではそのような競争を勝ち残って強大な利益と権力 を得る人々が出現することによって独占状態となり、結果的に自由な経済ではなくなると いうことを見落としている。また、それらがなんらかの形で政府の意思決定過程に合流す ることによって、政府がこれまで以上に力を増すということも見落としている。教育の分 野では、教育改革国民会議以降、新自由主義教育改革は趣を異にし、「グローバル・エコノ ミーのもとにおける大競争に日本が打ち勝つことのできる人材養成」という主張を骨子と して、国家の設定したスタンダードに基づく評価(学力テスト)、学校をめぐる競争的環境 の形成(学テ結果の公表と学校選択)、学校という組織の階層化など、強い国家統制をとも なうものへと変化してきた。ここでは、企業が求める人材を育成するという目的のもと、

政府の強大な介入が正当化されるという現象が起きているのである。その現実は、ハイエ クとフリードマンの理論の欠落を表すものとなっている。

以上のことから、本論文で設定した課題に対する答えとしては次のようになる。

ハイエクとフリードマンの理想と新自由主義教育改革政策の実態は異なっている。つま り、ハイエクとフリードマンには教育においても市場の原理は貫徹するという想定があっ たが、実際の「市場化された教育」においては政府の果たす役割が増大するため、両者の 想定自体に欠落がある。また当該市場においては、強者たる経済エリートがその既得権益 を拡大再生産することになり、弱者に対しては彼らが想定する「機会の平等」も、実質的 には提供されない。そのため彼らの論理はそもそも現実社会では貫徹しえないし、貫徹し たとしても、彼らの想定する結果は生じない。

両者が理想としていたのは競争原理を有効に働かせる上で障害となる政府の過度の介入 をいかに防ぐかということであった。そして市場の機能を円滑に働かせることにより、官 製市場になっていた公的部門を民間市場に開放することにより、その質的向上を図るもの であった。しかし、日本の新自由主義教育政策である学校選択制との相関性を分析した結 果、ハイエクとフリードマンが期待したような市場原理導入の効果は現れないだけではな く、むしろ政府の介入が強まるような傾向が見られた。このことから、ハイエクとフリー ドマンの理想と「新自由主義」教育改革政策の実態は異なっていると結論づけることがで きる。また、両者の理論には市場による競争によって莫大な富と権力を持った企業がどの ように行動するかという想定が欠落していると言える。その欠落は、一部の経済エリート と政府が合流することによって経済界の要望を下請け機関である政府が実現するという構 造を生み出す結果となった。教育に関しても、経済団体の意向を受けた政府が企業の求め る人材を義務教育制度を使って育成するという構図が臨教審以降見られた。それは中谷

(2007)の指摘にもあったように、新自由主義理論は経済エリートにとって自分たちの行 動を正当化してくれる格好のツールとなったのである。藤田(2005)はこのことを「〈強者

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の論理〉による教育再編・社会再編」(15頁)と呼んでいる。ゆえに、ハイエクとフリード マンもその想定に欠落があるため、彼らの論理を貫徹したとしても、彼らの想定する結果 は生じないと結論づけることができるだろう。それは、ハーヴェイ(2007)が新自由主義 の実践が理論を捻じ曲げてしまうと指摘したことを端的に表すものとなっている。

第二節 今後の展望

臨教審以来続いてきた「教育の自由化」路線は、学校選択制、習熟度別指導、学力テス ト結果の公表などの導入によって学校間、児童生徒間の学力をめぐる過度な競争によって、

結果的に地域内・地域間における学力の格差が拡大・固定化されるという事態を生みだし てきた。そもそも、義務教育の段階から学力や数字という単一の評価基準で学校や児童・

生徒を評価することは、多様な能力や可能性を持った多くの子どもたちの将来の芽を摘む ことになりかねない。したがって、教育格差を過度に助長する市場原理主義的な教育政策 は見直すことが必要だと考える。それらを見直す契機が政権交代によって訪れたといって よいだろう。そして、実際に教育政策の方針転換が行われてきている。例えば、教員免許 更新制の廃止や全国一斉学力テストを従来の悉皆調査から抽出調査に変更するなどといっ た変化がみられる。また、新政権になって一番国民の関心をひいたのが「子ども手当て」

であろう。

民主党は現在、国会で支給するための法案を成立させ、4月1日の施行を目指している が、所得制限を見送る方針を決めており、賛否の分かれるものとなっている。現行の児童 手当は小学生までの子ども1人当たり月額5000円(3歳未満と第3子以降は1万円)を支 給するが、所得制限で約1割の高所得世帯が対象から除外されている。この「子ども手当 て」は厚生労働省管轄なので厳密には教育改革とは異なり、今後どのように影響してくる のかは現段階ではわからないが、経済格差是正のための取り組みということは評価できる だろう。しかし、政権交代によって民主党に変わったから教育が良くなるであろうと楽観 視してはいけない。なぜなら、政策決定の場には教育に関しての高度な専門知識を有する 研究者、専門家が不在だからである。したがって、今後の教育改革がどのような事態を生 むのかは引き続き注意が必要である。

一方、我が国の教育に対する公財政支出の対GDP比は、OECD諸国の平均が4.9%である のに対し3.3%と極めて低く、教育への投資が少ない国の一つである。現在の日本のGDPが 約500兆円なので、教育への投資は約16.5兆円となっている。仮に、これをOECD諸国の平 均水準まで上げるとすれば、教育への投資額は24.5兆円となり、新たに8兆円が上乗せされ ることになる。これだけの予算があれば、義務教育の完全無償化、教職員の増員などが可 能になるだろう。本来、義務教育はすべての人に対して等しく豊かに保障されるべきもの である。しかし、新自由主義的政策の導入や、昨今の景気低迷で就学援助受給者が増加し ている中、これら義務教育に係る費用は家庭にとって大きな負担となっており、地域格差

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