第一節 FRB の金融政策の自由度を奪うもの
米国の対中外交上の大きな矛盾、即ち人民元切り上げ圧力が米国経済の繁栄の源泉 を阻害する政策となるという点に、中期的なリスクが存在する。それが日本経済ひい ては世界経済の大きなリスクにもなる。米国が人民元の水準や中国の為替制度を問題 にする理由は、貿易赤字拡大とその背景にある国内の雇用が中国からの輸入品に奪わ れているという認識からであろう。しかし、現実は必ずしもそうではない。確かに、
繊維業の一部などにはその傾向はあるが、マクロ全体では、輸入と国内雇用との間に 明確な関係は見られない。輸入浸透度の上昇と雇用の変化を業種別に日米でプロット してみると(図表32)、日本には輸入浸透度の上昇と雇用の減少に明らかな相関関係 があるのに対し、米国ではその関係は見受けられない。更に、両国ともに、製造業全 体の就業者数が大幅に減少する中で、日本では完全失業率の上昇に示されるように、
マクロ全体でも雇用が減少している。しかし、米国では非製造業での雇用が増加して いるため、マクロ全体でみた雇用も増加している。ここにも大きな違いがある。
輸入浸透度の上昇が雇用の削減をもたらしていないとすれば、少なくとも、輸入の 増大が国内需要の減少をもたらしていたわけではない。従って、米国政府が人民元の 切り上げを強行に主張し、それが実現すると、米国にはインフレ圧力がかかりやすく なるのである。これは、90年代の米国の繁栄を支えてきた三つの要因の一角を崩し、
FRBの金融政策の自由度を奪う結果となる。
(注)輸入浸透度は輸入額/(生産額−輸出額+輸入額)*100
(出所)OECD資料よりNRI作成
(図表32) 輸入浸透度の高まりは就業者を削減したか (日本vs米国)
(注)輸入浸透度は輸入額/(生産額−輸出額+輸入額)*100
(出所)OECD資料よりNRI作成 -50%
-40%
-30%
-20%
-10%
0%
-5% 5% 15% 25% 35%
就 業 者 数 の 減 少
輸入浸透度の上昇 日本(1991-2001年)
-輸入浸透度の高まりが就業者数減に直結する日本--50%
-40%
-30%
-20%
-10%
0%
10%
20%
30%
-5% 0% 5 % 10% 15% 20%
繊維 米国(1991-2001年)
-輸入浸透度の上昇と就業者数増加が両立する米国-輸入浸透度の上昇(%)
就 業 者 増 加
就 業 者 減 少
第二節 最大のリスクはデフレではなく輸入インフレ
米国が、国内の代替供給力が小さいものを中国から輸入しているのだとすれば、米 国にとって中国は製品のアセンブリー拠点ではない(逆輸入ではない)。従って、ど うしても中国から輸入しなければならない理由はなく、最も安価なところから買えば よいことになる。米国の対アジア(日本を含む)輸入にはこの原則が明確に当てはま る。(図表33)には、東アジア10カ国の対米輸出(米国の対アジア輸入)のシェアの 変化と各国製造業の賃金とをプロットしている。これを見ると、米国が賃金コストの 安いところからより多くのものを買っていること、また中国は賃金コストがかなり安 い国であることがわかる。そうした状況下で中国の通貨が切り上がれば、ドルベース でみたコストが上昇し、価格も上昇することにより中国からの輸入数量は減少する が、もともと米国国内の供給力が少ないため、その分が他のアジア諸国からの輸入に 代替されアジア諸国全体での輸入数量はあまり低下しない可能性が高い。しかもその 過程で、米国の輸入物価が上昇することになる。これは対中輸入関数では、為替の変 動が貿易収支に大きな影響を与えるという意味で、価格弾性値に有意に働く。しか し、対世界での米国の輸入の価格弾性値はほとんど0に等しくなっている(図表 34)。これは、為替の変動が輸入地域の変更で相殺される可能性が高いことを示して いる。つまり、2国間貿易では価格変動がその動向を左右するとしても、米国内の産 業の高度化により米国内で生産し得る財の種類が限られるため、中国からの輸入減少 は、どこかの別の国からの輸入の増加で代替されることになり、全体としては価格効 果が少なくなっているのである。
(図表33) アジアから安価な製品を輸入する米国
(注)1. 東アジア10か国(日本、韓国、香港、インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、シンガポール、中国、台湾)の 対米商品輸出合計額に占める各国の輸出シェアの変動を横軸に示した。
2. 賃金のデータはドル建て月給であり、香港、インドネシアに関しては、月あたり労働日数25日で月給換算した。
タイの賃金は1999年のデータ。
3. アパレル産業は編物を除く
(出所) 国際労働機構、OECD資料よりNRI作成 0
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
-20 -15 -10 -5 0 5 10 15 20
(製造業賃金、対数値 2000年)
(東アジアにおける対米輸出シェアの増減,、1990年〜2000年、%) 中国 日本
インドネシア
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
-10 -5 0 5 10 15
(製造業賃金、対数値 2000年)
(東アジアにおける対米輸出シェアの増減,、1990年〜2000年、%) 日本
中国 インドネシア
【製造業】 【アパレル】
また、輸入価格が上昇しても、仮に米国国内に供給力が残っている場合には国内品 と輸入品との競争が機能して、国内の最終製品価格(消費者物価)は輸入価格の上昇 ほどは上がらない。しかし、実際には中国製品(アジア製品)と競合関係にある企業 の国内供給力が減少しているがゆえに、輸入価格が消費者物価に与える影響が大きく なっている。(図表35)には、消費者物価(コア)の輸入価格の弾性値の推移を示し ている。これを見ると、90年代以降、直近のデータとなるに従って輸入物価が消費者 物価に与える影響が大きくなっていることがわかる。直近のピークでは、輸入物価1
%の上昇が消費者物価(コア)を0.6%押し上げる計算となる。ちなみに、日本の消費 者物価を同じ形式の推計式で推計してみると、同弾性値は0.01、消費者物価の財価格 だけを取り出しても0.06と、米国の10分の1である。
(注)過去5年間の輸入関数の推計による。推計式は以下の通り Imports=α+β*ln(実質GDP)+γ*ln(輸入物価/国内生産者物価)
(出所)NRI作成
(注)ln(CPI(コア))=α+β×ln(輸入物価)+γ×ln(総報酬)+φ×ln(実質GDP)という推計式を期間を ずらし推計し、βの推移をプロットした。中国からの輸入比率は同期間の平均値
(出所)米国労働省資料よりNRI作成
(図表35) 拡大する輸入価格の消費者物価への影響
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5 4.0
87‑93 88‑94 89‑95 90‑96 91‑97 92‑98 93‑99 94‑00 95‑01
‑1.6
‑1.4
‑1.2
‑1.0
‑0.8
‑0.6
‑0.4
‑0.2 0.0 0.2 0.4 価格弾性値
(右軸:逆目盛)
所得弾性値
(左軸)
4.0%
5.0%
6.0%
7.0%
8.0%
9.0%
10.0%
11.0%
12.0%
中国からの輸入の全輸入に占める比率 (右軸)
‑0.1 0 0.1 0.2 0.3 0.4 0.5 0.6
85-97
86-98
87-99
88-00
89-01
90-02 (弾性値)
消費者物価の輸入物価弾性値 (左軸)
こうした物価の安定が米国の個人消費を支えてきたことは否めない事実である。実質 消費関数を80年代、90年代で推計し比較してみると、90年代には物価下落の実質個人消 費押し上げ効果が、係数は小さいものの80年代の約2倍になっていることに加えて、所 得弾性値も0.07ほど上昇している。中国からの安価な輸入品の拡大が実質購買力を押し 上げ、消費者マインドの上昇をサポートした可能性が強い。
第三節 マドルスルーシナリオ
経済的側面から言えば、人民元の切り上げは必ずしも米国経済にプラスをもたらさ ない。しかし現状の人民元水準のままでは割安感が簡単に解消できず、経常赤字の更 なる拡大が見込まれるのも事実である。従って、ドルが基軸通貨であるという大前提 のもとでは、常にドル安政策への誘引が働くことになる。こうした中で、政治的に人 民元の切り上げが政策のターゲットになりやすいといえよう。
人民元へのプレッシャー、ドル安志向、その背後にある米国政府の保護主義的な政 策は、FRBの金融緩和策を可能にしてきた三要因のうち「安価な海外からの輸入品」を 根底から覆すことになる。80年代以降でも、米国が保護主義的な政策を採用した時期 があり、今後、米国政府がドル安を強く志向する可能性は否定し得ない。そこで、米 国経済に関するシナリオをいくつか想定し、今回の中期経済予測のために新たに開発 したNRI米国経済中期モデル(補論2)によるシミュレーション分析を行い、米国経済 の予測値を提示し、それに対する日本経済の反応分析を試みる。
まず、第一のシナリオとしては、マーケット実勢に合わせた形で、人民元が年平均 で0〜10%程度ずつ切り上がり、ドル実効為替レートはほとんど変化しないケースを想 定した。具体的には、固定相場のバンドを上方に少しずつ拡大していくという形にな る可能性が高い。
(図表36)には、シミュレーションに基づく予測表を示している。0〜10%程度の 人民元切り上げでは米国の対中貿易収支には大きな影響を及ぼさず、日本を含む環太 平洋圏の貿易・産業構造は大きく変化しない。この結果、外的な要因により米国の物 価安定が崩れることは避けられるが、ITバブル崩壊のつけや家計の過剰債務の解消に は今しばらく時間が必要となり、急速な国内需要の上昇は望みにくい。ただし、物価 の安定が保たれFRBの低金利政策の継続が可能になることから、若干の成長率の低下は あるものの、減税の効果が途切れた後にも安定した成長が望みうる。このシナリオで は、2006年以降には潜在成長率3%程度(補論3)に回帰していく。まさに、極端な 為替調整に頼ることなく米国経済の安定を図るマドルスルーシナリオと考えられる。
環太平洋圏の貿易・産業構造が大きく変化しない以上、日本と中国以外のアジア諸 国の為替調整も大きなものにはならず、円ドルレートに大きな影響を与えない。従っ て、このシナリオの場合、日本経済に関するシナリオも大きく変化することはなく、
基本的に第一章で提示したメインシナリオに沿った動きをするものと想定する(図表 37)。