• 検索結果がありません。

第二類推論と充足根拠律

はじめに1

本章の目的は、「第二類推論」を「ヴォルフ学派に対するカントの応答」と位置づける ことで、「類推論」全体をヴォルフ学派の世界論に対する応答として位置づけるための視 座を確保することである。

前章では、カントの自然概念の源泉史的な考察を通じて、批判期のカントが自然とい う言葉を世界とほぼ同義で使う場面があることを示した。さらに、「世界の質料」と「世 界の形式」に関する問題を、批判期のカントは「質料的に見られた自然」と「形式的に 見られた自然」の二分法を駆使して論じていたことを明らかにした。それゆえ、批判期 のカントにとって、複数の実体がいかに一つの世界をなしうるのか、という「世界の統 一」に関する問題は、「自然の統一」の条件を問うという形で論じられていると考えられ る。

この「自然の統一」に関する議論は、批判期の著作の中では『純粋理性批判』の「類 推論」において、まとまった形で行われている。この点は「したがって我々の諸類推は 本来あらゆる諸現象の連関における自然の統一をある種の指数の下で示すが、これらの 指数が表現するのは、(時間があらゆる現存を自らの内に包括する限りでの)時間と統覚 の統一との関係に他ならない。統覚の統一はただ諸規則にしたがった総合においてのみ 生じうる」(B263)という記述から裏付けられる。というのも、この記述によれば、「類 推論」の目的は、無数の現象が一つの自然をなすための条件を時間と統覚の統一との関 係を手がかりに示すことだからである。それゆえ、「類推論」は、「自然の統一」あるい は「世界の統一」という伝統的世界論の問題に一定の回答を与えるための議論だと考え られる。

とはいえ、以上の立脚点から「類推論」を検討した研究はきわめて少ない2。その一因

1 本章は、増山浩人「第二類推論と充足根拠律」、『日本カント研究11 カントと幸福論』、理 想社、2010年、123-138頁を加筆修正したものである。

2 ただし、2000年以降、この観点から「類推論」全体を論じた研究がいくつか現れている。具 体的にはヴォーラース, ハーマン, 山本の研究が挙げられる。Wohler, C., Kants Theorie der Einheit der Welt. Eine Studie zum Verhältnis von Anschauungsformen, Kausalität und

87

としては、「類推論」がヒュームの因果論に対するカントの応答として考察されてきたこ とが挙げられる3。確かに、三つの「類推論」のうち、「第二類推論」は、アプリオリな 起源を持つ因果連結の概念が現象に対する客観的妥当性を持つことを証明する議論であ る。そして、「第二類推論」の主張は経験の領域においても因果の概念に主観的妥当性し か認めなかったヒュームの立場と好対照をなす。それゆえ、「第二類推論」をヒュームの 因果論に対する応答とみなすことは不可能ではない。けれども、これらの研究の多くは、

「第二類推論」とヒュームの因果論との比較検討に終始し、「類推論」全体とヒュームの 哲学との関連をほとんど問題にしてこなかった。このことが、「類推論」全体の主題や仮 想敵に関する考察を遅らせてきた原因だと考えられる。

それゆえ、「類推論」を「世界の統一」の問題に対するカントの応答と位置づけるため の前準備として、以下の二つの問いに答える必要があるだろう。一つ目の問いは、ヒュ ームが「世界の統一」の問題に取り組んでいたか、という問いである。仮に、彼が「世 界の統一」の問題に取り組んでいないとすれば、「類推論」全体をヒュームの哲学に対す る応答とみなすことが困難になるからである。二つ目の問いは、「第二類推論」、あるい は「類推論」全体をヒューム以外の哲学者に対する応答として読むことができるか、と いうものである。「第二類推論」が「世界の統一」の問題に取り組む哲学者を仮想敵にし た理論であるという証拠があれば、「類推論」全体もこの哲学者に対する応答として位置 づけることが可能になるからである。

以上の点をふまえ、本章では、「第二類推論」が「ヴォルフ学派に対するカントの応答」

としての側面を持つことを明らかにしたい。『純粋理性批判』において、カントは「第二 類推論」での証明方法が欠けていたために、ヴォルフ学派による「充足根拠律」の独断 論的な証明は失敗し続けてきたと説明している(Vgl. B264-265, B811)。となると、「第 二類推論」は、ヴォルフ学派による「充足根拠律」の証明との関連からも考察されなけ Teleologie bei Kant, Königshausen & Neumann, 2000; Hahmann, A, Kritische Metaphysik der Substanz. Kant im Widerspruch zu Leibniz, de Gruyter, 2009; 山本道雄『改訂増補版 カントとその時代 ―ドイツ啓蒙思想の一潮流―』、晃洋書房、2010年。

3 「第二類推論」をヒュームの懐疑論の応答として考察した研究としては以下のものが挙げら れる。Cf. Lovejoy, A. O., On Kant’s Reply to Hume, in : Archiv für Geschichte der

Philosophie, 19, 1906, pp.380-407; Beck, L. W., Essays on Kant and Hume, Yale University

Press, 1978, pp. 130ff. また、これ以外の「第二類推論」に関する先行研究も、大抵の場合ヒ

ュームに言及している。

88

ればならないと思われる。しかし、こうした観点からの「第二類推論」の研究はこれま でほとんど行われてこなかった4

そこで、本章では、批判期におけるヴォルフ学派の「充足根拠律」の証明に対するカ ントの批判を手引きに、「第二類推論」がカントによる「充足根拠律」の新たな証明であ ることを明らかにする。その上で、ヒュームの実体と力に関する議論を吟味することで、

ヒュームが「世界の統一」の問題に取り組んでいなかったことを明らかにする。こうし た作業によって、上記二つの問いに回答し、本章の目的を達成したい。

議論は以下の順序で進められる。第 1 節では、1790 年に出版された『純粋理性批判 の無用論』(以下、『無用論』)を手がかりに、カントが、命題が真であるための根拠にか かわる「充足根拠律」と物の「現存在の根拠」にかかわる「充足根拠律」を区別するこ とで、ヴォルフ学派の「充足根拠律」の証明の抱える問題点を解決しようとしていたこ とを示す。第2節と第3節では、『無用論』とほぼ同時期のものとされる『形而上学講 義L2』(以下、『L2』)に依拠して、物の「充足根拠律」の適用範囲と証明方法を明らか にしつつ、「第二類推論」が物の「充足根拠律」の「経験の可能性」に基づく証明である ことを示す。第 4 節では、ヒュームの因果論と「第二類推論」の関係を確認した上で、

「第二類推論」がどのような意味で「ヴォルフ学派に対するカントの応答」であるかを 明らかにする。第5節では、ヒュームの因果論が「類推論」の目的を共有していないこ とを示すことで、「類推論」全体をヒュームに対する応答とみなすことは難しいことを明 らかにする。

第1節 ヴォルフ学派による「充足根拠律」の証明とその問題点

『無用論』において、カントはエーベルハルトによる「充足根拠律」の証明を全文引 用した上で、この証明に対して、①証明されるべき命題が二義的に立てられていること、

②証明に統一性がかけていること、③エーベルハルトの証明の後半部に四個名辞の虚偽

4 例外としてロングネスの以下の研究が挙げられる。Cf. Longuenesse, Béatrice., Kant on the Human Standpoint, Cambridge University Press, 2005, pp.117-142. ただし、この研究 では、ヴォルフの根拠の定義についてのカントの批判に着目しつつ、1755年の『新解明』の「決 定根拠律」の証明方法と「第二類推論」の「充足根拠律」の証明方法の相違を示すことに力点 が置かれている。これに対し、本研究では、カントが長い間批判し続けたヴォルフ学派の「充 足根拠律」の証明と「第二類推論」との関連を明らかにすることに力点を置いて議論を進める。

89

が見出されること、④「充足根拠律」を無制限に使用していること、という四つの批判 を行っている(Vgl. Ⅷ 196-198)。このうち、②と③の批判は、エーベルハルトの証明 に固有の批判であるのに対し、①と④の批判は、エーベルハルト以外のヴォルフ学派の 証明にもあてはまる批判である。本節では、①と④の批判に着目して、ヴォルフ学派に よる「充足根拠律」の証明の特色とその問題点を明らかにする。

まず、エーベルハルトの証明を見ていこう。この証明は以下の文章で始まる。「あらゆ るもの(Alles)は根拠を持つか、あらゆるものは根拠を持つわけではないかのいずれか である。したがって、後者の場合、その根拠が無(Nichts)であるような或るもの(Etwas)

が可能で、思惟可能でありうることになってしまうだろう」(Ⅷ 196)。ここまでが証明 の前半部である。カントによれば、前半部は、「これは自己矛盾である」という結論が欠 けている以外はバウムガルテンの証明と変わりない、という(Vgl. Ⅷ 197)。実際、『形 而上学』の「存在論」部門で、バウムガルテンは、「あらゆる可能なもの(omne possibile)」 が根拠を持たない場合、無がその根拠になってしまうことを論拠にして、「何ものも根拠 なしにはない(Nihil est sine ratione)」ことを証明している(Cf. M. §.20)。

これに続く証明の後半部は、以下の文章で始まる。「しかるに、二つの対立する物の一 方が充足根拠がなくても存在しうる場合、二つの対立する物のもう一方も充足根拠がな くても存在することができてしまうだろう」(Ⅷ 196)。このことを説明するために、エ ーベルハルトは、東に吹く根拠がないのに、東に吹くことができる風という例を用いて いる。彼によれば、このような風は東に向かって吹くのと同じように(ebenso)、つま り同時に(zugleich)西にも吹くことができる、という。そして、彼は、その場合「或 るものが、同時に...

ありかつないことが可能になってしまうが、こうしたことは矛盾して おり、不可能である」(Ebd.)と主張して、証明を締めくくる。この部分は、バウムガ ルテンの証明には見出されない。

続いて、カントによる①と④の批判を見ていこう。①の批判は、証明冒頭の「あらゆる もの(Alles)」という言葉の曖昧さを指摘したものである。この「あらゆるもの」という 言葉は「あらゆる命題(ein jeder Satz)」と「あらゆる物(ein jedes Ding)」のどちらの 意味でも使うことができる。しかし、カントによれば、「あらゆる命題は根拠を持つ」とい う命題と「あらゆる物は根拠を持つ」という命題では、異なる証明方法を必要とする、と いう(Vgl. Ⅷ 193-197)。つまり、「あらゆる命題は根拠を持つ」という命題は「論理的 原理(das logische Prinzip)」であり、矛盾律から直接導出される(Vgl. Ⅷ 193-194, 197)