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モナド論に対する応答としての「第三類推論」

はじめに

本章では、「第三類推論」をヴォルフ学派のモナド論に対する応答として解釈する。もち ろん、「第三類推論」は先行する二つの類推論とセットで一つの議論をなしている。それゆ え、「第三類推論」だけでなく、「類推論」全体もヴォルフ学派に対する応答として位置づ けることが可能なはずである。以上の作業によって、カントの「類推論」の哲学史的な位 置づけとその独自性を明らかにすることが本章の目的である。

議論は以下の順序で進められる。「第三類推論」の目的は、相互性のカテゴリーの現象に 対する適用可能性を証明することである。そこでまず、第 1 節では、「第三類推論」の証 明構造を概観することで、この目的がどのような仕方で達成されているかを確認する。次 に、第2節では、原因性のカテゴリーと相互性のカテゴリーの役割の違いについて論じる。

第 3 節では、『就職論文』における実体間の相互性の問題に対するカントの議論を概観す る。その上で、『就職論文』の議論と「第三類推論」の類似点と相違点を明らかにする。第 4節では、「第三類推論」で使われている実体概念が「現象的実体」という従来とは異なる 実体概念であることを明らかにする。第 5 節では、「現象的実体」概念の持つ空間性とい う性格によって、「第三類推論」が「世界の統一」の問題を従来とは異なる仕方で解決して いることを明らかにする。

第1節 「第三類推論」の証明構造

では、「第三類推論」の議論を概観しよう。「第三類推論」の目的は、選言判断の形式を 起源とする相互性のカテゴリーが「経験の可能性の条件」であることを証明することであ る。その際、カントは、「第二類推論」における証明と同じように、いわゆる「不可欠性論 証(Ohne-nicht-Argument)」を使用している1。「不可欠性論証」とは、「事実Bが成り立

1 「不可欠性論証」の詳細については、石川文康、『カント 第三の思考 ―法廷モデルと無限 判断―』、1996年、名古屋大学出版局、211-215頁を参照。石川は同書211頁で、「(1)カテ ゴリーの客観的妥当性弁明の究極的準拠点、経験の可能性の条件、とりわけア・プリオリな認 識の可能性の条件を提示しようとする論証のきわめて多くが、しかも決定的な論証であればあ

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つためには、条件Aが不可欠である。しかるに、事実Bは現に成り立っている。したがっ て、A は客観的に妥当する」という形の論証である。「第三類推論」の場合、条件 Aに相 当するのは相互性のカテゴリーであり、事実Bに相当するのは複数の対象が同時に現存す ることを現に経験できるという事実である。そして、「第三類推論」の「相互性の原則」の 証明では、「事実Bが成り立つには、条件Aが不可欠である」という「不可欠性論証」の 大前提の正当性が二つの段階を経て示されている。第一段階は、相互性のカテゴリーなし には同時存在の経験が成り立たないという不合理が生じることを指摘することであり、第 二段階は、相互性のカテゴリーによってのみ、この不合理が解消されることを示すことで ある。

さて、「第三類推論」には、二つの証明がある。つまり、B 版で書き加えられた証明

(B256-258)とA版の証明(A211-A214; B258-260)である。A版の証明は、B 版にお いても、ほぼそのままの形で残っている。以下では、B版の証明を分析することで、カン トの基本的な戦略を明らかにしたい。

B版の証明は、物の同時存在を経験するための条件を示すことで始まる。その条件とは、

ある物の知覚と他の物の知覚が相互に継起しあうことである。その例として、カントは、

月を見た後に地球を見ることと、反対に地球を見た後に月を見ることという二つの知覚の 主観的な継起を挙げている。つまり、地球と月の同時存在を経験するためには、これら二 つの対象の知覚は、地球から月という順序でも、月から地球という順序でも把捉すること ができなくてはならないのである。

けれども、カントによれば、知覚の主観的継起だけでは、知覚が互いに継起しあうとは 言えないという。その論拠となるのが、「時間そのものは知覚されえない」というテーゼで ある。前章で見たように、このテーゼの意味するところは、我々は様々な現象が存在して いる時点を直接知ることができないということである。それゆえ、このテーゼが有効であ る限り、複数の現象が同時存在するという前提から、これらの現象の知覚が相互に継起し あうという帰結を引き出すという方策が封じられてしまうのである。この点について、カ ントは「しかし、時間そのものは知覚されえない。その結果として、諸物が同じ時間にお いて定立されていることから、これらの諸物の諸知覚が互いに相互的に継起しあうことが できるということを推定することはできない」(B257)と述べている。他方で、構想力の るほど、一致していわゆる’Ohne-nicht-Argumentと呼ばれうる論証形式、もしくはそのヴァ リエージョンからなっている事実」があると指摘している。

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把捉によって、複数の物の知覚が相互的に継起しあうと主張することはできない。という のも、把捉によってわかるのは、どちらか一方の知覚が主観に存することだけだからであ る。上記の例で言えば、把捉だけでは、月を見ている時に地球が同一時点にあるのかはわ からないし、地球を見ている時には月が同一時点にあるのかはわからないのである。それ ゆえ、複数の物が同時に存在すると言えるためには、知覚の主観的継起だけでは不十分な のである。ここまでが、B版の証明の第一段階である。

次に、物の同時存在を認識するために相互性のカテゴリーが不可欠であることが示され る。この箇所で、カントは相互性を実体間の相互影響関係として特徴付けている。彼によ れば、ある実体が他の実体に影響を与えるということは、ある実体の任意の規定の根拠が 他の実体に含まれているという事態を指す、という。前述の例で言えば、地球が青いとい う規定の根拠が月に含まれている場合、月は地球に影響を与えているということができる のである。この関係は、月から地球へ向かう一方的な影響関係である。けれども、月が地 球に影響を与えるのと同時に、地球が月に影響を与えていると考えることもできる。この ように、影響の関係が一方的ではなく、相互的である場合、その関係は「相互性、あるい は相互作用の関係」(B258)と呼ばれるのである。

とはいえ、どうして相互性のカテゴリーが物の同時存在を認識するために不可欠だと言 えるのだろうか。相互性のカテゴリーの役割は、複数の知覚の主観的継起を、複数の事物 に同時に存在する諸規定だと解釈することである。上記の例で言えば、それは、青から黄 色という色の主観的な継起を、地球と月という互いに作用しあっている異なる事物の規定 だと解釈することに他ならない。さて、知覚の主観的な継起をこのように解釈することは、

物の同時存在を認識するための鍵となる。というのも、「第二類推論」で言われていたよう に、自然における大部分の原因と結果は同時に存在しうるからである(Vgl. B247f.)。そ れゆえ、月に地球の青さの根拠が含まれている以上、月は地球と同時に存在すると言える し、地球に月の黄色さの根拠が含まれる以上、月が地球と同時に存在すると言えるのであ る。前述のように、このような仕方で諸知覚の関係を解釈することは把捉の総合だけでは 不可能であった。この点をふまえ、カントは「空間における諸実体の同時存在が経験にお いて認識されうるのは、実体間の相互作用を前提した場合だけである。したがって、相互 作用という前提は経験の諸対象としての諸物そのものの可能性の条件でもある」(B258)

と述べ、B版の証明を終えている。

もちろん、「第三類推論」を適切に評価するためには、A 版の証明とB 版の証明を比較

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検討する作業が必要だろう。ただ、B版の証明は、物の同時存在をどのように認識するこ とができるのか、という認識論的な問題に答えることに力点が置かれているのに対し、A 版の証明は、「世界の統一」の問題に答えることに力点が置かれている。そこで、A版の証 明の検討は本章の後半で「世界の統一」の問題を論じる際に改めて行いたい。

第2節 原因性のカテゴリーと相互性のカテゴリーの役割の違い

本節の目的は、原因性のカテゴリーと相互性のカテゴリーの役割の違いを明らかにする ことである。前節では、B版の論証の構造を分析し、いかにして相互性のカテゴリーが経 験の対象に適用されるのかを確認した。ただ、前節で論じることができなかった問題が一 つある。それは、相互性の関係を相互的な因果関係と同一視できるのか、ということであ る。確かに、カント自身が、相互性を「その諸偶有性に関する諸実体の相互的原因性」(B183)

と言い換えている箇所もある。さらに、「第三類推論」のA版の証明において、「したがっ て、何らかの可能的経験において同時存在が認識されるべきだとすれば、どの実体も(実 体はただその諸規定に関してのみ帰結でありうるので)他の実体におけるある種の諸規定 の原因性を、また同時に、他の実体の原因性からの結果を自らのうちに含まなくてはなら ない、すなわち、これらの実体は(直接的であれ、間接的であれ)力学的な相互性の関係 に立たなくてはならない」(B259)と言われていることも重要である。というのも、この 箇所でも、相互性の概念は相互的因果性とほぼ同一視されているからである。それゆえ、

一見すると、相互性と相互因果性は同義であるように見えるかもしれない。

しかし、相互性と相互因果性を完全に同一視した際には、大きな問題が生じる。という のもその場合、相互性のカテゴリーが、実体のカテゴリーと原因性のカテゴリーから生じ た派生概念になってしまうからである。そして、このことは、カテゴリーは 12 より少な いという主張を許容することに直結する。けれども、カントにとって、12のカテゴリーは 判断表から導出された悟性の根本概念であった。それゆえ、相互性のカテゴリーにも、実 体のカテゴリーと原因性のカテゴリーに還元できない役割があるはずである。この役割を 明らかにするために、以下では、B110 以下のカテゴリーの数に関するカントの注釈に着 目したい。

この箇所で、カントは量、質、関係、様相という四つのクラスのカテゴリーが全て三つ である理由として、「第三のカテゴリーは、どの場合も当該のクラスの第一のカテゴリーと