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カントの自然概念 -「名詞的自然」としての世界-

カントは自然という語をきわめて多くの用法で使用している。これらの用法を検討した 場合、『純粋理性批判』において、自然という語が世界(特に、感性界)とほぼ同義で使用 されている箇所があることが明らかになる。しかも、これらの箇所の多くは、B版「演繹 論」や「原則論」といった「分析論」に属するテキストである。これらの箇所の共通の問 題は、多様な対象をカテゴリーに由来する法則にしたがって総合統一する方法を示すこと にある。前節で論じた三分法から見れば、こうした問題は、「世界の質料」と「世界の形式」

に関する問題だということができる。「世界の質料」とは、世界を構成する多様な諸部分の ことであり、「世界の形式」とは、これらの部分が統一されるために必要な原理、原則のこ とだからである。以上の点をふまえて、「世界の質料」、「世界の形式」を論じる場面で、カ ントが自然という用語を世界と同義で使っていたことを明らかにすることが本章の目的で ある。

議論は以下の順序で進められる。第 1 節では、『純粋理性批判』において、カントが世 界と自然に重なり合う面があると考えていたことを示す。第2節と第3節では、カントが バウムガルテンの二つの自然概念、つまり「存在者の自然(natura entis)」と「全自然

(natura universa)」を「形容詞的自然」と「名詞的自然」という二分法によって批判的 に継承していたことを示す。さらに、第 4 節では、「形式的な意味での自然」と「質料的 な意味での自然」という別の二分法の内実を検討し、この二分法が「形容詞的自然」と「名 詞的自然」という二分法とは異なる意味を持つことを示す。以上の考察によって、批判期 のカントは、世界の「複合体」としての側面を指し示すために、「形式的な意味での自然」

と「質料的な意味での自然」の二分法および、「名詞的自然」という表現も用いていたこと が明らかになるはずである。

第1節 『純粋理性批判』における世界と自然の区別

『純粋理性批判』における自然概念と世界概念を論じる際に素通りできない議論がある。

それは、B446からB448で行われている自然概念と世界概念の区別に関する議論である。

この箇所で、カントは「我々は世界と自然という二つの表現を持っているが、これらの表 現は時折混同されることがある」(B446)と述べた上で、両概念の共通点と相違点を論じ

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ている。この箇所で世界と自然を区分する際の拠り所となるのは、数学的カテゴリーと力 学的カテゴリーの区別である。そこでまず、この二種類のカテゴリーの区別に関する議論 を概観しておこう。

カテゴリー表の導出を終えた直後に、カントは、カテゴリー表を二つの部門に区分した 上で、量と質のカテゴリーを数学的カテゴリー、関係と様相のカテゴリーを力学的カテゴ リーと呼んでいる(Vgl. B110)。両者の区別の基準となるのは、前者が「直観の対象」の みにかかわる対し、後者は「直観の対象の現存」にかかわる点である。経験の対象を認識 する際の両者の役割の違いは以下のように説明できる。例えば、水が凍るのを認識する場 合、まず、水を空間と時間に属するものとして把握することや水の知覚と氷の知覚を継起 的に総合することが必要である。これは、直観の対象を空間・時間的なものとして把握す る量のカテゴリーと感覚の度合いを把握する質のカテゴリーの役割である。この二つのカ テゴリーによって獲得されるのは、「水を見た後に、氷を見た」という主観的継起でしかな い。だが、これだけでは、実際に水が先で氷が後に生じたのか(氷結)、氷が後で水が先に 生じたのか(溶解)を判別することができない。この区別を行うために不可欠なのが力学 的カテゴリーである。例えば、実体のカテゴリーは、水と氷という二つの表象を同一の対 象の二つの状態として把握するために不可欠である。さらに、原因性のカテゴリーは、「水 を見た後、氷を見た」という主観的継起関係だけでなく、実際に「水が氷に変化した」と いう客観的継起の認識を獲得するために不可欠である。それゆえ、対象の知覚の主観的継 起を現象の客観的継起として規定するのが、力学的カテゴリーの重要な役割であると言え よう。このように、両者のカテゴリーは対象認識の際に別々の役割を果たしているのであ る。

さらに、「原則論」の冒頭で、カントは、数学的カテゴリーと力学的カテゴリーによる総 合の仕方の相違について説明している。この箇所で、カントは数学的カテゴリーによる総 合を「複合(Zusammensetzung; compositio)」、力学的カテゴリーによる総合を「連結

(Verknüpfung; nexus)」と呼んでいる(Vgl. B201Anm.)。一言で言えば、前者は同種的 な多様の偶然的な総合であり、後者は異種的な多様の必然的総合のことである。前者の典 型例としては、二つの三角形をくっつけて四角形を作る場合が挙げられる。幾何学的図形 としての三角形が占めている空間はどこをとっても等質なので、二つの三角形は同種的で ある。また、二つの三角形を自由に結合分離できる以上、この二つの三角形の総合は偶然 的なのである。これに対し、実体と偶有性、原因と結果などは異種的である。にもかかわ

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らず、前者がない場合、後者は成り立たない。これが、力学的カテゴリーによる総合が異 種的な多様の必然的総合と呼ばれる理由である。

では、B446 から B448 の議論に話題を戻そう。この箇所によれば、世界は「あらゆる 現象の数学的全体と大ならびに小における、つまり複合ならびに分割による諸現象の進展 における諸現象の総合の全体性」(B 446)であるという。けれども、世界が「力学的全体」

(Ebd.)として捉えなおされる場合には、世界は自然とも呼ばれるという。ここで「数学 的全体」、「力学的全体」という表現は、「数学的カテゴリーによる全体」、「力学的カテゴリ ーによる全体」と読み替えることができる。この点を考慮した場合、世界は、量と質のカ テゴリーによって可能になる同種的な多様から構成される全体であるのに対し、自然は関 係と様相のカテゴリーによって可能になる異種的な多様から構成される全体と言えよう。

そして、アンチノミー論においては、この「数学的全体」としての世界と「力学的全体」

としての自然はいずれも「系列」として考察されている。具体的に言えば、世界は量のカ テゴリーに基づく現在の時点から第一の始まりや空間的な限界に至るまでの系列、質のカ テゴリーに基づく複合体から単純体へと至るまでの系列という二つの意味を持つ。これら の全体は、第一アンチノミーと第二アンチノミーの対象である。これに対し、自然は、あ る出来事からその絶対的自発性を持つ無条件的な原因へと向かう系列と感性界における偶 然的存在者から、その原因である必然的存在者へと向かう系列という二つの意味を持つ。

これらの全体は、第三アンチノミーと第四アンチノミーの対象である。

最後に、カントは、これら二つのタイプの全体に関する世界概念を論じることで、議論 を締めくくっている。その際、カントは広義の世界概念と狭義の世界概念を区別している。

まず、カントは、世界を構成する系列に関する理念と自然を構成する系列に関する理念の どちらも世界概念と呼ばれうることを確認する。感性界における現象が全て条件づけられ たものである以上、絶対的全体を構成する諸項の系列が完結することはありえない。この 特徴は、世界を構成する系列にも自然を構成する系列にも共通のものである。この点を踏 まえ、カントは、「私の考えでは人がこれらの理念全部を世界概念と名づけることは全くも って適切なことである」(B447)と述べている。他方で、系列を完結させるために必要と される「無制約者」の性質がこれら二つの全体で異なるのは、前に見たとおりである。そ れに応じて、カントは前者のタイプの全体に関する理念を狭義での世界概念、後者のタイ プの全体に関する理念を「超越的自然概念(die transzendente Naturbegriff)」と呼んで いる。

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以上のように、この箇所の狙いは、「数学的全体」としての世界と「力学的全体」として の自然を峻別することで、以後の議論の基礎を提示することである。このことは、「この区 別〔=狭義の世界概念と超越的自然概念との区別〕は、当面の間はとりわけ重要ではない が、議論が進むにつれていっそう重要になりうるものである」(B448)という記述からも 裏付けられる。実際、この区別は、後半二つのアンチノミーに前半二つのアンチノミーと は異なる解決を与える際の拠り所となっている。前述のように、力学的総合は異種的な多 様の総合である。それゆえ、この総合は、現象間の因果連結だけでなく、現象と非現象と の間の因果連結も許容する。まさにこのことが、後半二つのアンチノミーの対立命題が両 方とも真であるという帰結が生じる論拠になるのである。この点は「力学的理念が現象の 条件を現象の系列の外に許容することで、つまりそれ自身現象でない条件を許容すること で、数学的アンチノミーの結果とは全く異なる何かが生じる」(B559)というカントの記 述から裏付けられるだろう。このように、B446からB448の議論によって、カントは100 ページ以上先でのアンチノミーの解決のための伏線を張っているのである。

とはいえ、以上の議論によって、世界と自然が矛盾対等関係にあることが示されたわけ ではない。むしろ、この箇所では、世界のある側面が自然とも呼ばれうることが示唆され ているのである。この点は、「まさに同一の世界が自然とも呼ばれるのは、この世界が力学 的全体として考察される場合である」(B446)という説明からも明らかであろう。それゆ え、以上の議論によって、世界は同時に自然でもありうるという可能性が排除されたわけ ではないのである。

ただし、以上の議論だけでは、どのような意味で世界と自然が重なりあうかはそれほど 明瞭にはならない。というのも、この議論で示唆されているのは、世界と自然の双方が、

完結しえない無限の系列、つまり広義の世界概念としても考察できるという点に限られる からである。つまり、この議論によって保証されるのは、「世界の全体性」という観点から 見て、世界と自然に重なり合う部分があるということだけである。では、「世界の質料」と

「世界の形式」という面から見て、世界と自然には重なる面があるのだろうか。以下では、

この問いに肯定的に答えるために、カントの自然概念をさらに立ち入って考察してみたい。

第2節 「形容詞的自然」と「名詞的自然」の区別とその歴史的源泉

上記の目的を達成するために、本節では、カントが自然を形容詞的な意味と名詞的な意