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第Ⅱ期 1970 年代半ばから 80 年代初め

ドキュメント内 博 士 論 文 (ページ 102-129)

:「日本語=日本人の思考様式」による包摂

1 外国語と民族・国民の思考様式

1.1 言語と文化,言語と思考様式の関係についての論調

第 3 章で見たように,1960 年代終わりには,日本語の特徴を説明するとき,何気なく 日 本 人 の 思考 様 式 の 特徴 を 持 ち だす と い う 記述 ( 量 的 分析 の カ テ ゴリ ーA) が 見 ら れ るよ うになった。こうした何気ない記述を論理的に成立させるためには,日本語と日本人の思 考様式とは何らかの関係があるということ,さらには言語と民族の思考様式または言語と 国民の思考様式との間に関係があるということについての説明が必要である。

本稿は日本語教育学における「思考様式言説」の変遷を主題としており,当時の言語学 や日本語学,他の第 2言語教育の動向は直接の分析対象ではない。したがって,詳細に論 じることはできないが,谷(1972)の例から,思考様式または文化と言語との関係につい ての議論が,1970年代初めの言語研究で一つの論点とみなされていたことを示しておきた い。

1972年の『月刊言語』の特集は,「言語 社会 文化」であった。『日本語教育』で「「日 本語教育」と文化」の特集が組まれるのは,1975年のことであるが,言語学ではそれ以前 から,言語・社会・文化の関係に注目が集まっていたと言える。1972年の『月刊言語』に,

谷 泰 の 「 言語 と 文 化 ―― 成 分 分 析を め ぐ っ て」 と い う 論考 が あ る (谷 1972)。 こ の 中 で , 当時の,言語と文化をめぐる研究状況が述べられている。

言語が文化研究にとって重要な手がかりであることは,多くの人びとによって認めら れている。エッセイ風な比較文化論の中でも,しばしば言語比較を通じて,文化比較 の手がかりにしている人も少くない。(谷 1972: 11)

この「エッセイ風な比較文化論」が何を指すか,出典が記されていないので断定はでき ないが,これに当たる可能性が最も高いのは,土居健郎の『「甘え」の構造』(土居 1971)

である。1971 年に刊行されたベストセラーであり,「日本人の心理に特異的なものがある

とするならば,それは日本語の特異性と密接に関係があるにちがいない」(p.6)として,

「甘え」「気」「人見知り」などの日本語の用法をもとに,日本人の心理構造の説明を試み たものである。日本人論の一般書としては,中根(1967)や作田(1967)もあり,それら の中でも,日本語から日本文化を根拠づけるという論法が見られたが,『「甘え」の構造』

は,日本語・国語を日本人の心理的特徴を語るための主要な手段としており,日本語に非 常に重要な役割を与えている。しかし,文化人類学者である谷は,こうした「エッセイ風 な比較文化論」については「恣意的な言語比較による比較文化論」であると評し,その上 で,そうした比較文化論に対し,「より方法論的にしっかりした言語分析による文化分析も 最近とみに重視されている」,「言語自身それは,まず一つの文化なのである」と述べ,音 韻研究と統語論的構造の研究を紹介している。統語論的構造の研究として,三上章の研究 を挙げ,欧米語の統語構造と日本語のそれとの違いが「思考の型の差として,一つの文化 の型の差をさし示している」のであり,「このような統語的構造においても,言語は一つの 文化としてとらえられ,その研究は,文化研究の一領域として,その地位を確立しつつあ るということができよう」と記している(以上,p.11)。

評論風の著書で,恣意的な言語比較から文化を論じるという方法が見られる一方で,言 語研究でも,言語を一つの文化と捉え,思考の型の差,文化の型の差として論じるという 論じ方が定着しつつあったことがわかる。

谷の記述で注意すべきなのは,こうしたより実証的な言語研究では,言語自体が一つの 文化として捉えられていたという点である。すなわち,当時の言語研究では,言語は,言 語として一つの文化の体系,一つの思考の型の体系を持っていると考えられていたのであ って,国家や国民・民族など,言語それ自体とは異なる領域の文化・思考の型の体系とは,

即座には結びつけられていなかったということである。その証拠に,この論考で親族の呼 称の各言語間の差異と文化との関係を論じた谷は,言語体系を含めた広義の意味では文化 とは「意識的にせよ,無意識的にせよ,シンボル作用による人間のあらゆる活動」(p.12)

であるとし,そうした意味での文化には言語分析からだけでは把握しきることのできない 範囲が存在するとして,次のような問いかけで論考をしめくくっている。

このようにみてくると,言語によるシンボル行動は,振舞いによるシンボル行動を含 めた,広いイメージ生活の表層に浮び出た,氷山の一角であるかもしれないのだ。言 語分析は明せきで有力な方法だ。しかしそれによる文化理解とはいったいなになのか,

そしていかなる文化の部分を理解しているのか,わたしたちは,言語というもののこ ういうあり方を知った上で,あらためて正しく位置づけをしておく要があると思う。

(谷 1972: 18)

当時の,言語と文化,言語と思考様式とをめぐる言語研究の状況は,言語の体系を一文 化・一思考様式と捉え論じる方法が定着しつつあるというものであったようだ。ただ,言 語の体系自体ではなく,それを含むシンボル行動すべてを研究対象としている文化人類学 者の谷からは,言語と文化との関係,言語で文化がどのように分析しうるのかを議論して いくべきだという問題提起がなされている。文化人類学者にとっても,言語と文化の関係 は,そう簡単に規定できるものではなかったのである。

しかし,第2言語教育の文脈では,言語と文化,言語と思考様式との関係についての議 論は厳密な検証は行われず,言語と,民族・国民の文化・思考様式の関係として言い換え られてしまう。

1.2 第 2言語教育における,国民・民族の思考様式の扱い

1.2.1 「理解」させたい民族の思考様式

1973年 12月に刊行された『日本語教育』22号の特集は「日本語教育の最終目標」だっ た。その特集のための論考は 4本あるが,そのうち 2本はドイツ語教育,英語教育を専門 とした著者によるものである。それぞれ著者は,言語と思考様式との関係を,言語と民族 の思考様式または言語と国家・国民の思考様式との関係として論じ,第 2言語教育におい て,民族,国家・国民の思考様式を学ぶことの重要性を主張している。

まず,第2外国語としてのドイツ語教育の目的について述べた倉又(1973)は,外国語 の「理解」(聞く,読む)とは何かについて説明した箇所で,言語と思考との関係を次のよ うに描く。

「理解」であるが,ことばの単なる理解にとどまるのではなく,W.von Humboldtや

L.Weisgerberもいっているように,言語にはそれを担っている民族なり言語共同社会

なりの「ものの把え方」,「ものの見方」が結晶化していることまで考えた「理解」で

なければならない。言語は,それを担い且つ用いている主体者の思考と行為を潜在裡 に規定すると同時に,またそれらによって規定されているのである。「理解」というと き,わたしたちは,そのような民族のものの見方,把え方を無視して真の「理解」は ない,と考えなければならない。(倉又 1973: 28)

一文目と三文目の主旨はほぼ同じで,外国語の「理解」においては,言語を担う「もの の把え方」「ものの見方」を無視してはならないと主張されている。これらとは独立して,

二文目では,言語と主体者の思考とが相互規定関係にあるとの断定が挿入されている。こ の断定と他の二文の関係は非常にわかりにくいが,要するにここで主張されているのは,

言語と主体者の思考とは相互規定関係という非常に強い結びつきを持っている,だから,

外国語とそれを担う民族の思考様式とも強い結びつきがある,したがって,外国語の「理 解」において,民族の思考様式を無視してはならないということである。

ただ,ここで指摘したいのは,「言語と主体者の思考は強い結びつきがある」という漠然 とした言明が,外国語学習の文脈では,言語と民族の思考様式との結びつきを根拠付ける ものとして解釈されている,という点である。言語をなぜ外国・民族の言語に置き換えう るのか,主体者の思考をなぜ民族の思考様式に置き換えうるのかについては説明されてい ない。また,言語と主体者の思考とは相互規定関係にあるという言明も検証されていない ので,それを根拠とした主張は論をなさないはずなのだが,倉又は,根拠を示さないまま に,言語と主体者の思考は相互規定関係にあると断定し,民族の思考様式を無視すべきで ないと主張している。

導き出された主張自体は,民族の思考様式の習得を積極的に求めているわけではないが,

ある外国語とそれを使用する民族の思考様式との間に強力な結びつきを見出しており,そ うした主張が,外国語学習に際して民族の思考様式を身につけて当然という主張を生み出 さないとは言い切れない。次に見る同時期の小川(1973)には,明らかにこうした主張を 見ることができる。

1.2.2 外国語学習=外国的な思考様式の学習

Six Weeks to Words of Power(Funk 1955)という英単語リストの序文には,ジョン=

デ ュ ー イ の"Thought is impossible without words"と ト マ ス = シ ェ リ ダ ン の"There is

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