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第Ⅰ期 1945 年から 70 年代初め

ドキュメント内 博 士 論 文 (ページ 72-102)

:「日本語=日本人の思考様式」前史

1 3 つの時期区分

量的分析の結果によれば,敗戦から 70年代初めの研究論文中には,「日本人の思考様式」

という概念(量的分析のカテゴリーA,B,C,D にあたる)はほとんど見られず,したが って「日本語=日本人の思考様式論」(カテゴリーA,B)もほとんど存在しなかった。し かし,「思考様式」に類する語を含む記述が全くなかったわけではない。

敗戦から,50 年代初め,つまり占領期(1945年 8月 15日から 1952年 4月 28日)に ほぼ重なる時期は,研究論文自体ほぼ皆無に近かった。ただ,敗戦直後より,直後より,

コラム・随筆など,研究論文とは言えない論考では「日本人の思考様式」に類する概念が 見られた。そして,研究論文が出始めさらに日本語教育学会が創設された 50 年代半ばか ら 60 年代前半には,「日本語の発想法」「母国語の発想法」という研究の立場が登場し始 める。この「日本語の発想法」「母国語の発想法」という概念が,本格的に研究され始めた のは,60年代後半から 70 年代初めのことであった。本章では,言説の記述内容から,こ の第Ⅰ期を,1945 年 から 50 年代初め,50 年代半ばから 60 年代前半,60 年代後半から 70年代初めの 3期にさらに分け,それぞれの時期に現れた「思考様式言説」の内実を追っ ていくこととする。

2 1945 年から 50 年代初め

2.1 敗戦後の日本語教育

「1945年から 1961年の日本語関連文献一覧」(巻末資料 1)が示すように,この時期は 日本語教育学の文献と規定できるような論考自体が少なく,量的分析では,この時期に「思 考様式言説」は見いだせなかった。駒込は,戦後の国語教育に,「日本語=日本精神論」が そのまま残存したと指摘しているが(駒込 1996: 383-384),日本語教育に関していえば,

少なくとも論文として発表されたものの中にその残存は認められない。量的分析の結果に よれば,戦前・戦中の日本語教育の目的―日本語を通じた日本精神の植え付け―が,戦後

のこの時期には消失したと言うことができるかもしれない。

では,戦中まであれほど強固にあった,日本語を通じた日本精神の流布と日本への包摂 という理念はどこへいってしまったのだろうか。本当に完全に消えたということができる のか。また,日本精神の流布と日本への包摂という目標を失ったとすれば,戦後のこの時 期の日本語教育は何を目標としていたのか。2 節では,まず,元日本語教育関係者が日本 語教育について言及した記述を取り上げ,戦前・戦中の「日本語=日本精神論」の行方を 探る。次に,敗戦直後の日本語教育が何を目指していたのか,その理念を,当時の日本語 教育の制度的な実情も含めつつ論じることとしたい。

植民地や占領地などで日本語教育に従事した者,それらの場所で使われる教科書を日本 国内で作成した者,日本語教育の政策立案などに関わった者など,戦前・戦中に日本語教 育に何らかの関わりをもった者は決して少なくない。しかし,戦前・戦中の日本語教育関 係者で,敗戦直後のこの時期,日本語教育について言及した者はほとんどいなかった。1945 年 12 月には,戦中まで日本語教員派遣事業や教科書編纂などに中心的な役割を果たした 日本語教育振興会の理事長,岡部長景が戦犯容疑で巣鴨に収監されるなど(池尾ら 1991:

82),当時,戦中の日本語教育関係者は公職追放の危機にあった。戦中,日本語教育振興会 の理事兼総主事であった長沼直兄は,戦後,振興会を引き継いで設立された言語文化研究 所の理事長となったが,その弟・長沼守人は当時を振り返り,日本語教育関係者の公職追 放について次のように語っている。

ある教授の話では,「長沼先生に全部 GHQに付いていっていただいたので,追放にな っ た人の 中に 日本語 関係 はおり ませ ん,私 自身 ,GHQ に 付いて って もらっ て, それ でパス・・・。"書いたものからいうと本当はひっかかるんだけど"というような人たちに,

全部長沼直兄先生が仲介の労をとってくださって・・・。今思うと冷汗が出て来ますね」

と。(池尾ら 1997: 45)

長沼直兄は,1923 年から 17年間,米国大使館の日本語教官を務めており(言語文化研 究 所 1981: 5), そ の と き に 築 か れ た 人 脈 が 日 本 語 教 育 関 係 者 の 公 職 追 放 を 防 い だ と い う

(池尾ら 1997: 45)。しかしこの長沼守人が語った同じ座談会で,木村宗男は,木村がい

たフィリピンの教育課長が密告・告訴によって公職追放されたと述べており,また,長沼 守人も占領期当時の状況を「今でも当時のこととなると,おびえて話さない人もいますよ」

とも話している(いずれも,池尾ら 1997: 45)。長沼直兄の力によって追放を免れる場合 が多々あったにせよ,日本語教育に関わっていたことで戦犯となる可能性が十分にあった のが,当時の状況だったと考えられる。したがって,戦中に書いた自らの著書や日本語教 育との関わりについては触れないほうがよく,まして積極的にそれを振り返るような論考 が公刊されなかったのも当然である。

1.2.2 戦中と戦後の連続性:保科孝一の論考から

このような状況の中,戦中までの日本語教育に触れた数少ない事例が,保科孝一の『国 語問題五十年』(1949)である。

保科(1872-1955)は,近代国語学の第一人者,上田万年の弟子で,1898 年に文部省図 書課嘱託となり,1901年に国語調査委員会補助委員になって以来,役人として国語調査お よび国語政策に関わってきた人物である。戦前・戦中の保科の国語観・国語政策観,それ が反映された政策の実際については,イ(1996)に詳しいのでここでは詳述しないが,端 的にまとめれば,保科は戦前から国語の改良・簡易化,標準語制定を強く主張していたが,

国語改良・標準語制定のために,戦中の海外への日本語普及を利用しようとした。すなわ ち,国内では保守派が国語改良に強く反対していたが,保科は,「大東亜共栄圏」に国語広 めるためには国語改革が必須と主張し,国外で国語改良を進めそれを国内にまで及ぼそう とした(イ 1996: 304)。また,イによれば,保科は,日本語普及には,民族固有の精神が 融け込んでいる国語を他の民族に移植し文化を普及し,民族的勢力を拡大できるという効 果があると考えていた(p.285)。また,政治的・文化的に優越な国民の言語は自然に広ま るはずだとみなし,言語政策はその自然の「感化力」を人為の力で強化するだけとの認識 を持っていたとされる(p.287)。

この保科は戦後,自身のこれまでの国語政策者としての生涯と国語改良の歴史をまとめ た著書『国語問題五十年』(保科 1949)を刊行する。主な内容は,戦中から戦後の国語改 良史であるが,保科の国語改良論を後押ししたはずの,海外への日本語普及にはほとんど 触れていない。戦中の動きとして保科が論じているのは,陸軍省を初めとする軍部による 漢字制限・仮名づかいの改訂に限られている。大量の動員にともない兵士の学力が低下し たが,兵器の使用法などに関する教育のため,漢字を制限し仮名づかいを改める必要があ った,それまで漢字を多用していた軍部自らが国語改良を推し進めたという動きである(保

科 1949: 207-217)。海外への日本語の普及に関しては,この著書の最終章の末尾の 3 ペ ージで触れられているだけである。そこでは,植民地・占領地への日本語普及とその他世 界各国の大学での日本文化・日本語講座の広がりなどが併置され,地域別の,普及の背景 は考慮されず,全て日本語普及の成果として挙げられている。

台湾や朝鮮においては日本語が通用語となり,日本語の教育も普及したから,ます ますその勢力が増大した。ついで満州国とも特殊の関係が生じ,その領内に日本語が 優勢な地位を占めるようになった。中華民国とは,経済上緊密に結びつくようになり,

特に華北とは特殊の関係も生じたので,日本語が年とともに急速に普及した。

つぎに,シャムとは歴史的にも特殊の関係があったので,戦前から日本語が普及し つつあったが,太平洋戦争がはじまってから,わが国に依存する傾向がいちじるしく なり,日本語を学ぶものが急激に増加した。フィリピンにも戦前から相当に日本語が 普及していた。これは日本の移民が各方面に入り込んでいた関係もあり,貿易も発達 してきたので,日本語を学ぶものがおおくなってきた。

マライ半島や南印諸島も,日本軍隊と接触するようになって,日本語を学ぶものが 急増した。(保科 1949: 269-270)

植民地,満洲,中国華北部,南洋諸島で,日本語が普及する過程には,日本による各地 の母語の抑圧と強制的な日本語普及があり,保科もその政策立案と実行に関与していたが,

そうした抑圧と強制について触れることなく,あたかも自然に日本語が学ばれたかのよう に描き出している。保科は戦中までの日本語普及を「以上のごとく,東亜諸民族は日本の 国運が進展するに伴ない,これに引きつけられて,その歴史や文化を学ぶものがあらわれ,

また貿易その他の関係から,日本語を学ぶ必要も感ずるようになったのである」とまとめ ており,あくまでも被支配民たちが必要を感じ自ら日本語を学んでいったのだと捉えられ ている(p.270)8。そして,戦中までの期間に,ヨーロッパ や北米 など の大学 にも 日本語 ・ 日本文化講座が広まっていったとして,各地の教育機関を列挙したあと,敗戦後の日本語 普及について言及する。

8 安 田(1997)も ,こ の 保 科 の 文 章 に つ い て「 日 本 語 が 強 制 さ れ た と い う 側 面 を ま っ た く 無 視 し ,特 に 旧 植 民 地 に お け る 日 本 語 の 強 制 と 植 民 地 言 語 の 抑 圧 に は 一 言 も 触 れ て い な い 」 と 指 摘 し て い る (p.400

ドキュメント内 博 士 論 文 (ページ 72-102)

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