1 「思考様式言説」の選択理由
1.1 日本人への包摂
本稿では「思考様式言説」に焦点を当て,内容と変遷を跡付けることで,序章で論じた 研究視座を具体化する。
「思考様式言説」とは,「思考様式」「発想法」「心性」など,人間の考えや心がある パターンをもつという意味を持つ用語,およびそれを意味づける記述全体のことを指す。
「思考様式言説」を分析対象に選んだ理由は,まず第一に,戦後の日本語教育学におい て,日本語学習者に対し日本人の思考様式への同化を求めるという,問題をもつ言説が存 在したからである。
1975年頃の日本語教育の論考を読むと,「思考様式言説」をしばしば目にする。「思考 様式」「発想法」などの用語は,単独では,人間の考えや心があるパターンをもつという ことしか意味しない。しかし,これらの語を含む文脈全体を考察すると,そこに重要な問 題があることに気づかされる。
その代表的な例は,宮地(1975)である。詳細は後述するが,この論考で主張されてい るのは,言語と思考様式とは相互に関係し,したがって,日本語学習者に日本人の思考様 式による「洗脳」を促すというものである。宮地は,証明の困難さを自身で述べつつも,
言語と思考様式とが規定しあっているという言明を正しい事実であるかのように自明視し,
その「正しい事実」を根拠に,日本人の思考様式で「洗脳」することが,日本語学習にお いては必要かつ当然であるかのように述べている。日本語を習得するために,精神的な日 本人化を必要条件とするこの言説は,「日本語=日本人の思考様式」という図式(以下,
「日本語=日本人の思考様式論」)を根拠に,日本人への包摂を正当化し主張するもので ある。
1.2 ナショナリズムの二重の原理
さらにまた,この記述で注目すべきなのは,学習者に対し日本人の思考様式による「洗脳」
の必要性を主張しつつも,同時にその不可能も述べている点である。宮地は,日本人の思 考様式と強く結びついているので,日本語の完全な習得は難しい,それでもなお,日本語 教師は困難だけれども日本人の思考様式を教え続けねばらならないと主張する。
ここには,日本・日本人の一体性を保証するものとして構想された日本語,それを非日 本人にも広げ習得させようとするときの亀裂が見て取れる。日本人の思考様式という,眼 に見えない内面と結びついた日本語,日本的な価値の世界的な普及という意味では日本語 とそれに結びついた日本人の思考様式も広めることが重要である。しかし,それが本当に 非日本人に広がってしまえば,日本・日本人の一体性を保証する日本語という,日本語の 機能と抵触してしまう。この矛盾を,宮地は,日本人の思考様式=日本語を,非日本人が 本当に習得しきるのは不可能だと言ってしまうことによって,乗り切ろうとしている。少 なくとも,この時点の日本語教育学は,「日本語=日本」という図式,「日本語ナショナ リズム」に規定されており,その枠組みに寄り添う形で,矛盾を含んだ理念を主張してい たということになろう。
「日本語=日本」の中に包摂しつつ排除もするという,宮地の矛盾を含んだ主張が成立 し得たのは,日本語と関連する日本的な要素が,「思考様式」という不可視のものである ためである。日本語を通じて日本的なものを広めようとする場合,日本的なものとしては,
茶道や相撲というような伝統文化や,日本人のしぐさなどの行動様式も考えられる。しか し伝統文化は,型として体系化することで,学習者に完全に習得させることも可能であろ う。また,行動様式も困難ではあるが,統計的な処理をして日本人の行動様式を抽出した 場合,それを習得させることは不可能ではない。つまり,日本語と日本人の伝統文化や行 動様式が結びついているとし,それを学ぶことを日本語習得の必要条件とした場合,非日 本人が,日本語や日本的なものを完全にマスターする可能性が開けてしまう。それでは,
日本人の統一性を守り非日本人を排除するという,近代国民国家の成立時期に日本語に期 待された役割は破綻をきたすことになる。眼に見えない,誰にも定めきることのできない 日本人の思考様式というものを日本語習得の必要条件とすることで,日本語教育を通じて 日本的なものを広めるということと,それでも日本的なもの=日本語は非日本人には完全 には習得できないということとの両方を,同時に成立させうるのである。
第1章で論じたように,ナショナリズムには包摂と排除という二つの側面がある。日本
人の伝統文化や行動様式など,目に見える要素の扱われ方を考察対象とした場合,明確に 日本人への包摂を目標とした言説のみを扱うことになる可能性が高い。それに対し,思考
様式という不可視の要素を考察することで,日本語教育学で,日本人への包摂と排除とい うナショナリズムの両面を成立させようとする言説がいつどのように存在したのかを解明 することができる。日本人の日本語を非日本人に教えるという日本語教育の場が,どのよ うにナショナリズムとの整合性を保っているのか,またそこから離れる亀裂が見いだせる のか。この問いに答えるためには,ナショナリズムの包摂という側面だけでなく,排除と いう側面も成立させる可能性を持った,思考様式という概念に焦点を当てることが適切で あると考えた。これが,本研究で「思考様式言説」を取り上げる第二の理由である。
1.3 自明の正しさ
第三の理由は,宮地の主張が,『日本語教育』という学術誌に掲載されるほどの,ある 種の本当らしさをもちえているからである。
この言説の本当らしさは,言語と思考とは相互に規定し合っているという言明が証明も 反証も難しいことからも来ている(宮地 1975: 22)。
言語が思考を規定しているという説は,一般に言語相対仮説またはサピア=ウォーフの 仮説と呼ばれている。心理言語学では,長い間,この仮説を証明・検証しようという試み がなされてきた。その試みを総括した今井(2000)は,言語が思考に影響を及ぼしている こと,言語が生得的制約と相互作用しながら思考を形成すること,という観点では,サピ ア・ウォーフの仮説は疑いないとする。ただし,思考が,異なる言語の話者間で異なるのか という点については,思考のどの側面を問題にするのか,どの認知領域を対象とするのか,
その認知領域で環境がどれほど人間に訴えてくるのか,に依存する,と述べている(p.429)。
人間にとっての言語と思考という観点からすると,言語が思考に何らかの影響を与えてい ることは間違いない。しかし,今井もいうように,どの観点でこの仮説を評価し,どの認 知領域でどの思考のレベルを問題にするのかを明らかにした上で研究しなければ,単に,
漠然と,サピア・ウォーフの仮説の正否を問題にする単純な議論をしても意味はない
(p.429) 。
また池上嘉彦(1993)は,言語相対仮説の心理言語学と認知心理学の研究成果を踏まえ,
「現実の意味処理について見た通り,そこで〈言語〉的なものをそうでないものから区別 することを試みることは殆ど無意味」(p.328)だとしている。現実をどのように意味づ けるのかという観点からすると,人間の認知に訴えてくる環境自身の性質や人間の生得的
な認知枠組みなどが,複雑に影響するのであり,もはや言語による認知と,それ以外の何 かによる認知は区別すること自体,無意味だということになる。言語とそれ以外の要素と が区別困難だとすれば,池上が言うように「「サピア=ウォーフの仮説」を検証するとい う試みが本質的に成立し難い」(p.328)ということになろう。
この池上や今井の議論から理解できるのは,言語・思考と言ったとき,それぞれが何を 意味するのかを明確に述べた上での議論でない限り,言語が思考を規定するか否かという 問いは検証も反証もしえないということである。
思考には様々なレベルが存在している。また言語については,池上のように,現実の意 味処理という点からは,単独のシステムとして抽出することが難しいという指摘さえある。
何をもって言語とするのかを定義しなければ,検証・反証をしても,その結果はお互いに すれ違うだけだろう。言語が思考を規定するか否かという問題設定は過剰に一般的なもの で,正しいとも誤っているとも言いがたい問いなのである。
しかし,過剰に一般的であるということは,この問題設定が,人それぞれによって,厳 密な意味規定がなされないまま使用され,また読み手もそれぞれの解釈で納得する可能性 を多分にもっているということである。言語が思考を規定するという言明は反証もできな い曖昧なものだが,経験的にはそうした解釈は間違いであるとも断定しがたいため,そう した言明を前提にした,宮地のような主張は説得性を帯びる。語学およびその関連分野で は,言語と思考様式との関連づけに限らず,ある概念を「正しい事実」だとみなし,それ を根拠に,特定の国民・民族・母語話者への同化/特定の国民・民族・母語話者からの排 除を正当化するということが行われてきた。このことは,大平(2001) , 山下(2001) ,
牲川(2002)などが,すでに指摘している4。日本語教育学における「思考様式言説」の
変遷という課題は,自明視されてきた言説が生み出してきた問題を明らかにするためにも,
適切であると考えられる。
この言説の自明性について確認しておきたいことは,思考と言語とが相互に規定し合っ ているという言説の内容が真に正しいのかあるいは間違っているのかといったことは問題 にしないという点である。思考と言語を厳密に定義すれば,その定義に依ってそれらの間
4 大 平 (2001) で は ,「 ネ イ テ ィ ブ ス ピ ー カ ー / ノ ン ネ イ テ ィ ブ ス ピ ー カ ー 」 と い う 用 語 が 所 与 の 事 実 と み な さ れ る よ う に な り (p.85), そ の 「 常 識 」 に よ り 「 ネ イ テ ィ ブ ス ピ ー カ ー = 標 準 」「 ノ ン ネ イ テ ィ ブ ス ピ ー カ ー = 逸 脱 」と い う 固 定 観 念 が 強 化 さ れ る と い う 危 険 性 を 指 摘 し た(p.106)。ま た ,山 下(2001)
は ,敬 語 研 究 が ,敬 語 を 美 し い 日 本 語 の 典 型 と し て 語 り ,「 正 し い 敬 語 」と い う 規 範 を 形 成 し て き た こ と を 明 ら か に し た (p.73)。 牲 川 (2002) は , プ ラ ス の 価 値 が 自 明 視 さ れ て い る 「 学 習 者 中 心 」 概 念 が , 実 は , 学 習 者 を 母 国 文 化 へ と 同 化 す る 概 念 と し て 機 能 す る こ と を 論 証 し た (pp.174-175)。