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章炳麟の排満思想 1 の変遷

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第 1 節 学者と革命家としての章炳麟 

章炳麟について、中国近代文学先駆者の魯迅は、「学問のある革命家」と評価している

「文学復古」を提唱し、古代書面語の「文言文」を重視した章炳麟と現代書面語の「白話 文」を推進した魯迅は実は仲良い師弟関係であり、中国近代史上に有名な逸話を残した。 

魯迅は一方では章炳麟を恩師として尊敬し、章炳麟が袁世凱政府に軟禁された時にも、蒋 介石政府に指名手配された時にも、章炳麟との親交を保っていた。他方では新文化運動に関 して急進派の代表として、守旧派の重鎮とされた章炳麟と意見が真っ向から対立させた。こ れは当時の梁啓超と胡適との関係にも類似している。つまり全面的な西洋化を図った新文化 運動と、梁啓超・章炳麟の世代の近代ナショナリズム及び国粋主義の展開との内在的な継承 関係を象徴しているのである。 

このような複雑な関係があるだけに、魯迅の書き残した上述の評価は冷静で客観的である と考えられている。魯迅の評価からわかるように「学者」と「革命家」は、章炳麟を理解す るためのキーワードである。 

学者と呼ばれる人は豊富な知識、高度な教養、特に専門な領域に独自な発見が必要である。

それに対し、革命家と呼ばれる人は明確な革命綱領、支配階層勢力と戦う勇気、そして多く の人々の熱血を喚起する魅力または扇動力が必要である。章炳麟は、正にこうした要素を全 て備える人である。しかも学者と革命家の特質は、彼のナショナリズム論やネーション像の 模索にも大きな影響を及ぼしている。 

そこで章炳麟のナショナリズム論の変遷に対する考察に入る前に、まず学者と革命家とし ての章炳麟を概観しておきたい。 

1.学者としての章炳麟 

学者としての章炳麟は、「国学大師」と称されている。彼の学問上の業績は、主に「国学」

に集中しているといえる。 

いわゆる「国学」とは、古代中国では、もともと国の設けた学校を指していた。周知のよ うに近世に入ると、日本の学術の発達と国家意識の勃興と伴って、儒教・仏教と区別した日 本固有の文化及び精神を明らかにしようとする学問が現れた。これも「国学」と称される。

章炳麟の「国学」はまさに日本の「国学」から転じたものであり、中国の伝統文化と精神を 研究する学問である。そのため中国で「国学」と呼ばれる章炳麟の学問は、内容的には実は

日本の「漢学」と似ているのである。 

ただ章炳麟の「国学」は、伝統文化と精神の全面的な継承ではない。具体的には、主に諸 子百家に対する研究と儒学の経書(特に『左伝』に対する研究)、そして言語学に対する研究 の三種類の内容がある。伝統文化における章炳麟の国学の位置づけを説明するために、まず 中国の儒学の発展、特に「宋明理学」と「考証学」という二つの学派を、簡単に振り返って おく必要がある。 

いわゆる「理学」は今日の数理学とは異なり、人間の道徳性や天と人を貫くことわりであ る「理」を追求することを学問とした儒学の流派である。「理学」は道教の思想を融合し、自 然・社会と人間性とをリンクする形而上学の哲学と、厳格な社会倫理観を主張している。そ して一部の理学者の中には、「天理に存して人欲を滅す」という禁欲主義が唱えられる者も多 い。日本でも大きな影響を及ぼした朱子学と陽明学は、「理学」の二大流派にあたる。 

中国では宋・元・明の三代の王朝を経て、「理学」の流派が隆盛し、儒学の主流となってい た。ゆえに、「理学」は「宋明理学」とも呼ばれる。特にモンゴル人支配の元代以降、「理学」

の解説による「四書」、即ち『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』は官吏登用試験の「科挙」の 主要科目とされてきた。 

「理学」は、封建身分制度や中華秩序をイデオロギーとして固定し、資本主義の発展を抑 制し、近代科学技術の伝播を妨げるため、ヨーロッパに発祥した近代文明とは相容れないと 考えられてきた。清末の理学の巨匠である曽国藩などは、西洋の科学技術の導入に取り組み、

洋務運動を推進した。だが政治思想や制度などに関しては、彼らは西洋の影響を排斥する傾 向があった。 

そのため「五四運動」以後、知識人たちは中国の近代文明の発展が立ち遅れた理由を、「宋 明理学」のせいにする場合が多い。吴虞は、儒学の社会倫理観である「礼教」のもとで、「人 を食う」ことも辞さないという非人間性を猛烈に批判した。この「礼教」は、特に理学で重 要視されたものである。つまり支配的な思想体系として近代文明の発展と伝播を束縛した点 で、清末の「理学」は、宗教改革直前のキリスト教を想起させる。 

しかし一方で、宋明理学の提唱した大義名分論は、早くから日本に伝わり、幕末の水戸学 の尊皇攘夷思想にも大きな影響を及ぼした。周知のように尊皇攘夷思想は、明治維新につな がる討幕運動の重要な推進力であった。日本と中国の近代化における「理学」の役割はなぜ、

それほど違ったのか。これは両国における「理学」の地位の違いと関係があると考えられる。

中国では、「理学」が政府の人材登用などで絶対的な権威を持っていた。だがそれに対して日 本では、「理学」が蘭学や国学などと並び、多くの学問の一つとして相対化された。そのため

結局、近代化の潮流に溶け込んでいってしまったのである。 

同時に明末清初から、儒学のもう一つの流派である「考証学」も隆盛していた。考証学と は経学・史学を研究し、その拠り所を古典に求めている実証的な学風・学問である。漢学あ るいは樸学とも呼ばれる。その端緒は「理学」とも関係があるが、清代に独立的な学問とし て発展してきた。黄宗羲や顧炎武が、その初期の代表者とされている。 

特に歴史学を重視する黄宗羲を中心に、浙東学派が形成された。この学派では、儒学の主 な経書である『詩』、『書』、『禮』、『易』、『樂』、『春秋』などはもともと史書であると主張さ れる、いわゆる「六経皆史」の説が唱えられていた。このような考えは従来の儒学の経書研 究に史学的視点をもたらし、後世の史学の発展にも重要な影響を与えた。 

考証学は、清代の乾隆・嘉慶年間に全盛期を迎えた。そのため、乾嘉の学や乾嘉学派とも 呼ばれる。それ以来、科挙試験のための「理学」と並ぶ、清代学術の主流の一つとなった。

清末には兪樾や黄以周、孫詒譲といった著名な考証学者がいる。ちなみに兪樾は章炳麟の恩 師であり、黄以周と孫詒譲は、章炳麟と師友の関係にあった。 

章炳麟は十四歳で科挙試験の「県試」に参加した時、突然、てんかん病を発症した。後に、

章炳麟は狂人を意味する「章瘋子」と呼ばれたことがあるが、それは主に彼の過激な政治主 張と論敵を罵倒する毒舌のためである。だが、そこには彼のてんかん病を皮肉する意味がな いとも言えない。「県試」以後、章炳麟の親たちは、彼を過酷な科挙試験に引き続き参加させ ることを断念した。それをきっかけに、章炳麟は科挙試験のための「理学」の勉強の代わり に、「考証学」の研究に没頭した。 

「考証学」が興った浙江省出身の章炳麟は、幼い時から考証学と出会い、それに深く惹か れた。1890 年、父が亡くなった後、彼は思い切って故郷を離れて、当時兪樾の主宰した「詁 経精舎」で考証学の勉強に専念した。そうした考証学の研究こそ、後に章炳麟の「国学」の 主要内容となっている。 

さて、章炳麟の考証学は具体的にはどのような特徴があるのか。考証学の研究は彼の政治 思想の変遷、特にネーション像の模索にどのような影響を及ぼしたのだろうか。 

まず、第一に考証学では、儒学の教えだけが真理と考えられずに、諸子百家の研究も儒学 と同じ地平に置かれる。だが章炳麟の場合は、特に儒学の教えに精力を傾けた。そのため章 炳麟は、「理学」を代表とする儒学の世界観に固持していない。これは、後に西洋の近代哲学 や政治思想を柔軟に受け入れるための土台を築いた。 

いわゆる諸子百家とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者と学派の総称である。「諸子」は もろもろの学者の意味で、「百家」は多くの学派の意味である。それに対する研究は、「諸子

学」とも呼ばれる。漢代以降、「儒家」は「独尊」の地位を獲得した後、「道家」「兵家」を除 く諸子百家の多くの書籍は長い間、知識人たちの間で封印された。 

しかし清代の「考証学」は、それまでの儒学と異なり、孔子や儒学経書の神聖性が希薄化 になったため、諸子百家が再び研究の視野に入ってきた。現存する章炳麟の最初の論文集『膏 蘭室札記』には、周・秦・漢代の「諸子」の著作をめぐる考証と書評がほとんどであり、そ れに対して、儒学の経書に対する研究は、わずか六分の一ぐらいである。 

諸子百家の著作の中で章炳麟は、特に『管子』と『墨子』に大きな興味を示した。 

『管子』は、春秋時代の斉国の政治家管仲に仮託して書かれた書物である。その内容は雑 然としているが、法による支配を主張した「法家」の思想が主であり、思想史・社会経済史・

農業史の史料として重視されてきた。『膏蘭室札記』で『管子』に対する考証は最も多く、四 分の一ぐらいを占めている。『管子』に対する研究を通じて、章炳麟は中国古代の法令制度や、

社会風俗などを詳しく考察を行った。 

ここに、章炳麟の考証学の一つの特徴が見られる。つまり、章炳麟は社会全体の環境に大 きな関心を寄せている。経書に対する研究でも、僅かな字句に孔子の隠された真の意図を読 み取ろうとする「微言大義」にとどまらず、当時の法令制度、社会風俗などを参照しながら、

実証的な考察を行っている。 

『管子』に次いで考証が多いのは、『墨子』である。『墨子』は、戦国時代の魯国の思想家 墨翟の著書である。平等な博愛主義である「兼愛」と非戦論の「非攻」を主として主張し、

儒学の思想「仁」を差別の愛として批判した。『墨子』に代表される「墨家」は、かつて儒家 と対抗できる大きな集団であったが、秦の「焚書坑儒」で壊滅的な打撃を受け、さらには漢 代以降主流となった儒学の排斥を受け、次第に消えてしまった。『墨子』も、長い間に知識人 たちに顧みられていなかった。 

章炳麟は「儒墨」という論文で、墨子の「兼愛」思想を支持している。孟子はかつて、墨 子の「兼愛」思想を、「(目に)父がいない」(「無父」)、つまり親孝行でないと批判していた が、章炳麟は墨家が実は孝行を重視することを考証し、孟子の批判を反駁した。ただ章炳麟 は、1915 年の「原墨」と晩年の「諸子略説」で、「兼愛」は支配者のとるべき姿勢であり、

普通の民衆は取るべき姿勢ではないと主張している10。事実、章炳麟の辛亥革命を機に「排 満」から「五族共和」への支持に転換したことには、彼の「兼愛」に対するこうした理解が 窺える。 

『管子』や『墨子』といった著作に関しては、「理学」を信奉する儒学者たちからみると、

まったくの異端である。だが、章炳麟はかえって非常に興味が湧いた。それだけに彼は後に

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