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「民族主義」をめぐる孫文の固持と妥協

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第1節 革命家と政治家としての孫文 

孫文は政治家としても革命家としても、中国の近代史上有数の指導者である。この評価に ついては恐らく誰にも異議がないであろう。しかし、「政治家」と「革命家」とはそもそもど のような相違があるのか、孫文自身の中にその二つの側面の特性がどのように併存したのか、

ネーション像の模索においてそうした特性はどのような影響を及ぼしたのか。こうしたこと についてそれほど関心が払われていない。 

広辞苑で調べてみたら、「政治家」という言葉には二つの意味がある。一つは、「政治にた ずさわる人」である。もう一つは、「(比喩的に)政治的手腕があり、かけひきのうまい人」

である。ここからわかるように、「政治家」と呼ばれる人々は、多少でもかけひきまたは妥 協が上手な現実主義者の性格を持っていると考えられる。 

一方、「革命家」という言葉は意味がわりあい単純なようである。「革命の実現を志す人。

革命運動に専ら従事する人」と書いてある。言い換えれば、旧権力の打倒と新権力の樹立と いう明確な目標を持ち、その目標の実現のために一生懸命に努力する人である。普通は「革 命家」と呼ばれる人々は自分の信念を貫く理想主義者の性格を持っていると考えられる。 

つまり「政治家であり革命家でもある」と呼ばれるには、「政治家」としての現況に基づいて 物事を処理する手腕と、「革命家」として既存の政治構造を徹底的に改造するビジョンとを併 せ持たなければならない。ゆえに、孫文と同時代の章炳麟は革命家と呼ばれるが政治家とは ほとんど考えられていないし、また袁世凱は政治家と考えられるが革命家とは呼ばれない。 

政治家・革命家と評価された孫文には、正にこの理想主義者と現実主義者の性格が兼備さ れている。「民族主義」・「民主主義」と「民生主義」といった「三民主義」の高潔な理想を掲 げ、金銭に執着せず、楽天家で押しが強く、最期まで百折不撓の闘争を繰り返し、章炳麟と 比べても勝るとも劣らない革命家の精神を示した一方、生死を懸けた政治闘争を勝ち抜くた めに、合従連衡策を講じて帝国主義の列強諸国に援助を求めたり軍閥と手を結んだりし、ず る賢い政治家の一面も示した。特に袁世凱に先駆けて「二十一カ条」と類似した条件の「日 中盟約」を結んだので、その「民族主義」がスローガンにとどまるのではないかと疑われて もしようがない。結局その革命理論と政治実践には大きなかい離が見られる。 

ゆえに横山宏章は、「一方に見られる理想主義的な革命理論と、他方で展開された現実主義 的政治実践――この孫中山における二つの側面をどのように統一した形で孫中山を語るべき であろうか。また、混沌とした中国の社会の中にあって、国民統合への道を歩み始めた孫中

山の政治指導における苦悩はいかなるものであり、その政治指導を可能にした政治的権威と はなんであったのだろうか。こうした課題を克服、整理することで、孫中山の政治を再構築 しなければなるまい」といったアポリアを提起した。 

横山は、それまでの孫文研究が美化された孫文の政治思想に偏りすぎていると判断し、政 治的効果の追求を重視するという孫文の特性をその「政治行動」の側面から見出した。しか し、孫文自身は自分の思想と行動との明らかなかい離に気付いていなかったのか。もし彼が それに気付いていたのなら、その間のギャップを埋めようとしていたのか。思想と行動との かい離を埋めるための努力はどのように彼の思想に反映したのか。本章では横山の指摘を踏 まえながらあえて横山の批判したアプローチ、即ち孫文の政治思想に焦点を当てる考察を通 じてこうした疑問を検証してみたい。 

具体的に言えば、本研究の核心であるネーション像の模索に関しては、孫文の提唱した「民 族主義」は前後相矛盾というべき何回もの大きな転換が見られる。それは彼の認識の深化に 起因した場合もあれば、時勢の圧力を受けてやむを得ず転身した場合もある。そうしたなか に、信念を貫くための理想主義の側面と現実に順応するための現実主義の側面が併存してい る。しかも彼自身の中に理想主義の固持と現実主義の妥協を統一しようとした努力が行われ た。本章では、「民族主義」をめぐる孫文のこうした固持と妥協を考察する。 

第2節 先行研究と本研究の位置づけ  1.先行研究 

中国では、孫文の「民族主義」に関する研究は、年々増加し続けている。不完全な統計で は、1970 年代までには孫文の「民族主義」をテーマとする論文は数篇しか見られなかったが、

1980 年代には十六篇、1990 年代には二十三篇、2000 年から 2009 年現在までには、四十数篇 にものぼる。これは中国の社会科学に対する研究が次第に盛んになってきたという傾向を反 映すると同時に、国民国家の統合は政治の焦点となり、「民族主義」に対する注目が急激に高 まっているためでもある。 

そうしたなか、孫文の民族主義について理論的な根源と社会的な根源が存在すると指摘さ れている。理論的な根源としては主に四つの要素、即ち伝統的な族類思想、太平天国などの 農民による反満の要請、欧米のナショナリズム、及び改良派の維新変法論が挙げられる。そ して、社会的な根源として主に帝国主義の侵略と清王朝の民族的圧迫が挙げられる。 

李沢厚は「論孫中山的思想―民族主義与民生主義」で、孫文の民族主義について、「その現 実的な源を言うと、太平天国や義和団等に見られる農民の反満の要請を受け継いだうえに、

さらに進化したものである」と指摘している。孫文の民族主義の理論的源泉を農民の反満の 要請に限定した。 

それに対して、張磊は「論孫中山的民族主義」で、孫文が「欧米から自由解放の思想を受 容した」と同時に、「農民階級や社会下層の民族革命闘争の路線を受け継いだ」、さらに「中 国の民族独立と解放の課題と中国社会の資本主義化とを繋ぐ改良派の観点をも受け入れた」

と指摘している。欧米の民権思想や改良派の影響を取り上げた。 

そして、李時岳・趙矢元は『孫中山与中国民主革命』で、「反満思想は主に封建的大漢民族 主義の「華夷の弁え」に由来した」、満漢の間の衝突は清王朝前期から一時沈静化したものの、

清末になって再び激しくなったのは、「『反満』と資産階級民族思想の結合」の結果だと指摘 している。孫文のナショナリズムの源泉を古代の族類思想に遡らせた。 

さらに李光燦は「論孫中山的民族主義」で、孫文の民族主義について「帝国主義の侵略と 清朝における民族の圧迫の社会条件のもとで生まれたのである」と述べている。外部侵略と 内部の民族圧迫にその民族主義の源泉を見出した。 

上述した先行研究のなか、李時岳・趙矢元の研究は 1980 年代に行われたが、残りのほとん どは 1950 年代に行われたものである。孫文のナショナリズムに関する研究は増加し続けてい るものの、上述した研究の観点を踏襲した場合がほとんどである。ただ、1990 年代以後の孫 文研究には新しい傾向も見られる。 

一つは新しい視角より孫文の民族主義を考察することである。例えば王蓓は『孫中山―政 治心理思想研究』で、孫文のナショナリズム論の特徴や制約要素を分析した。王蓓は基本的 にこれまでの孫文研究の観点を受け継いでいるが、政治心理学というアプローチを提示する のが示唆に富む。 

もう一つは「新史料」を掘り下げることを通じて孫文に対する再認識を行うことである。

ここの「新史料」とは必ずしも新しく発見された史料ではない。多くの場合は、これまでに 孫文の偶像化のもと認められていなかった史料である。例えば李敖は『孫中山研究』で、李 鴻章への謁見やロンドンでの拉致事件、及び二十一カ条をめぐる認識などを検証し、従来の 多くの定説を覆した10。張海林は「辛亥革命前後革命派人士『民族主義』重探」で、孫文の ナショナリズム論は中華民族と帝国主義列強との矛盾を無視し、中華民族内部の矛盾だけに 目を向けるので、狭隘なナショナリズムに過ぎないと批判した11。こうした研究は、偶像論 から一歩進んで等身大の孫文の人間像にせまっており、孫文の民族主義の多面性を浮き彫り にした。 

日本には孫文研究の長い歴史がある。孫文と同時代の宮崎滔天の『三十三年の夢』、北一輝

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