第1節 エリート・ナショナリズム
1.エリートによるナショナリズムの受容
以上、第 2、3、4 章では章炳麟・梁啓超及び孫文のネーション像の模索の過程を追跡して きた。この三人は通常、ブルジョア革命の代表的人物と考えられており、彼らは政治制度の 改革や商工業の発展、教育の改革、近代的学術の振興などを主張している。こうした主張は 中国の近代化や資本主義の発展を促進したのが、この三人自身の出身は必ずしもブルジョア とはいえない。
三人のなかで家が最も豊かであった章炳麟でさえ、地方の地主出身であり、梁啓超は自作 農、孫文は小作農出身であった。孫文の場合は幼少期、兄の孫眉がハワイで農場主となった ので、強いて言えばブルジョアの階層に入ったが、残りの二人の出身は何れもブルジョア階 級とは無縁であった。彼らの生い立ちの共通点は、一つは高度な教養を受けたことであり、
もう一つは強い影響力を持っていたということである。あえて彼らの出身を一つのカテゴリ ーに帰納すれば、ブルジョアというよりはむしろエリートと言ったほうがより適切であろう。
章炳麟・梁啓超及び孫文の三人とも初めは、列強による略奪と分割の危機から清王朝を挽 回しようと考え、維新変法論を主張した。一見、そうした主張はナショナリズムによるに見 えるが、当時の彼らの「われわれ」意識の基軸はネーションに置かれていたわけではない。
章炳麟は最初の政論「アジアは自ら唇歯たるべきことを論ず」で他者の「白人」対「われわ れ」の「黄色人種」の構図を取り上げたが、梁啓超は初期の著作の「変法通議」で儒学的コ スモポリタニズムに基軸を置いていた。そして、孫文は最初の政論の「農功」では、国を治 めさらに天下を安ずるということに立脚していたのである。
こうした議論のなかで、「国」としての王朝の利益・黄色人種の利益・天下の利益が図られ たが、ネーションの利益は論じられなかった。そうした認識の下、彼らは列強諸国の数々の 特権や日清戦争後の領土の割譲などに頑なには反対しなかった。その後、一連の失敗や挫折 を経て、彼らは漸く国民国家が主役である国際秩序を認識し、自分の基軸を天下や黄色人種 からネーションに移したのである。
さて、彼らの「われわれ」意識の基軸が最初ネーションに置かれていなかったとしたら、
列強による略奪や分割に対する危機意識はどこからきたのだろうか。そうした危機意識は、
どのように政治制度の改革や国のあり方の見直しの主張にまで発展したのだろうか。
危機意識とは人間の本能である。ヒトは自分の置かれた環境が著しく変化すると誰しも、
危険回避のための緊迫感が生じるであろう。清末の列強諸国による利権拡張への対応の度重 なる失敗は、章炳麟・梁啓超及び孫文の生活に直撃しなかった。だが彼らを大きく震撼させ た。そうしたなか現状を改善し、危険を回避させようとする危機意識が自然に生まれた。
しかし本能で危機意識が生まれても、因循守旧の風習のなか、そうした危機意識は必ずし も政治制度の改革や国のあり方の見直しの主張につながらない。章炳麟・梁啓超及び孫文ら が維新変法を訴え、さらにネーション像を模索したのは、危機意識以外に儒学の「経世」の 思想とも大きな関係がある。
儒学はもともと政治の実践に応用される思想体系である。宋代以来、学問は現実の社会問 題を改革するために用いられなければならない、ということが明確に主張されてきた。それ は即ち「経世」の思想である。明末清初の顧炎武・黄宗羲・王夫之らは「経世」の思想を積 極的に唱導している。「経世」の思想は江戸時代の日本にも見られる。
康有為や梁啓超が孔子の「微言大義」を自己流に解釈し維新変法論を訴えたのは、まさに
「経世」思想の具現化である。章炳麟は幼少から既に顧炎武・黄宗羲・王夫之らの影響を受 け、「経世」の思想がその学問の生涯を貫いていたといえよう。儒学の教養が相対的に浅い孫 文の場合でも、「農功」や李鴻章への上申書にも「経世」の思想の影響が窺える。いわば儒学 の「経世」の思想は、本能的な危機意識と政治制度の改革及び国の在り方の見直しの主張を つなぐ架け橋といえよう。
「経世」の思想の下、ナショナリズムの受容やネーションの結成は列強に対抗するための 方策として取り上げられた。章炳麟は「欧米の奴隷の奴隷」とならないように「排満」を提 唱し始めた1が、梁啓超は民族帝国主義に対抗するために民族主義を唱えた2。そして、孫文 も列強による「分割の憂き目」がゆえに「韃虜を駆逐」することを主張した3。つまり、彼ら にとって均質なネーションを結成しなければ、列強の拡張に対抗できなかったのである。
章炳麟・梁啓超及び孫文に代表される中国のエリート・ナショナリズムと、のちに出現し た大衆ナショナリズムとの大きな差異の一つはここにある。エリート・ナショナリズムとは、
エリートたちが主役であるナショナリズム運動を指している。それが広がりつつあり、一般 の大衆が主役となれば大衆ナショナリズムという。大衆ナショナリズムではネーションの利 益の追求そのものが目的であるが、エリート・ナショナリズムの初期ではネーションの利益 を追求するどころか、ネーションの結成ということ自身が手段としてとらえられていたので ある。
2.ネーション像が異なる原因
第 1 章で述べたように、章炳麟・梁啓超と孫文はそれぞれ清末のエリート層の異なるタイ プの代表者である。章炳麟は満州族支配と距離を置いた儒学者の代表者であるが、梁啓超は 満州族支配に協力的な儒学者の代表者である。そして孫文は西洋式の教育を受けたエリート の代表者である。彼らの個人背景の違いにより、その描き出したネーション像も大きく異な っている。
西洋式の教育を受けた三人のなかで、孫文は最も早くナショナリズムを受容しネーション 像を模索した。1895 年の「興中会」の秘密宣誓で孫文が主張した「韃虜を駆逐し、中華を回 復し、合衆政府を創立する」というビジョンは、一見、明太祖朱元璋の「胡虜を駆逐し、中 華を回復する」というスローガンと類似し、伝統的な「族類」思想を踏襲したようであるが、
実はそうではない。なぜならば「合衆政府を創立する」ということも提起されたからである。
これは民衆の主権というネーションの中核に触れている。
「合衆」という言葉は「連邦制」と誤解される場合が多い。これは恐らく United States の訳語「合衆国」と混同されるせいであろう。実際、「合衆」とは幕末から明治初期に日本で 発案された訳語であり、「共和制」(Republic)、即ち民衆から元首を選ぶ制度、または「民主 主義」(democracy、democratic)という意味である。孫文は伝統的な族類思想に民衆の主権と いう政治原則を加味したことで、その最初のネーション像を描き出すことができたのである。
孫文に続き維新変法の失敗で日本亡命した梁啓超は、1899 年に「愛国論」を提唱し、その 後「国民」・「国民競争」・「民族」・「民族主義」といった一連の概念を次々と受容し、「支那民 族」・「中国民族」・「中華民族」・「大民族」というネーション像を模索しはじめた。梁啓超は
「排満」すべきかどうかを巡り、揺れ動いたこともあるが、1903 年に、満・漢・蔵・蒙・回・
苗などの諸族を合一する「大民族」のネーション像を描き出した。
三人のなかで最も遅くナショナリズムを受容したのは、章炳麟である。これは章炳麟が西 洋の近代文明と直接に接触した経験が相対的に少ないという原因がある。章炳麟は最初、当 時に流行した人種主義に惹かれたが、台湾亡命した間に満・漢で分断された清王朝の社会構 造の改正を取り上げ、「客帝」という構想を打ち出した。しかし義和団事件の時期に、中央政 府を改革の突破口とする「勤皇」の期待が幻滅し、地方政府を改革の突破口とする「分鎮」
の構想も失敗した。そうしたなか彼は、「士の愛国、民の敵愾」のための「排満」を主張する ようになり、「士」と「民」が一丸にする均質なネーション像を模索しはじめたのである。
その後 1905 年、革命派の機関紙の『民報』の創刊をきっかけに、章炳麟と孫文に代表され
ている革命派と、梁啓超に代表されている改良派は「『排満』すべきか」、「『革命』すべきか」
をめぐり激しい論戦を展開した。なぜ章炳麟・梁啓超と孫文は異なるネーション像を描き出 したのだろうか。ネーション像に関する彼らの確執の原因はどこにあるのだろうか。
章炳麟・孫文と梁啓超のネーション像に関する論争の焦点は「排満」の問題にある。「排満」
を言えば、まず「族類」思想の影響を取り上げる必要があろう。というのは、「排満」の主張 は「族類」思想の延長線上に位置付けられる場合が多いからである。
実際には章炳麟と孫文の唱えていた「排満建国」の主張は、既に歴史上の「族類」思想と は質的な差異が存在している。前述したように、歴史上の「族類」は「われわれ」意識の共 同体であるが、「われわれの」という意識が存在しなかった。それに対し、孫文と章炳麟の「排 満建国」の主張には「われわれ」意識だけではなく、「われわれの」という意識も見られる。
言い換えれば、前近代の「族類」思想では主権は帝王に所有されるものとされたが、章炳麟 と孫文の「排満建国」論では主権は共同体内の全ての人々に共有するものとされている。
ただ、章炳麟と孫文の「排満」思想の萌芽が「族類」思想を起源としたのは事実である。
それは章炳麟と孫文の二人とも、幼少時代からの満州族に対する不満不平を吐露しはじめて いるからである。章炳麟の場合、王船山や顧炎武の著作や親族から「排満」の族類思想を受 け入れたが、孫文の場合、太平天国運動の影響を受けた。その後、ナショナリズムの政治理 念のもと、こうした「排満」思想の萌芽は清王朝の腐敗ぶりや無能さに対する憤慨、並びに 列強の略奪と分割に対する危機意識を触発し、過激な「排満」論にまで発展した。
では章炳麟と同様に儒学者である梁啓超はなぜ、「族類」思想に感化されていなかったのか。
それは彼の置かれた儒学の流派がもともと「族類」思想を否定しているためである。梁啓超 は師匠の康有為に従い「公羊学」を鼓吹し、「族類」思想の理論根拠である「左伝」を偽書と していた。そのため、梁啓超は「族類」思想に同感を抱いておらず、維新変法時期に満・漢 の合一を主張していた。
「族類」思想の影響の有無といった原因のほかに、章炳麟・梁啓超と孫文、三人の体験も 描いたネーション像の差異と大きな関係がある。
梁啓超は少年時代に挙人に合格した。挙人は必ずしも実の職を任命されるわけではないが、
既に基層官僚の候補者となっていた。維新変法時期に、彼はさらに光緒帝に五品官を授けら れ、師匠の康有為を補佐し維新変法を推進した。当時は普通、県知事は七品官であり、県の 上級行政単位の州の知事は五品官であった。このことから、こうした体験をもつ梁啓超には 為政者の立場に立脚し物事を考える傾向が見られるといえよう。
為政者としてはあえて分裂や動乱を煽動することがないわけではないが、普通は分裂を危