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梁啓超の「大民族」論の構築

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第1節  ジャーナリストと変革者としての梁啓超 

梁啓超は清末から民国初期にかけて活躍した風雲児である。彼はどのような人物であった のだろうか。立場と着目点により見方はずいぶん異なっているが、中国では長い間に梁啓超 に対するマイナスの評価が圧倒的に多かった。その理由は簡単である。一つには思想史の研 究において、梁啓超は単なる康有為の追随者と位置付けられるためである。もう一つには梁 啓超は当初清政府を、後には北洋政府を支持したので、中国の「民主主義革命」に反対する 凶悪な敵と見なされるためである。 

章炳麟と孫文への評価は梁啓超とは対照的である。章炳麟と孫文の場合、清王朝を完全に 打倒するという明確な革命の綱領を持っていただけでなく偶然の一致であるが、二人とも最 終的には共産党との連携を主張することに転じたため、国民党政権の下でも高く評価された が、中華人民共和国が成立した後もプラスの評価が圧倒的に多かった。 

さて、梁啓超に対する上述の評価は果たして適切なのだろうか。 

まず梁啓超と康有為との関係を見てみよう。梁啓超の早期の思想は、確かに康有為から大 きな影響を受けた。戊戌変法前後における彼の維新変法論は、師匠の康有為の主張を敷衍し たものが多い。しかし、梁啓超が後に提唱した「史学革命」・「詩界革命」・「小説界革命」は 既に康有為の主張を遥かに超え、「十分とは言えないにせよ」、それぞれの分野の「進むべき 方向を示した」。特に日本亡命をきっかけに、彼は康有為の儒学的コスモポリタニズムから 次第に離脱し、「国民」や「民族」といった概念の導入、及び国民国家の創出に必要な政治・

経済・法律・教育の近代理念の受容に取り組んだ。今日の中国では康有為の維新変法論の名 残はほとんど見られなくなったが、梁啓超の多岐にわたる議論、特にその「大民族」論や「国 民」論は連綿と受け継がれており、近年では再び脚光を浴びるようになった。 

次に梁啓超と革命派との関係を見てみよう。梁啓超が改良主義を唱え、清政府や北洋政府 の内部で改革を図り、孫文を代表者とする革命勢力と激突したことは事実である。ただ梁啓 超は、1902 年に小説界革命の象徴として発表された政治小説『新中国未来記』で、既に共和 政府の成立を予言していた。その国号は、「大中華民主国」である。偶然ではあるがこの架空 の「大中華民主国」が 1912 年に成立したとされ、中華民国の成立した年とも重ねられている。

しかも大中華民主国の成立は皇帝の自発的な退位により実現したとされ、溥儀の退位の経緯 とは異なるものの、微妙に似ている。そこからわかるように梁啓超は清王朝打倒の革命派の 綱領に反対したが、その最終的な目標は革命派と一致している。 

梁啓超が清政府や北洋政府に寄せた期待は結局何れも外れてしまい、その政治家としての 生涯は失敗したとしか言えない。だが梁啓超が革命に反対する主な理由、即ち革命により国 の分裂や列強の干渉が引き起こされるという見通しは、不幸なことに後年、見事に当たった のである。彼は既存の国体を崩壊させるための勇気は欠如しているが、その先見の明は否定 できない。梁啓超の改良主義の主張は決して荒唐無稽な空理空論ではなく、その中に理性的 な思考に基づいた部分があるといえよう。 

梁啓超自身は民国成立後、「現在の国勢及び政局は、この十年余りの間に激烈と温和両派の 人士の心力で共同して築き上げたものである」とし、改良派の功績を自賛した。このような 言い方は革命派から見ればとんでもない理屈であるが、必ずしも梁啓超の独り善がりの説で はない。梁啓超は長年、自由と民主の精神を提唱し、1910 年以降清政府の改革の怠慢を激し く非難し、辛亥革命や中華民国の成立のための世論の動員に取り替えられない役割を果たし たからである。 

要するに梁啓超を単なる康有為の追随者や、もっぱらに革命に反対する政客としてまとめ 括ることができない。では、梁啓超の人物像をどのようにとらえたらいいのだろうか。政治・

外交・財政・文学・歴史学といった幅広い分野における梁啓超の思想と活動を整理して評価 を加えるのは筆者としてとても力が及ばないことであるが、少なくとも本研究の関心の所在、

即ちネーション像の模索と関連する部分に限ってみれば、梁啓超は近代中国でナショナリズ ムを啓蒙したジャーナリスト、そして既存の国体のもとで変革を図ろうとする変革者と言え よう。しかもジャーナリストとしての特質から梁啓超がいち早くナショナリズムを受容し、

広い分野で大衆を啓蒙したことと、政治革命を拒絶し、改良主義を唱えた変革者としての特 質は、彼の描いたネーション像を清王朝の支配した版図に重複させる。 

1.ジャーナリストとしての梁啓超 

今日では、辛亥革命により革命派の勝利、改良派の失敗が告げられたと考えられる場合が 多い。当時の世論にも共和の国体を成立した以上、改良派の人間は政治に係ることは許さな いという声もある。しかしその当時、辛亥革命を受けて旧改良派は一時、意気消沈したにも かかわらず、梁啓超の人気度が損なわれることはなく、中華民国が成立してから彼が死去す るまでのその人生の最後の十数年間、梁啓超は言論界のリーダー役をつとめた。 

1912 年、梁啓超は十四年の亡命生活を終え天津港を経由して北京に帰った時、盛大な歓迎 ぶりに感無量であった。娘の梁令嫻に宛てた書簡で、彼は「上は総統府や国務院の諸人以下、

間に合わなかったら大変だとばかりによろめき走り、下は社会全体が『国を挙げて狂するが

若し』という有様」と述べ、さらに(迎えに来る人々は)「孫(文)と黄(興)が北京に来た 時に比べると十倍以上」と自慢気な口調で回顧した。 

むろんその盛大な歓迎ぶりの背後には、梁啓超を持ちあげて孫文らの革命派と対抗させる 袁世凱らの意図も窺える。ただ梁啓超は長年の文筆活動によって、当時、最も有名な知識人 として「人気を一身に集めていた」といっても過言ではない。 

その言論界での絶大な影響力ゆえに、1915 年袁世凱は帝政を復活させようとした際、梁啓 超の「異なる哉、いわゆる国体問題なる者!」という帝政復活を批判する文章に敏感に反応 し、二十万元という高額の賞金を出し、その文章の印刷刊行阻止を試みることとなる。だが 結局、梁啓超に断られ頓挫してしまう。 

ちなみに、二十万元はどのくらいの金額であろうか。当時、米一升(約 1.5 キロ)は約六 十銭であったという。1912 年、フランスを学び政府系の研究院を成立する計画があったが、

袁世凱政府は最初に年経費十五万元と考えていた。簡単に換算はできないが、当時の二十万 元はおおよそ今日の十数億円近くに相当する大金である。 

梁啓超は当時、なぜそれほどの強い影響力を持っていたのだろうか。それは彼の精力的な ジャーナリズムの活動と大いに関係がある。梁啓超は『中外紀聞』、『時務報』、『清議報』、『新 民叢報』、『国風報』といった新聞・雑誌の主筆を担当したことがある。彼の「変法通議」や

「新民説」など多くの重要な著作は、最初はその上に連載という形で発表されたのである。 

特に横浜で出版された半月刊の『新民叢報』は、前後五年九カ月、九十六期までを発行さ れ、最高発行部数は一万四千部に達した10。今日では一万四千部は決して多いとはいえない。

だが、出版物が少なく高いことや識字率が低く読者が少ないこと、そして日本と上海の租界 を根拠地とせざるを得ないといった当時の事情を鑑みて、『新民叢報』は驚異的な人気を誇る 雑誌であったといえよう。 

梁啓超の思想に関しては賛否両論がある。だが、そのジャーナリストとしての資質を否定 する人はほとんどいない。たとえ思想史学者の李澤厚のような厳しい視線で梁啓超の思想を 見ている研究者さえも、その「宣伝家」の役割を高く評価している11。 

ここで梁啓超のジャーナリストとしての側面を強調するのは、彼が立派な新聞編集者や寄 稿家であるためだけではなく、そのジャーナリストの特質が彼のナショナリズム啓蒙活動と 大いに関係があるためである。 

梁啓超は常に新しい知識を求め、広い分野で高度な議論を広げ、時代の流れを敏感に受け 止め、自分の観点を絶えず修正し、難しい政治理念をわかりやすく大衆に伝えている。よく 考えるとそうした特徴は、まさにジャーナリストの特質である。梁啓超はこうした特質を備

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