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―フランスにおける政策的背景―

前章ではフランスやその他の国でどのような記憶の承認が行われ、それらがどのように 条件づけられているのかを検討してきた。その結果、被害者を生む政策や行動が発生して から補償や謝罪の要請までの時間の経過が比較的短く、法的根拠が明確な場合に法的承認 と価値評価による承認が実現し、その他の場合は、両方の様式による承認が実現すること は難しいことが明らかになった。したがって、フランスの公的機関がアルジェリアの記憶 を承認した点については、時間の経過が比較的短いため、限定的には価値評価が行われて いるものの、法的根拠がない場合がほとんどであるため、法的な承認はほぼないといえる。

だが、なぜ価値評価という様式で、第 1 章で示してきたようなアルジェリアの記憶の承 認を公的機関が行ったのかは明らかにはなっていない。本章では、フランス政府によるア ルジェリアの記憶の承認の政策的背景を検討し、なぜ1990年代以降に公的な記憶の承認に いたったのかに迫り、本研究の仮説を導出する。特に本章では、記憶の承認と移民統合お よび国民的結合との関連に注目する。

本章で移民統合と国民的結合に注目する理由は以下のとおりである。本研究で取り上げ る記憶は個人よりも、大小を問わず特定の集団が有するものであり、集団が有する記憶を 政府や自治体が承認する、もしくはしないという決定は、その集団を公権力がどう扱おう としているのか、という問題に直結する。また、記憶は集団および個人のアイデンティテ ィを構成する、言い換えれば自分が誰なのかを規定する要素の一つであり、記憶を承認さ れるかどうかは集団や、集団に属する個人のアイデンティティに深く影響する。たとえば、

記憶を承認され、フランス社会やフランス政府に認められているという思いを抱けば、集 団や個人はこれらに忠誠心を持ったり、これらが提唱する考えを受け入れたりする可能性 が高まる。こうした忠誠心や考えの受け入れはアイデンティティの変容と捉えられる。以 上に鑑みれば、記憶の承認は、政府等の権力が社会の成員に持たせようとするアイデンテ ィティと関わっている。つまり、公権力にとって記憶を承認するかどうかは必ずしも加害 者と被害者の間の和解に直結せず、社会の成員の統制において重要な政策課題だといえる。

したがって、政府によるフランス社会の成員の扱い方、そして、政府が成員に持たせたい アイデンティティに関わる領域に位置づけられる移民統合と国民的結合に関わる政策は、

本研究が光を当てる記憶の承認と密接に関わっていると考えられる。そのため、本章では 移民統合と国民的結合を取り上げる。

第1節 移民の問題視から移民統合および国民的結合へ 第1項 移民統合政策の背景と意図

第 1 章では第二次世界大戦後という国際政治の広い文脈の中でどのような記憶の承認が あったのかを紹介したが、同時期に西ヨーロッパでは国内に在住する移民および今後流入

する移民をどう扱うのか、という問題が重視されるようになった。記憶の承認要請と移民 が問題視されるようになったことは決して無関係ではない。国内外から記憶を承認するよ う働きかけたさまざまな出自の人々を国家がどう扱うかに関わっているからである。アル ジェリアの記憶について国内で働きかけを行う人々の多くは当事者、つまり実際に植民地 支配や独立戦争を経験した者である。その一部はフランスに在住するアルジェリア国籍者 やアルジェリアに出自を持つフランス国籍者である。したがって、移民を国家がどう扱う のかは記憶の承認および承認要請と密接に関係している。

西ヨーロッパで、政治家が移民を問題視し始めたのは主に1970年代からである。1970年 代のオイル・ショック以降続く不況の中で、市民の間および一部の右派の政党が移民を敵 視するようになったことに由来する。移民に関わる政策も1970 年代から 1980年代にかけ て、大きく様変わりした。フランスでは1974年から経済移民の受け入れを中道右派のヴァ レリー・ジスカール・デスタン (Valérie Giscard D’Estaing) 政権が停止し、さらに、フラン ス在住の移民を出身国へ帰国させる政策にも取り組んだ。この帰国政策は、帰国する移民 に手当てを支払うもので、主にアルジェリア人移民を対象としていた。しかしながら、実 際にはスペイン人とポルトガル人の手当て申請者が大半を占め、申請者の内アルジェリア 人はわずか4%にとどまったため、政権にとっては失敗だったといえる1。さらに、右派政権 は移民の入国を制限しようとしたが、1981 年に政権交代が生じ、左派が政権を担ったため に、ジスカール・デスタン政権が考えていたようなよりいっそう厳しい入国の制限は実現 しなかった2。ところが、経済情勢の悪化は、1983年以降の PSによる移民政策をジスカー ル・デスタン政権時のものに近づける結果となり、右派と左派で大きな差はなくなった。

すなわち、左派政権も移民を帰国させる政策を実施した。したがって、1970 年代までは左 派と右派で移民の受け入れをめぐって相違が見られたが、1980 年代からは顕著な違いがな くなり、移民政策は制限強化の方向へと進んでいった。

またヨーロッパのレベルでは、1980年代から、とりわけ1985年からシェンゲン加盟国籍 者とシェンゲン非加盟国籍者、つまり第三国国民の間で移動に関わる扱いが変わった。す なわち、シェンゲン加盟国の国籍者はシェンゲン圏において自由に移動できるのに対して、

第三国国民はシェンゲン圏に入るに当たり、より強力な入国審査を受けることになった。

言い換えれば域外国境の管理がより厳格になり、域外の国籍者の入国が制限された。した がって、不況が続く中、フランスおよびヨーロッパのレベルで、移民の入国制限がはから れた。この時期から徐々に人の移動は安全保障の問題として捉えられるようになり、1990 年にはヨーロッパレベルでテロリズムや国際犯罪と移民が結び付けられるようになった3。 その後、欧州連合 (European Union, EU) レベルでは、マーストリヒト条約で第三国国民の

1 Gastaut, Yvan. « Français et immigrés à l’épreuve de la crise (1973-1995) », Vingtième siècle.

Revue d’histoire, no.84, 2004, p.109.

2 Ibidem, p.109.

3 Huysmans, Jef. ‘The European Union and the Securitization of Migration’, Journal of Common Market Studies, vol.38, no.5, 2000, pp.756-757.

移動に関わる制度が導入され、ヨーロッパ諸国で共通した移民政策における制限強化が先 鋭化していった。マーストリヒト条約以降のEUにおける移民政策は必ずしも入国制限を重 視するわけではなく、1999 年のタンペレ・プログラムでは第三国国民の権利保障が重視さ れた4。ところが、2001年9月11 日のアメリカ同時多発テロにより、第三国国民の移民を 安全保障の観点から捉えるEUの見方は強まった5

一方で、移民が国民の雇用を奪っているといった排外主義的言説が市民の間で浸透して いった。最も顕著な現象は極右政党の台頭であろう。1979年にはイタリア、そして1980年 代に入りフランスやオーストリアなど多くの西ヨーロッパ諸国で極右政党が選挙で躍進し た。だが、冷戦下において極右政党は移民を敵視していたと同時に、強い反共の色を帯び ており、極右政党にとって共産主義と闘うことが最重要事項であった。1990 年代に入って から東西対立の解消もあり、極右政党のみならずさまざまな政党が移民の扱いをより重要 な課題として取り上げるようになった。この頃には多くの極右政党が国政や地方あるいは 欧州議会の選挙で議席を獲得し、2002年にはフランスの国民戦線 (Front National, FN) 党首 であったジャン=マリー・ルペン (Jean-Marie Le Pen) が大統領選挙の決選投票に進出する にいたった6。特に排外主義が矛先を向けるのはアラブ人やイスラム教徒である。アメリカ の同時多発テロがフランスを含む多くのヨーロッパ諸国で反イスラム主義を定着させた7こ とにより、この傾向は一層顕著になった。

移民受け入れ制限を強化していきつつも、国内において排外主義をなくし、移民を社会 に参加させるべくフランス政府が重視した概念が「統合 (intégration)」である。1989年にミ シェル・ロカール (Michel Rocard) の内閣が創設した統合高等評議会 (Haut Conseil à

l’Intégration) は、統合に過程と政策の二つの意味を見出している。過程は「共有された原則

の尊重を中心に構成された社会の構築にフランスに住む人々全体が効果的に参加すること」

である。政策は「社会的結合を地域および国のレベルにおいて維持するべく行う活動」で あり、その目的は「法律の遵守と自らの権利・義務の実行が可能な中で、各人が平和的に、

そして正常に生活できること」である。つまり、統合は移民だけを対象とするのではなく、

受け入れ社会の成員も移民を受け入れる側として努力することを求められる。その点にお いて、統合は移民と受け入れ社会の成員の対称な関係を前提としているように思える。実 際に、移民が有する受け入れ社会との差異を排除する非対称な「同化 (assimilation)」と異

4 土谷岳史「シェンゲンのリスクとEUの連帯」福田耕治編著『EUの連帯とリスクガバナ ンス』成文堂、2016年、150頁。

5 Karyotis, Georgios. ‘European Migration Policy in the aftermath of September 11: The Security-migration nexus’, Innovation: The European Journal of Social Science Research, vol.20, no.1, 2007.

6 Perrineau, Pascal. « La montée des droites extrêmes en Europe », Études, no.397, 2002.

7 実際に、2001年9月11日以前は、 « islamophobie » をフランスの新聞はあまり取り上げ ていなかったが、テロ事件をきっかけに多く取り上げるようになった。

森千香子「フランスにおける『イスラームフォビア』の新展開とその争点」、『日本中東学 会年報』20巻2号、2005年、323-351頁。

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