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―ホロコースト、奴隷貿易・奴隷制および植民地支配を中心に―

第二次世界大戦後において記憶をめぐる議論は、しばしばホロコーストなどといった特 定の被害やより広い文脈で第二次世界大戦などを中心に行われた。ケドワードが指摘する とおりフランス国内では植民地支配の記憶がホロコーストの記憶と関連付けられた。

本章ではまず、フランスにおける記憶の承認を軸としながら、第二次世界大戦後、どの ような記憶がどのように公的に承認されたのかを考察する。とりわけ、ヨーロッパと深く 関わる奴隷貿易・奴隷制、ホロコースト、そして植民地支配の記憶の承認に焦点を当てて 論じていく。そして、フランスにおける記憶の承認を理解するために、国際的な背景がい かなるものだったのかを検討する。そのために、2001 年の第三回反人種主義・人種差別撤 廃世界会議、いわゆるダーバン会議を取り上げ、その意義を考える。最後に、加害国によ る記憶の公的な承認をいくつか取り上げ、簡単に比較し、フランスによるアルジェリアの 植民地支配と独立戦争の記憶の承認のあり方の理解を深める。

国際的な比較を主題としている研究は存在している。キャシー・パワーズ (Kathy Powers) とキム・プロクター (Kim Proctor) は大規模人権侵害に対する金銭的補償を行った国のデー タを基に、次の三つの結論を出している1。まず、「移行期正義」の仕組みを多く運用してい る国の方が補償を行う傾向にある。つまり、補償以外に真実委員会、裁判、恩赦といった 仕組みを一つの事案につき多く運用していれば、補償の可能性は高くなる。次に、経済的 に裕福な国の方が補償を行う傾向にある。移行期正義の仕組みにはコストがかかるため、

予算を割ける国の方が補償を行うことは想像に難くない。最後に、民主主義的体制の国の 方が補償を行う傾向にある。

パワーズらの研究は何が金銭的補償を可能とするのかを明らかにしたが、本章では、金 銭的補償、すなわちホネットのいう法的関係における承認のみならず、価値評価による承 認も含め、何が記憶の承認を可能とするのかを検討する。こうすることで、過去の問題に 対して、どのように加害国が行動するのか、というより一般的な問題に対する理解が深ま ることが期待される。そのため、本章では、法的承認に該当する補償に加え、記念碑や記 念館を建てる、といった本研究が最も関心を寄せる価値評価にも言及していく。なお、以 下では、補償を被害に対する被害者への金銭の給付という意味で使用していく。

第1節 ホロコーストの記憶

第二次世界大戦後において、世界的に記憶が公的に承認されたのはホロコーストである。

公的承認の例として1953年にイスラエルにできたヤド・ヴァシェム (Yad Vashem) の記念

1 Powers, Kathy L. and Kim Proctor, “Victim’s Justice in the Aftermath of Political Violence: Why Do Countries Award Reparations?”, Foreign Policy Analysis, doi: 10.1111/fpa.12076, 2015.

館や、イスラエルで開かれた1961年のアドルフ・アイヒマン (Adolf Eichmann) の裁判が挙 げられる。また1968年には、ホロコーストの加害者を引き続き訴追するために、人道に対 する罪を時効不適用とする「戦争犯罪および人道に対する罪に対する時効不適用に関する 条約」2が国連総会で採択された。1970年には首相だったヴィリー・ブラント (Willy Brandt) がワルシャワを訪問し、ゲットー英雄記念碑の前でひざまずいた。

こうした公的な記憶の承認が実現した理由は、敗戦国ドイツが行った罪であり、さらに その残虐性が唯一無二であるとする評価であろう。冷戦の終結とともにホロコーストの記 憶の公的な承認はさらに増え、東西ドイツが統一した後の1993年には、首相であったヘル ムート・コール (Helmut Kohl) が国家追悼のためにノイエ・ヴァッヘ (Neue Wache) に施設 を設置した。これを皮切りに、ベルリン市内で多くの記念碑が建てられた。また、国家に よる承認のみならず、冷戦終結に伴い国家が多くの公文書を開示し、新たな研究が可能と なり、ドイツ社会が再度ホロコーストへ関心を寄せたのである3

以上に鑑みると、ドイツ政府がユダヤ人の記憶を承認する行為は遅かったといえるが、

一方で、占領された西ドイツは1947年からユダヤ人の財産返還を行った4。そして、占領期 後も西ドイツは返還や補償を行うための法律を制定した。ただし、東ドイツでは返還や補 償はほぼなかった。

フランスでは、1973年にロバート・パクストン (Robert Paxton) が著した『ヴィシー時代 のフランス』5の仏訳の出版に伴い、ホロコーストにおけるヴィシー政権の責任が明るみに 出て、学界および社会に衝撃を与えたが、国家による記憶の承認には至らなかった。国家 のレベルでは、立法府が 1964 年に人道に対する罪を「その性質上、時効が適用されない」

と定めた法律を制定している6。条文にはホロコーストへの直接的な言及はないが、ニュル ンベルク裁判の基本法である1945年8月8日の国際軍事裁判所憲章(いわゆるロンドン憲 章)への言及がある。そのため、ホロコーストの記憶に関わる法律であるといえる。さら に、1972年には差別撤廃法7が制定され、公共の場における「特定のエスニック・グループ、

国、人種もしくは宗教に属しているもしくは属していないこと」8に基づく差別を禁止して いる。ここでも、直接的なホロコーストへの言及はないが、ユダヤ人に対する差別が念頭 に置かれてこの法律は制定された。そのため、ホロコーストの記憶と関わる法律の一つで

2 Convention on the Non-Applicability of Statutory Limitations to War Crimes and Crimes Against Humanity.

3 ダン・ストーン『ホロコースト・スタディーズ―最新研究への手引き―』(武井彩佳訳)、

白水社、2011年、(原著は2010年)、208-209頁。

4 武井彩佳「第二次世界大戦後のヨーロッパにおけるユダヤ人財産の返還―近年の返還訴訟 の歴史的起源―」『比較法学』39巻3号、2006年。

5 原著は次のとおり。

Paxton, Robert. Vichy France : old guard and new order, 1940-1944, Columbia University Press, 1972.

6 Loi no.64-1326 du 26 décembre 1964.

7 Loi no.72-546 du 1er juillet 1972.

8 Loi no.72-546 du 1er juillet 1972, art. 1er.

あるといえる。

ホロコーストの記憶を国家が明確に承認する最初の動きは、1990 年のゲソ法である。第 1条が示すように、この法律は1972年の差別撤廃法を踏襲している。そして第9条は、ロ ンドン憲章の定義に基づき、実際に行われたと認められる人道に対する罪の存在を否定す る行為を罰する、と規定している。つまり、人道に対する罪の訴追を可能とするために時 効を不適用とした法律や反ユダヤ主義的言動を取り締まる手続きを可能とし、差別という より広い問題を対象とした1972年の法律に比べ、ゲソ法は明確にホロコーストを前提とし ている。また、ホロコーストの記憶を否定する行為を罰する、という点において、ゲソ法 は特定の記憶を承認するものとして捉えられる。ゆえに、この法律は記憶の承認を主たる 目的とする「記憶関連法」第一号としてたびたび語られる。

国家がホロコーストでユダヤ人の迫害に関与したことは1995年にジャック・シラクが演 説で認めた9。ヴェロドローム・ディヴェール (Vélodrome d’Hiver) で大量検挙事件があった 1942年7月16日および17日に「フランスの警察官と憲兵が上官の権限の下で、ナチスの 要求に応えた」とし、「啓蒙思想と人権の祖国であり、歓迎と保護の地であるフランスは取 り返しのつかないことをしました。約束を破り、保護すべき者を人殺しに引き渡したので す」とシラクは演説で述べている。この演説は、対独協力を行ったヴィシー政権はフラン スの正統な政権ではなく、ユダヤ人などの迫害においてフランスは国家として責任を負わ ない、とするドゴールをはじめとする過去の指導者たちの主張を否定している点において 画期的といえる。そのため、この演説で初めて国家の責任が公的に認められた、とされる。

さらに司法の場では、モーリス・パポンの裁判がホロコーストの記憶を再度呼び覚まし た。パポンはヴィシー政権下の1942年から1944年の間の行為に対し、1997年に人道に対 する罪に関与したとして有罪判決を受けた。実に50年以上の時を経て、パポンは裁かれた。

この裁判は個人の罪を裁くと同時に、ホロコーストを忘却してはならない、というメッセ ージを強く発することとなり、メディアはホロコーストのテーマを普段よりも多く取り上 げた。この裁判は司法の場においてホロコーストの記憶を承認したといえよう。

以上のとおり、長い年月を経てホロコーストの記憶は公的に承認されるようになった。

また、さまざまな形式で承認された。演説や裁判、法律の制定を以てフランスは国家とし てホロコーストの記憶を承認したのである。なお、記憶の承認までかなりの時間がかかっ たが、終戦前からフランスではドイツの支配下で奪われた財産を返還する法令はあった10。 また、最初に触れたとおり、フランス以外の国でも多様な形でホロコーストの記憶は承認 された。ここで取り上げていない多くのホロコーストの記憶を承認する施設や記念日が世 界には存在する。

以上から、フランス国内のみならず、世界各地でホロコーストをはじめとする記憶が徐々

9 Avec le Président Chirac, Allocution de M. Jacques Chirac, président de la République, prononcée lors des cérémonies commémorant la grande rafle des 16 et 17 juillet 1942, 1995.

10 武井彩佳、前掲論文。

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