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―アルジェリア在住フランス人史料センター (CDDFA)―

スペインとの国境付近に位置する南フランスの都市、ペルピニャン市で2012年に「アル ジェリア在住フランス人史料センター (Centre de Documentation des Français d’Algérie, CDDFA)」という施設が開館した。ペルピニャン市と引揚者団体である「アルジェリアニス トの会 (Cercle Algérianiste, CA)」が協力し開設にいたった。その常設展は植民地支配を肯定 する内容になっている。本章では、このセンターがなぜそういった展示内容にいたったの かを考察する。この事例を取り上げ、自治体と市民団体が一体となって事業を進める様相 を描いていくと同時に、第 3章および第 4 章で取り上げた事例との相違点を浮き彫りにす る。そのために、まずは「アルジェリア在住フランス人 (Français d’Algérie)」とかつて呼ば れ、現在では一般的にピエ・ノワールという呼称で知られる引揚者について説明したのち、

CDDFAを概観し、その展示内容を分析する。その後、ペルピニャン市と引揚者の関係を解

明する。結論を少々先取りすると、ペルピニャン市と引揚者、その中でもCAという引揚者 団体が特別な関係にあったことが展示内容に大きく影響したとともに、CAの実態はフラン スの共和国モデルが否定しているはずの共同体の権利要求および閉鎖的様態にあたるにも かかわらず、コミュノタリスムとして批判されなかったことを本章では指摘する。

本章で取り上げるCDDFA以外にも、いくつかの南フランスの自治体でアルジェリアの植 民地支配を肯定する記憶の承認の事例はあった。たとえば、1973 年にはニース (Nice) で、

1980年にはトゥーロン (Toulon) で、そして2005年にはマリニャーヌ (Marignane) でアル ジェリアの植民地支配を肯定し、OASのメンバーを慰霊する記念碑が建てられた1。加えて、

トゥーロンの記念碑の落成式には当時行政担当大臣だったジャック・ドミナティ (Jacques

Dominati) も参加しており、政府もわずかながら関与している場合があった2。ただし、ドミ

ナティの行動は政府の姿勢を明らかにしているものではなく、与党の RPR、つまり自身の 所属政党からのちに批判が殺到した3。この点はペルピニャンのCDDFAと決定的に異なる。

明確に植民地支配を肯定しながら、自治体の支援を受け、オープニング・セレモニーで国 務大臣や大統領の「お墨付き」といえる事後的な肯定をCDDFAは得た。

第1節 ピエ・ノワール、帰還者、アルジェリア在住フランス人など―呼称と法制度―

アルジェリアの独立戦争を機にアルジェリアからフランス本土に移住した人は 100 万以

1 INA. « Repères méditerranéens - Inauguration d'un monument à l'Algérie Française à Toulon », http://fresques.ina.fr/reperes-mediterraneens/fiche-media/Repmed00433/inauguration-d-un-monume nt-a-l-algerie-francaise-a-toulon.html, consulté le 6 novembre 2016.

2 Le Monde, « Des associations de rapatriés contestent l'action de M. Dominati, secrétaire d'État », http://abonnes.lemonde.fr/archives/article/1980/06/17/des-associations-de-rapatries-contestent-l-acti on-de-m-dominati-secretaire-d-etat_2805965_1819218.html, consulté le 6 novembre 2016.

3 Bertrand, Romain. « Propos de bois, paroles de pierre : la controverse autour du « fait colonial » », Vacarme, no.38, 2007, p.92.

上に上る。その内60万人以上は、独立戦争の最後の年である1962年に移動している4。ア ルジェリア独立から40 年経った 2002年にはアルジェリアからフランスに、のちに詳述す るように「帰還」した、と認められた者が96万9466人いた5。以下では、独立戦争時もし くはその直後にアルジェリアからフランス本土に移動した人たちをめぐる呼称および法制 度を概観していく。

ピエ・ノワールとは直訳すれば「黒い足」であり6、日常会話の中で「彼女は/彼はピエ・

ノワールだ」などといった形で、人の出自に言及する際に用いる言葉である。この言葉で 指し示される人々は明確ではない。エマニュエル・コンタ (Emmanuelle Comtat) は、アルジ ェリアに在住していたヨーロッパ人、すなわちフランス人、スペイン人、イタリア人など と、セファルディムやベルベル人のユダヤ人で7、アルジェリア独立時にフランス本土に移 住した者をピエ・ノワールと呼んでいる8。ジャン=ジャック・ジョルディ (Jean-Jacques Jordi) もセファラディムを「ユダヤ系ピエ・ノワール」として認めている9。ただし、セファルデ ィムのアルジェリアにおける歴史はフランスによる侵略よりもはるかに古く、さらに少な くとも1870年までセファルディムは法律上フランス国籍でありながら、フランス市民では ない「原住民 (indigène)」だったため、アルジェリアに住むヨーロッパ系住民とは多くの点 で異なる経験をしたことに留意するべきだ、とジョルディは指摘している。

また、チュニジアとモロッコに在住していたヨーロッパ系住民をピエ・ノワールに含め るかという問いにも議論の余地はある。ジョルディは、チュニジア、アルジェリア、モロ ッコの三ヶ国において、ヨーロッパ系住民の割合や移動の歴史が異なる、と論じている10。 そのため、こうした異なる地域に住んでいた住民を一括りにする一般的な言説や、自らを

4 Moumen, Abderahmen. « De l'Algérie à la France. Les conditions de départ et d'accueil des rapatriés, pieds-noirs et harkis en 1962 », Matériaux pour l’histoire de notre temps, no.99, 2010, p.

60. 5 Diefenbacher, Michel. Parachever l’effort de solidarité nationale envers les rapatriés : promouvoir l’œuvre collective de la France outre-mer, 2003, p.6.

6 言葉の起源には諸説あり、1830 年にアルジェリアに上陸したフランス軍の靴が黒かった ことが起源だと一般的には理解されているが、異論を唱える者もいる。ジョルディによれ ば、アルジェリアの先住民はフランス軍や入植者を指す独自の単語を持っており、先住民 がフランス語の言葉を彼女ら・彼らにあてる必要性はなかったはずである。おそらく、1930 年代から1950年代にかけてモロッコに住むヨーロッパ系住民を指す言葉だったと思われる。

ただし、かつてはアルジェリアの内陸地方に住むアラブ人を指す際にも使用された言葉で ある。したがって、この言葉は当初は多様な意味で使用されていたが、アルジェリア独立 戦争後は広くヨーロッパ系の住民でフランス本土に移住した者を指すようになったといえ る。Jordi, Jean-Jacques. Les Pieds-Noirs, Le Cavalier Bleu, pp.17-24.

7 マグレブ地域におけるユダヤ人の歴史は長く、バンジャマン・ストラによれば、フェニキ ア人とヘブライ人がすでに紀元前11世紀に移住していた。

Stora, Benjamin. Les trois exils Juifs d’Algérie, Stock, 2006, p.11.

8 Comtat, Emmanuelle. Les pieds-noirs et la politique : quarante ans après le retour, Presses de la Fondation Nationale des Sciences Politiques, 2009, p.15.

9 Jordi, Jean-Jacques. op. cit., pp.33-34.

10 Ibidem, pp.35-42.

ピエ・ノワールと称するチュニジアやモロッコで生活していたヨーロッパ系の人々に対し て、ジョルディは異論を唱えている。三ヶ国のヨーロッパ系住民に共通する点は、故郷か らの移動、移動の際の状況、移動先の社会、すなわちフランス本土の社会との関係、そし て、本土の人々が移動してきた人に対して持っている認識である11

このように、ピエ・ノワールというカテゴリーに誰を含めるのか、という問題は極めて 論争的である。

一方で、ピエ・ノワールたちを含める他の呼称も存在する。法的には「帰還者」と呼ば れる者がおり、1961 年の法律では次のように定義されている。すなわち、帰還者とは「フ ランスの支配下、保護下、信託統治下にかつてあった領土に在住しており、政治的出来事 により、その地を離れざるを得なくなった、もしくは、そのように判断したフランス人」

である12。この定義に基づけば、アルジェリア独立戦争でフランス軍の側で戦った先住民で、

フランス本土に移住したハルキも帰還者に当たる。

とこ ろが、植民 地支配 下で はムスリム の先住民は 「フランス 人ムスリム (Français musulmans)」や「ムスリム原住民 (indigène musulman)」とされ、ヨーロッパ系住民の「アル ジェリア在住フランス人 (Français d’Algérie)」もしくは「アルジェリア在住ヨーロッパ人

(Européen d’Algérie)」とは区別されていた。1865年の元老院令によれば、「ムスリム原住民

はフランス人である。ただし、引き続きイスラム法の支配下にあることとする。(中略)ム スリム原住民は、申請によりフランス市民の権利を享受することが認められ得る。その場 合は、フランスの市民的および政治的法律の支配下に置かれる」となっており、フランス 市民権を「帰化 (naturalisation)」により取得することは可能だった13。しかし、帰化前はイ スラム法の支配下にあっても帰化後はフランス法に従うことが条文では規定されており、

「コーランの規定する個人の生活に関わる諸習慣の放棄」が帰化には必要だった14。ムスリ ムとしての身分を保持したいと考える多くの者が帰化を申請しなかったため、1865 年から 1962年まで約7000名のムスリムのみが帰化した。より詳しく説明すれば、ここでいうムス リムとは必ずしも個人の信条とは関係がなく、数少ないキリスト教に改宗した者も自動的 にフランスの市民権を取得できたわけではなく、1865年の元老院令第 1条に基づく申請を 行わなければならなった。行政は、ムスリムの出自を持つ者は「原住民」としてイスラム 法の支配下にあり、改宗は法的身分を直ちに変更するものではないとみなしていた15。一方

11 Jordi, Jean-Jacques. op. cit., p.41.

12 Loi no.61-1439 du 26 décembre 1961, art. 1er.

13 Sénatus-Consulte du 5 juillet 1865, art.1er.

Sartor, J-E. De la naturalisation en Algérie (Sénatus-Consulte du 5 juillet 1865) : musulmans, israélites, européens, Retaux Frères, 1865, pp.61-62.

14 第2条ではユダヤ人に関してもほぼ同じ内容の規定がある。なお、1870年のクレミュー 法によりユダヤ人はフランス市民権を得られた。そのため、アルジェリアのユダヤ人とム スリムの間には法律上の大きな違いがあったといえる。ただし、1940 年にヴィシー政権が 生まれると、クレミュー法は廃止される。

宮島喬『一にして多のヨーロッパ―統合のゆくえを問う―』勁草書房、2010年、152-153頁。

15 Weil, Patrick. « Histoire et mémoire des discriminations en matière de nationalité française »,

で、同元老院令第3条は「3年間にわたるアルジェリアにおける滞在を証明することにより、

外国人はフランス市民の権利を享受することが認められ得る」とのみ定めており16、アルジ ェリアのムスリムの先住民よりも、のちに入植したイタリア人、スペイン人やマルタ人の 方が容易にフランス市民権を有する「アルジェリア在住フランス人」になれた。さらに、

1889 年にはフランス生まれの親の子供にフランス国籍を与えるという出生地主義に則った 法律が制定され、アルジェリア生まれのヨーロッパ系住民の子供はフランス国籍を自動的 に取得できるようになった17。ただし、これは国籍取得の条件緩和による権利の拡大、とい うよりも、人口減とそれに伴う兵力の低下を恐れた政府がより多くの兵士を動員できるよ うにした結果である18

したがって、ムスリムは過酷な差別に遭っていたといえる。しかも、この差別は市民権 取得の有無にとどまらない。なぜならば、「原住民」とされる人々はいわゆる「原住民法」、 つまりフランス市民に適用されない取り締まりや罰則を規定する「特殊」な司法の支配下 に置かれていたからである19。こうした差別は「フランス人ムスリム」と「アルジェリア在 住フランス人」という同じ国籍を持った国民のカテゴリーを固定化し、国民の間の分断を 維持した。さらに、「原住民」をイスラム法の支配下に置く、と定めながらも、フランス政 府は「原住民」を対象とした独自の抑圧的な法制度を整備した点は、欺瞞に満ちていると いえよう。付け加えれば、1865年の元老院令第1条第2項に基づき、政府はフランス人で ある「原住民」を兵士として動員することができた20。つまり、「原住民」はアルジェリア で市民権を取得することが困難でありながら、特殊な司法制度による取り締まりおよび抑 圧にさらされ、権利が限られていた一方、国の兵力として動員された場合には応じなけれ ばならない、という義務を課されていた。ゆえに、著しい権利の制限に加え、市民権を享 受する者と同じ義務を「原住民」と見なされた者は押しつけられた。

以上に鑑みれば、「帰還者」という呼称は現代の法律上のくくりであり、植民地支配下に おける法律上のくくりとは大きく異なる。ところで、ハルキになった「フランス人ムスリ ム」や、のちにピエ・ノワールと呼ばれるようになった「アルジェリア在住フランス人」

は多くの場合代々アルジェリアに住んでおり、異なる法的身分でありながら、アルジェリ アで生まれ育った点に共通点がある。そのため、「帰還」という語を不正確、不適切と考え る当事者は少なくない。たとえば、CAの代表だったモーリス・カルマン (Maurice Calmein) は「押し付けられた『帰還者』というレッテルを我々はほぼ全員一致で拒絶する」と述べ Vingtième siècle : Revue d’histoire, no.84, 2004, p.8.

16 Sénatus-Consulte du 5 juillet 1865, art.2.

Sartor, J-E. op. cit., p.63.

17 Weil, Patrick. op. cit., pp.7-8.

18 Massot, Jean. « Français par le sang, Français par la loi, Français par le choix », Revue européenne des migrations internationales, vol.1, no.2, 1985, p.9.

19 Merle, Isabelle. « De la « légalisation » de la violence en contexte colonial. Le régime de l’indigénat en question », Politix, vol.17, no.66, 2004, p.143.

20 Sénatus-Consulte du 5 juillet 1865, art.1er. Sartor, J-E. op. cit., p.61.

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