最終節となる本節では、研究の限界と課題を研究対象と範囲、現時点の研究蓄積の点か ら記述し、本稿の考える知財活動の特質を最後に述べ本稿の締め括りとしたい。
3-1 研究対象と研究範囲の限界及び課題
3-1-1 研究対象の限界と今後の課題
本稿で研究対象としたのはキヤノンのインクジェット事業化過程における知財活動及び 知財活動と開発活動の協働の過程である。研究対象企業のキヤノンは、1937年に設立され たキヤノンの前身である精機光学研究所がカメラの製作を手掛けていたことから設立当初 から海外の特許文献を読むという企業文化を持ち、また1960年代にゼロックスの特許網を 破った経験から日本企業のなかでも早くから知財活動の重要性を全社的に認識していた企 業である。また知財活動を重要視している企業文化に加え、人材、資金、工場等の生産設 備などの各種リソースに恵まれた日本を代表する企業の 1 つであり、研究を進めるにあた り、リソースからの知財活動及び開発活動の制約をそれほど勘案する必要はなかったとい える。
一般に権利化に値するような画期的な基幹技術を開発して製品化過程へ技術を展開して いくような研究開発型企業では製品化から収益を上げられるまでに長期間を要するケース が多い。キヤノンのインクジェット事業化過程においても、ヒット商品となるBJ10v の発 売は1990年であり、1977年の基本特許の出願から10年以上が経過している。この間はイ ンクジェット事業からは収益が確保できず、特に苦しい時期は1985年~1990年までの開発 成功直前の時期であった。それでもインクジェット技術開発を続けていくことができたの は、事務機消耗品を取り扱い、最も収益を上げていた化成品事業部がインクジェットの技 術開発の赤字も含めて丸ごと引き取ってくれたという背景が存在する(岩井,1997,太 田,2014)。キヤノンほどリソースに恵まれていない研究開発型企業の知財活動ではイノベ ーションに結び付くまでどのように持ちこたえるのか、という企業維持力と持久力との関 係性はより重要な側面といえる。
ここでいう企業維持力とは、リソースをやり繰りしながら経営体として企業存続を維持 する力であり、企業維持力に劣る企業とは一概に中小企業を想定するものではない。規模 小体であっても、限られたリソースを事業局面に応じて柔軟に活用している企業は数多い。
本稿で研究の目的とした知財活動の領域と定義、知財活動の運営の仕組みや開発活動の協 働の意義等やまた知財活動の戦略への組み込み方も知財活動に割けるリソースによって変 化していく可能性もある。知財活動を限られたリソースに結び付けて、いつどのように使
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うのかという知財活動と企業のリソースの調達と配分・運用の視点やまたリソースそのも のをいかに創造していくのか(武石・青島・軽部,2012)という視点は、2章3-5節に記述した ように企業と知的財産権に関する研究蓄積が少ないという事実を踏まえれば、今後実務と 知財活動に関する研究成果の融合という領域においてプレゼンスを増すのではないかと考 えられる。
本稿では成功事例としてキヤノン1社を分析対象としている。明石(2018)が指摘するよう に成功事例の分析はサンプルバイアスとなる可能性もあることを考えれば、今後は知財活 動で結果を出すことができなかった企業の事例を併せて検討する必要がある。本稿では 4 章でシャープの緊プロの事例を知財活動に苦慮した企業例として挿入したが、系統だった 考察が不十分であり、成功・失敗の比較という水準には至っていないと思われる。今後は、
知財活動の成功・失敗の評価基準をどのように設定するのかという評価尺度の定義を含め ての比較分析が必要となってくるだろう。
3-1-2 研究の範囲の限界と今後の課題
本稿で対象としたのは、6章で裁判事例を扱ってはいるが、主に特許の権利化に向けての 段階であり、部門間の協働という点では開発活動という上流過程との協働に注目している。
本稿5 章5-5 節の必須特許の出願件数にみるように、知財活動は製品開発のプロジェック ト組織による協働よりも更に上流に活動の力点が置かれる活動である。この領域はFFE活 動と呼ばれ 1990 年代以降研究が進展している。しかし、FFE 領域の研究成果を知財活動 に結び付けた研究は少なく、製品開発前段階から知財活動との協働を掘り下げるという観 点は今後の研究における重要な論点の1つとなろう。
企業の知財活動には権利化の他にもライセンス戦略や訴訟への対応能力も含まれ、企業 の知財活動の力として、今後はこれらも含めて検討することが必要であろう。特に訴訟へ の対応能力は実務上非常に重要な能力として位置付けられている(久野,2006)。なぜならい くら特許権そのものが強力であっても、訴訟を提起する力と勝訴する力がなければ特許権 がないのと同じ状況となるからである。
また知財活動を企業に根付かせるために実務者が重要と指摘するのは、知財活動を各部 門活動に浸透させることである。今後は開発活動との協働という視点だけではなく、知財 活動とマーケテイング部門の協働、営業部門との協働といった視角からの検討も興味深い 研究テーマとなろう。
本稿では 2 章で述べたように経営学的見地からの企業のマネジメントが法学的見地と経 済学的見地をつなぐ環だとみなしている。上述のような経営学的見地から製品開発過程の 川上から川下までを包括する企業の知財活動領域全般に関する知見が積み重ねられること によって法学的見地と経済学的見地からの研究蓄積の再解釈と 3 つの見地からの成果の相 互作用により領域を統合する新たな見地を拓く理論的可能性もあるであろう。
127 3-2 本稿で考える知財活動の本質
3-1節にみるように、本研究には多くの課題が残され、得られた知見はささやかで限定的 なものであるが、最後に研究を通じて本稿では知財活動をどのように捉えているかについ て言及しておきたい。
成功した製品開発過程が必然性を持った合理的なプロセスの連鎖として記述される傾向 があるが、実際には事前に計画されたプランは大まかな方向性を決めるには役立つかもし れないが、開発の現場では次々に出現する予期せぬ出来事にその場で対応するしかないと いうのが解釈主義的立場に立つ論者が指摘している点(石井,1993)であり、現場における判 断や行為の重要性が強調されている。確かに行為をプランとして事前にすべて決定するこ とは不可能であるし、有効であるとも思えない。事前のプランと実際の行為との関係性を いかに解釈するのかという観点からは、サッチマン(1999)が述べているミクロネシアの人々 の航海手法に関する次のような事例が1つのヒントになる。
カロリン諸島の現地人たちは日常的に陸地が見えないような航海にカヌーで出かけ、航 海者たちは航海のどの時点においても、出発した港、目的地の島、航路からそれた場所に ある島々の方向性を見えなくても示すことができる。彼らは見ることができない陸地を他 の参照物、特に星道(star path)により代替することで航路を保っている。星道は島と島の間 を通る地図を構成しており、星道への方向を一定に保つために、彼らは星だけではなく、
海水の色、波、風、雪、鳥などの周辺環境を利用し続けるのである。
サッチマンはこの事例をあらかじめ想定されてプランが明確な形では存在しないという 例として用いているが、星道という目印を航海者自らが創ることができるとしたらどうだ ろうか。つまり上述の例では、航海者の行為の基盤はプランではなく、星道と周辺環境を 利用することにあるのである。
開発活動と協働した知財活動による権利化とは、事前のプランと解するのではなく、企 業自らがおかれた環境を解釈した結果創出した新たな環境でもあり、開発という行為に先 立つ参照物ともなる。すなわち、知財活動の権利化の本質とは、権利化という二次元で示 された技術思想を用いて、開発過程がおかれたその時々の環境や文脈、可能性に呼応しな がら、イノベーションにつながる技術思想という星道の道筋をつくることにあるのではな いだろうか。またミクロネシアの人々が用いる星道は恒星儀や星座を参考にされており、
星道の構成要素のとなる星の選択や解釈は人々が行うものである。企業においても知財活 動が抽出した技術思想を実際にいかなる有体物として実施品とするのかという技術思想か ら製品化への展開は開発活動において行われる。このような視点から知財活動と開発活動 の協働をみる時、知財活動が拓いた脈路はイノベーションという苦しい道筋を辿る開発活 動の星道にきっとなるのだろう。