本章の目的は、開発活動と知財活動のタスクフローの違いに注目し、インクジェットの 事業化過程における開発活動と知財活動の協働の意義を明らかにすることであった。
6-1 両活動の協働の意義
5 節で述べたインクジェットプリンターの事業化の過程からみるように開発活動は技術 的困難を乗り越えながら販売に向かって製品という解を導出していく過程であると理解で きる。それに対して知財活動は、開発活動が見つけた解を着想の発明化や発明の構造化を 用いて、事業に貢献する権利化に仕立て上げていく活動である。そこでは、解という実施 形を上位概念の技術思想として権利化する活動が行われ、開発活動とは逆に一義的な解に、
多数の実施形を包摂する戦略的多義性と言えるような技術思想を付与する活動であると理 解することができる。
開発活動とともに知財活動を行う意義は、当該企業の知財活動が持つ発明の構造化を行 う力に大きく左右される。すなわち、2-1-2節で述べたように開発活動が導いた解をそのま ま権利化するのでは「社会貢献」にしかならず、事業に資する知財活動を望むことはでき ない。反対に優れた発明の構造化を行う力を持つ知財活動が開発活動と協働すれば、実施 形ではなく、技術思想として権利を確保することができるため、事業に大きく貢献するこ とが期待できるといえる。
キヤノンにおいても発明の構造化の力が当初から優れていたわけではなく、1963年に出 願された電卓(キヤノーラ 130)に関する特許にみるように技術思想の抽出がうまくいかず、
権利化が失敗したとされる事例もある。少し長い引用となるが、着想の発明化と発明の構 造化の違い及び発明の構造化の重要性がよく表れている例だと考えられるので下記に記述 する。
「開発者と外部の弁理士と私(丸島)が、電卓を前にして一晩寝ずに考えました。どのように特 許申請をしたらよいのかということです。この時点では何が発明なのか、誰も理解していま せんでした。もちろん素晴らしい発明であることは全員がわかっているのです。しかしそれ をどのように特許として表現したらよいのか、それが分からないのです。技術がわかるもの は特許がわからない、特許のわかるものは技術が分からないというわけです(丸島,2002,p58)」
「結局時間切れで目の前にある試作品の中身を全部書いて特許申請しました。しかしこれは
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特許申請の仕方としては最低の方法です。発明の本質的な思想を捉えずに、単にひとつの実 施形態を書いただけなのです。これでは発明の範囲を広く押さえることはできませんし、事 業化してもすぐに真似をされてしまいます。実はこの発明の大きなポイントはテンキ―式で あるということだったのです。1964年のビジネスショーに出品した他の二社がいずれもフル キーだったことや、しかもテンキー式がこの時点で世界初であったことを考えると本当に悔 やまれる仕事となりました(丸島,2002,p59)」
電卓の開発は経営陣にも秘密で進められていた開発であり、キヤノンの知財部門に在籍 し権利化を担当していた丸島にとっても開発部門からの突然の権利化の依頼であり、無理 からぬ面もあると思われるが、丸島はこの失敗を二度と繰り返すまいという決意がその後 の知財活動に対する仕事への活力になったと振り返っている(丸島,2002)。
この電卓の権利化失敗事例からも明らかなように、単に開発者と知財部門が協働するだ けでは、権利化はできても事業に貢献できる可能性は低いということである。協働が成功 するためには、発明の構造化を実施する力を持つ知財活動が企業に存在することが前提と なる。この観点から 4 章で述べたような知財活動と開発活動が協働を行う組織的な仕組み は重要であるとみられる。また 1 章で述べた三位一体活動もこのような知財活動の能力を 保有することではじめて効果が挙がる活動であるともいえるのではないだろうか。
ここまでにみてきたように、端的にいえば発明の構造化の力とは 解を技術思想に昇華 させる能力であり、プロセスということであろう。そのプロセスは正しいとされる道筋が あらかじめ存在するというものではなく、技術思想を権利化としていかに位置付けるか、
という自社の技術の事業化や市場との関連から決まってくるのである。もう少し踏み込ん で考えれば、このプロセスこそが知財活動が解をいかに捉えて技術思想に仕立てて、公開 するのかという知財活動が行う解釈を含むものである。これを図示すれば図表5-20のよう になる
図表5-20 開発活動の発明の構造化と開発活動の解との関係
発明の構造化
知財活動の解釈 解 解
開発活動の探索・試行錯誤
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6-2 キヤノンの知財活動における数値限定特許の意義
知財活動の意義として先行研究においても実務上でも広い特許を取得することが望まし いこととみなされてきた側面がある。しかし広い特許を取得できるような画期的な発明は 頻繁になされるものではなく、また上位概念の特許だけで実際の製品化過程の技術思想が 網羅できるわけでない。本章では下位概念としての数値限定特許に注目し、数値限定特許 の発明の構造化と権利化の意義を検討した。必須特許におけるコゲーション対策特許 4 件 はすべて数値限定特許として出願されており、4件で4つの数値含有量を持つ特性が整理さ れている。数値としては 4 つであるがこの背後には数百に上る染料をスクリーニングした 開発活動が存在する。キヤノンの知財活動が行ったことは、膜沸騰メカニズムで明らかに なった技術を背景に、公知であるインク技術に数値限定発明による数値の網をかけたと理 解できる。数値限定発明はその性格上先行特許の存在を前提とした下位概念の権利化であ り、製品開発過程から考えれば、数値限定発明は少なくとも最上流過程ではないといえる。
コゲ―ション対策特許の出願にみるように上位概念の特許と下位概念の数値限定特許を併 せて取得することにより、公知の技術に網をかけて自社技術として取り込んだり、自社の 出願の上位概念の権利化を下位概念で補強しているとしたらキヤノンの権利化の成果は、
上位概念から下位概念に至るまで隙間なく存在することになり、後発企業が同じ技術領域 で権利化を行うことは、難しいものとなろう。
この発見を確認するために、5節では含有量をキーワードとして出願件数の多い企業を分 析した。キヤノンその中でも含有量を含む出願を多数行っており、数値限定発明の出願件 数が多い可能性が示唆された。これが3 章 2-2節で記述した富士ゼロックスの知的財産部 部門がキヤノンの知財活動を評して、技術を面として捉えているため他社から見るとスキ がないという点につながる可能性もある。
6-3 知財は源流に入れの意義
3章で述べた通り、キヤノンの知財活動の水準の高さは他企業からも認められており、キ ヤノンの知財部門在籍者も「知財は源流に入れ」と繰り返し、発言している。
本章2-2節の太田や4章の5-2-2節の中島の発言「(上位概念だけで下位概念の特許を取 れなければ、どうなるのかという意味で)そうなるとドンと真ん中を抜かれてしまう」から みれば、キヤノンの開発者も知財活動における発明の構造化の意義を十分に認識している ようである。
キヤノンのおける開発部門と知財部門は組織上異なる部門となってはいるが、対峙する ものではなく、本章でみてきたように知財活動は開発活動にいわば“溶解”や“浸透”す る形で協働を形づくっており、これが知財は源流に入れの本来の意義ではないだろうか。
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6 章 侵害品対策における開発活動と知財活動の協働
─インクタンク事件裁判を事例として─
本章の目的は、インクタンク事件の裁判経過を事例とし、侵害品に対応する知財活動が 企業が直面するタスク環境のみならず、一般的環境を直接に操作する環境操作の側面を担 っていることを明らかにすることである。