本稿で分析対象とするのはキヤノンのインクジェット事業化過程における知財活動と知 財活動と開発活動の協働過程を通じての組織運営の仕組み、協働の意義等である。対象期 間は、1970年代半ばから2000年代始めの約30年間である。
本節では、本稿が設定した研究の問いの分析対象として、キヤノンのインクジェット事 業化過程を選択した理由を記述する。
キヤノンは知財活動の先進企業として広く認識されており、新聞誌上でも知財活動の成 功企業としての立場から意見を述べたり(渋谷,2018)、知財部門在籍者であった丸島が大手 企業の知財活動をとりまとめた文献の巻頭言を述べる(企業研究会,2001)など知財活動の先 進企業としての立場を築いていることは、社会的にも広く認識されているといってもよい だろう。また多くのキヤノンの知財部門在籍者、開発部門在籍者の双方が知財活動の重要 性を認めており(丸島,2002,加藤,2010太田,2014,須川,2005)、キヤノンのHPや社史でも知 財活動が事業活動に貢献していることを一定の紙幅をとって記述されている(キヤノ ン,2012a)。
次にキヤノンのインクジェット技術を分析対象として取り上げる理由であるが、キヤノ ンにとってインクジェット事業化における知財活動が開始された時期は、1960年代のゼロ ックス社の特許網を突破して独自方式の複写機の開発の成功により知財活動及び知財活動 と開発活動の協働の礎がすでにできあがっていた時期である(キヤノン,2012a)。すなわちイ ンクジェット技術開発の初期から9知財活動に実効性があったとみなされていたと考えられ、
9 例えば2-2節で記述したように、キヤノンと同じくインクジェット開発を手掛けてきたエ プソンの知財部門では、2003年のインタビューで「恥ずかしい話だが、社内にはいまだに
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研究開発段階からの過程を観察するのに適した事例であると判断した。
本節ではキヤノンの知財活動を現時点で判明している量的成果と質的成果に分けて記述 し、他企業が高い水準にあるとみなしているキヤノンの知財活動の質的成果をもたらして いる要因を検討・考察したいと考えている。知財活動の質的成果に注目する意図は、下記 2-1 節で示すような量的成果では事業活動に貢献しているかどうかが見えにくいという側 面があるからである。しかし何を持って知財活動の質的成果を成功とみなせるのか、とい う基準を明らかにすることは、1章で述べたように知財活動自体の定義が定まっていない面 を考えれば簡単なことではなく、そもそも一律の基準で知財活動の質的パフォーマンスが 測定できるのか否かについても明らかにはなっていない。本稿は、このような理由から単 一事例としてキヤノンの知財活動の全体像を把握し、発見事項をモデルとして導出するこ とを目指している。
また対象とする期間は1970年代半ばからと現時点から40年以上遡ることになるが、社 会科学の中範囲の理論に貢献することを目的にモデルの導出を試みるにあたって、企業マ ネジメントが当時の時代環境や産業構造からの影響を受けることはやむを得ない面があり、
それは相対的に新しい事例を取り扱ったとしても同様である。この点においても重要なこ とは採り上げる事例の時期ではなく、導出するモデルがどのような事象から発見されたも のであるかをできる限り丁寧に記述し、本稿の主張する論旨とどのように結びつくのかを 明らかにすることであろう。本稿ではこの点に留意して記述を行っていきたい。
ライバル企業の特許出願状況を調べもせずに新製品を発売して訴訟を起こされたり、不利 なライセンス契約を勝手に結んだりしている事業部が後を絶たない」と述べている。こう した企業はエプソンだけではなく、大手企業においても多数存在するのであろうが、外か らみてどの知財活動が成功であり、失敗なのかは判断が困難である。そのため大企業のな かでも、企業自身が自身の知財活動を成功していると認識しているキヤノンを分析対象と した。
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2-1 キヤノンの知財活動の量的成果と知財部門の活動規模
図表3-1は登録特許件数の上位10社、図表3-2は知的財産担当者の人数の規模を示した ものである。
図表3-1により2016 年の特許登録件数を企業別に見ると、第 1 位はキヤノで4,095 件、
第 2 位はパナソニックIP マネジメント株式会社で 4,046 件、第 3 位は三菱電機株式会
社で4,042 件であり、集積型製品である電機と自動車関連企業がトップ 10 の過半を占め
る結果となっている。
図表3-2は、業種別の知財担当者数(1社あたり平均値、人)であるが、キヤノングループ 全体で知的財産関係の仕事に従事している人員数は2014年時点で700 名を越えており(赤 間,2015)、突出した水準にある。
図表3-1 2016年 特許登録件数 上位10社
順位 前年順位 出願人 登録件数 1 2 キヤノン 4,095(3,717) 2 7 パナソニックIPマネジメント 4,046(2,198) 3 3 三菱電機 4,042(3,364) 4 1 トヨタ自動車 3,717(4,614)
5 5 富士通 2,399(2,339)
6 9 デンソー 2,374(2,024) 7 6 セイコーエプソン 2,281(2,264) 8 10 本田技研 2,144(1,934)
9 8 リコー 2,142(2,053)
10 20 JFEスチール 1,787(1,206)
2017年特許行政年次報告書をもとに作成 登録件数( )内は2015年登録件数。共同出願は、それぞれの出願人でカウントしている。
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図表3-2 業種別の知財担当者数(1社あたり平均値)(人)
平成28年知的財産活動調査報告書
2-2 キヤノンの知財活動の質的成果
知財活動の成功を測るに何を持って成功とみなすのかは困難であるが、キヤノンの知財 活動は次のように他の大手企業の知財部門にも認められており、早い時期から質的に高い 水準にあると考えてよいとみられる。
セイコーエプソン 真関優 知的財産部長
「恥ずかしい話だが、社内にはいまだにライバル企業の特許出願状況を調べもせずに新製品 を発売して訴訟を起こされたり、不利なライセンス契約を勝手に結んだりしている事業部が 後を絶たない(川上,2003,p58)」
「今からキヤノンと同じことをやって勝てるとは思っていないが、知財戦略を重視するキヤ ノンのような風土を作り、事業部間のレベルの差を埋めることが最優先(川上,2003,p58)」
セイコーエプソンは、また自社の知財部門の組織的な力に関して、本社の知財室はスタ ッフ数150 人しか在籍しておらず、この人数ではすべての事業部の開発現場に入り込んで 特許戦略を一緒に組み立てていくことができないこと、これは知財関連の法務スタッフが 全社に400 人もいるキヤノンとは、比べ物にならない貧弱さであり、キヤノンの知的財産 戦略を見習いたいとキヤノンの知財活動を評価している(川上,2003)。
30 富士ゼロックス 小田冨士雄・知的財産部長
「キヤノンの特許申請はスキがない。技術を“点”ではなく“面”で表現しているので、後 で類似商品をぶつけようとしてもどこかに侵害してしまう。よほど技術に長けた特許担当者 が出願書をまとめているのだろう(山川,1995,p54)」
ここでセイコーエプソンがと富士ゼロックスの知財部門が述べている自社の知財部門の 問題点及び指摘しているキヤノンの知財活動を評価しているポイントについて考えてみた い。
セイコーエプソンが自社の問題点として述べているのは、競合先の先行特許を調査せず に製品を販売してしまったり、不利なライセンスを勝手に結んでしまうといった事業部門 の独走及び知財部門の人数の不足及び組織的に低い位置付けである。ここからは同社の知 財部門と事業部門が対等な関係に位置付けられているとは考えにくいこと、知財部門の意 見を製品開発過程に取り組む仕組みが十分とはいえないのではないか、という点が推察で きる。本稿ではセイコーエプソンが指摘するような部門間のパワーの問題や意見を統合す る仕組みについて4章で検討する。
富士通ゼロックスがキヤノンの知財活動の強みとして指摘しているのは、権利化におけ る知財部門の技術的知識を背景とした出願書類の水準の高さである。本稿ではこの点につ いて、5章でキヤノンが出願した特許公報を事例として検討する。