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『石川・福井支部新年総会報告』

 昨冬は師走からの大雪で、屋根の雪下ろしや ら道路の除雪やら大騒動であったことに比べ、

今年は一転して暖冬小雪との長期予報が大当た りとなり、雪の高田も形無し状態。正月早々に 庭で蕗の薹を摘み、蕗味噌を賞味することが出 来た。その分、西日本―関東・東北、北海道と いうよりは新潟を除く日本全体が寒気と降雪に 見舞われ、馴れない雪の始末に悪戦苦闘された 同窓諸氏も居られたことと遅ればせながらのお 見舞いを申し上げます。

 年男となってしまった本年、若さだけを自慢 にしていた小生もいよいよ林住期をまともに迎 えることとなりました。しかし、益々多くなる 町役ボランテイアの負担に辟易しており、負担 軽減策必定の今日この頃である。3年前よりの 町役の一つに教育委員会より任命され中学校の 学校運営の改善や児童生徒の健全育成に取り組 む学校運営協議会委員がある。その委員として の役割の中で、家庭側;児童生徒にやる気を促 す家庭教育環境欠如の問題、学校側:生徒の教 育指導以外の事務雑用にかまけ、教育指導環境 の質的低下の問題、等々所謂、「ゆとり教育」

政策で失われた15年が児童の学力低下に及ぼし た影響の大きさを実感している。「人材資源一 等国」を目指した教育指導方針への変換が、「ま

ほろばの美しい国」を孫、子の時代以降にも残 す為に何よりも大切であり肝要と思われる。

 申年は「今までの苦労が報われる」とも、「真 っ直ぐ伸びる」年とも言われ、縁起の良い年だ とか。アベノミクスの経済効果や安全保障法制 はともかくとして、漸くゆとり教育も見直され 改善方向に進み始めたようでもあり、失われた 15年を一日でも早く取り返すべく国民的な意識 づけと取り組みが大切と思われる。セルロース ナノファイバー(CNF)やIPS細胞技術等々、また、

日本の将来を支える企業の日本回帰現象等、我 が国が進むべき本来の道筋が再認識され、見え てきたようでもあり慶賀に堪えない。

 一方で、世の東西南北を問わず大問題となっ ている貧困、人種問題、テロ・難民、地球環境 の悪化、等々日々報道される悲惨な状況は枚挙 にいとまがない。また、我が田舎では少子高齢 化、急速な人口減少が喫緊の大問題となってい る。「いまさら」どうしようもないと諦めるこ となく、「今からでも」、今なら間に合うという 気持ちで諸問題に向かい合いたいものである。

 私自身は、NHK深夜便の歌「時の旅人」の 歌詞のごとく、急がず緩やかに余裕を持った歩 みを目指したいものと考えている。

支部長より一言

信越支部長 

青 木 正 紘

(金属 昭和41年度卒)

《信越支部》

支部だより

信越支部 活動報告

1.H27年度活動報告

(1)会社見学会

  ①H27.6.26(金)長野市の長野日本無線(株)

を訪問研修した。

  ②支部役員の岡本篤さんのお世話によりプリン ト基板実装ライン、ソリューション・特機ラ イン、車載メカトロライン等を約1時間見学 研修した。

  ③長野駅前のホテル・メトロポリタンの籍を移 し参加者14名で懇親反省会を盛会裏に実施し た。

(2)仰岳会通常総会出席    7月11日(土) 於)京都

(3)信越支部第14回役員会    来28年度事業計画等審議決定

(4)信越支部第15回役員会

   信越支部総会日程他審議のあと新年会 2.平成28年度活動計画

  ①第4回信越支部総会

   5月22日13時~ 直江津駅前ホテルハイマートにて開催予定       ・総会議事

      ・講演会;講師:元富山大学工学部長 龍山智栄氏

      演題:時代を生きる「人間至るところ青山あり」  

  ②各支部交流会への参加   ③支部活性化のための活動展開

役 職 氏  名 卒業年度・学科 役 職 氏  名 卒業年度・学科

支 部 長 青木 正紘 昭和41・金 属

運 営 委 員

栂  常孝 昭和47・電 子

副 支 部 長 塩浦 時宗 昭和47・生 機 上原 康秀 昭和49・金 属

庶 務 篠宮 正敏 昭和53・機 械 水口 泰治 昭和50・化 工

岡本  篤 昭和56・修電子 安川 信二 昭和51・機 械

会 計 幹 事 西川 修二 昭和59・電 子 内山 照嘉 昭和54・金 属

運 営 委 員

西山平八郎 昭和36・金 属 宮田 敬介 平成4・金 属

諸江 宏明 昭和38・工 化 中島 克之 平成8・物 工

吉田  毅 昭和38・金 属

監 事 清水 文夫 昭和37・金 属

室田  浩 昭和41・電 気 松沢 信明 昭和51・金 属

田島 秀紀 昭和48・修金属

信越支部役員名簿

 

長野日本無線(株) 先端技術開発センターを背景に

 本年(2016年)3月26日に新青森から青函ト ンネルを経由して新函館北斗までの北海道新幹 線が開業する。そもそも青函トンネルは大正時 代から構想されていたが,1954年(昭和29年)

9月26日の台風15号によって青函連絡船・洞爺 丸が遭難し,死者・行方不明者1155名を出す大 惨事で一気に具体化した。この青函トンネルは 1963年(昭和38年)には在来線規格で着工し,

整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更さ れ,1988年(昭和63年)3月13日に在来線とし て営業を開始した。そして,この度の北海道新 幹線が営業開始となった。しかし,在来線(貨 物列車)との併用であるため,トンネル内での 速度が上げられないという問題がある。

 台風は北東北や北海道に到来するまでに減衰 し,大きな被害には至らないとこれらの地域の 人たちは思っているので,台風に対する対策は あまり取らないようである。青函連絡船・洞爺 丸が台風15号で遭難したのも,そのような甘い 考えによるものであろう。青函連絡船は青森と 函館を4時間で結ぶ航路(貨物列車も乗船)で あり,何度か利用したことがあるが,石川さゆ りの “津軽海峡冬景色” にあるように,風情の

ある連絡船であった。1988年の営業開始ととも に廃止になったことは非常に残念である。さら に,1991年(平成3年)の9月27日夜~28日早 朝にかけて台風19号が津軽を襲い,多くの電柱 が折れ,家屋が倒壊した。そして,たくさんの りんごが落下し,大きな被害を出した。このため,

この台風を “りんご台風” と呼んでいる。すな わち,数十年に1度は大災害をもたらす台風が 北東北や北海道に到来することを肝に銘じ,対 策をとっておくことが必要であろう。

 青函トンネル完成後,大量の湧水を汲み上げ る必要がある等,維持管理コストが大きいこと から “無用の長物” や “泥沼トンネル” などと 揶揄された。しかし,北海道と本州の貨物輸送 に重要な役割を果たし,天候に影響されない安 定した輸送が可能となった。特に,北海道の基 幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加し た。対照的に,鉄道による北海道への旅客は航 空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進ん でいる。このため,新幹線による旅客は津軽半 島の竜飛岬方面や函館周辺への観光旅客の増加 が期待できるが,札幌まで延びなければ,旅客 輸送量の大幅な増加が期待できないであろう。

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