第6章 総合考察
6.2 相互仮説形成過程と記号システムの質的変化
6.2.1 相互仮説形成過程
実験では,参加者らがやりとりを繰り返す中で,受け手が代替表現・身体表 現を類像的・指標的に解釈する初期段階から,代替表現・身体表現が組み合わ せて用いられることで,受け手が比喩的な解釈をするようになる段階への変化 が見られた(4.6 節).これは,初期の類像的・指標的な記号システムから,送 り手・受け手の両者にとって比喩的に解釈される記号システムへの変化と解釈 できる.
この変化には,推論モデルにおける送り手と受け手の仮説形成過程が関わっ ていると考えられる.推論モデル(Grice, 1975; Sperbel & Wilson, 1986/95) では,伝達は「意図された推論を導くような証拠の提示と解釈」からなる.す なわち,話し手が提示した発話を証拠として聞き手が解釈を行うことで,話し 手の意図を推論する.このモデルでは,字義通りの意味と言外の意味との間の 隔たりは,発話を証拠とした聞き手の推論によって埋められるという立場を取 る.
コミュニケーションにおける推論の重要性は,特に語用論的なレベルの意図
図6.2 擬人化の例
描画課題「柔らかい信号」(左図),描画課題「苦い太陽」(右図).
推定で繰り返し指摘されている.受け手の知らない対象を伝える超越的コミュ ニケーションでは,その場にも受け手の記憶にも対象が存在しないがゆえに,
互いに相手の想定に関する仮説を立てて推論することが不可欠である.
この描画コミュニケーション実験における相互仮説形成過程では,受け手は 送り手の描画から相手が伝えようとしている対象に関する仮説を形成し,送り 手は受け手の返答から,描画で伝えようとしている対象を受け手がどう理解し たかに関する仮説を形成する(図6.3).
4.6節で見たように,実際に受け手の知らない対象を伝えるコミュニケーショ ンが成功したいくつかの事例では,送り手は最初,受け手の知らない対象を表 現するのに代替表現を単独で使用していた.これは,メタファーが持つ既知の 対象から未知の対象を伝えるという機能を利用していると考えられる.しかし 受け手は,送り手の代替表現を最初のうちはicon表現として解釈していた.送 り手が単に代替表現を利用するだけでは,両者にとって比喩的な記号システム にはならない.
送り手は返答から, 受け手が送り手の表現をiconとして解釈していることを 知ることができる.受け手の比喩的な解釈を引き出すための試行錯誤の結果,
送り手はそれまで単独で用いていた代替表現と身体表現を次第に組み合わせて 使用するようになる.これは,関連する動作という注意を向けやすい対象を介 して,受け手が知らない対象の性質という注意を向けにくい対象に気付かせる,
図6.3 描画コミュニケーションにおける相互仮説形成過程
というメトニミーの機能を利用していると考えられる.その結果,受け手は両 方を組み合わせた表現を比喩的に解釈することができるようになった.したが って,代替表現と身体表現を組み合わせて使用するようになるという送り手の 表現方法は,受け手の理解をふまえた仮説形成過程の中で生じ,そうして生じ た送り手の表現が受け手の理解につながったと推察される.
この過程では最初のiconを利用した類像的な記号システムから,メタファー とメトニミーを利用した比喩的な記号システムへの質的変化が生じている.こ の結果は送り手と受け手が互いの意図に関する仮説を相互に形成するという相 互仮説形成過程の中で有契的意味拡張が理解され,その過程で記号システムの 質的変化が生じるという仮説2を支持する.
6.2.2 文化進化の伝達経路と社会的相互作用
この実験における類像的から比喩的への記号システムの質的変化は,コミュ ニケーションの送り手と受け手の間の水平伝達の過程で生じたものである.文 化進化には,子から子への同世代間での文化の伝達である水平伝達,親から子 への次の世代に文化を伝える垂直伝達,あるいは親以外から子への斜行伝達と いう3つの経路が考えられている.実験で行われたやりとりの繰り返しは,こ のうち同世代間での水平伝達に相当する.今回の実験では水平伝達の経路しか 調べていないが,Lakoff ら(1980)が指摘しているように,メタファーやメトニ ミーのような比喩は人間の概念体系の中核を担うものであり,類像的から比喩 的へという記号システムの質的な変化は文化進化の他の経路でも観察されうる 一般性を持つと考えられる.すなわち,水平伝達以外の経路でも同様の変化が 起きる可能性がある.
本研究で採用した実験パラダイムは,1.4 節で紹介した Butcher ら(1991) の研究のように,ホームサインを使用する子どもとその親とのやりとりと状況 が似ている.このやりとりでは超越的言及を行う子ども(送り手)と,ホーム サインという記号システムの理解者としての役割は果たすがその形成には積極 的に関与しない親(受け手)との役割が明確に分かれている.この点で,本研 究の実験パラダイムは超越的コミュニケーションの成立に関わる最小要件を調 べる枠組みとして妥当だと考えられる.
一方で,Fay ら(2003)の実験のようにペアの両者が記号システムの形成に
関与する条件は,1章で紹介したABSLのような“emerging”な手話の状況に より近いと考えられる.Meirら(2010)はその形成における社会的状況の違い によって,“emerging”な手話をさらに village 手話と deaf community 手話 の2種類に分類した.前者は比較的閉鎖的な,ろうの子どもが多く生まれる既 存のコミュニティで生じた手話であり,後者はそれぞれ異なる場所にいたろう の個人が,全寮制の学校などに集められて集団を形成した結果生じた手話であ る.ABSLは前者に相当し,ろう学校で生じたニカラグア手話(Kegl et al, 1999) は後者に相当する.
Village手話ではそれを第一のコミュニケーション手段として用いるろう者の
数は少なく,聴者もそのシステムを用いるものの,常に使用しているわけでは なく,言語的発明をもたらしにくいという特徴がある.Deaf community手話で は,第一言語としてそのシステムを使用するろう者の数はvillage手話よりも多 いが,その伝達はvillage手話や話しことばのように,家族を介したものではな い.言語の起源において,言語のもととなるような記号システムを第一のコミ ュニケーション手段とした,家族を介したコミュニケーションが行なわれてい たと想定すると,この2種類の手話の事例を比較分析することで,言語の進化 を考える上での重要な知見を得ることが期待できる.
ABSLのようなvillage手話では,集団内で共通の文化や社会環境が最初から
共有されているため,文脈や予想,知識が共有されており,コミュニケーショ ンが容易である.このような集団では相手が全く知らないような対象を伝える コミュニケーションの機会は限られている可能性がある.また,同じ知らない 対象を伝える場合でも,家族などの親しい相手に伝える場合とそうでない場合 とではやり方が異なる可能性がある.普段からコミュニケーションをとる機会 の多い相手では,そうでない相手と比べて事前に持っている共有知識が多く,
受け手の知らない対象であっても伝えやすいということはありうる.
一方,ニカラグア手話のような deaf community 手話では,各地から集めら れたろう者は多様な背景を持ち,集団を構成するメンバーの入れ替わりも頻繁 に生じている.そのような集団の手話では,体系的な言語構造が発達しやすい と考えられている.普段からコミュニケーションをとっていない相手であって も,その相手が知らない対象を伝えうるような記号システムの性質として,体 系的な構造を持つことは必要だと考えられる.体系的な構造を持つことは,送 り手の表現に受け手の知らない記号が含まれていたとしても,推測によりその
意味を同定することを可能にする.
超越性の進化について調べる上で,ABSLのようなvillage手話とニカラグア 手話のような deaf community 手話とで受け手の知らない対象を伝えるやり方 にどのような違いが見られるかを調べることは,事前の共有知識とは独立に受 け手の知らない対象を伝えられる記号システムをどのように形成できるかとい う点で興味深い.超越性の進化を考える上では,文化進化における伝達経路と そこで起こる社会的相互作用の種類が記号システムの形成に与える影響につい て,十分な検討を重ねる必要があるだろう.